8.ショコラ、希望を翳す。
何これ。そう呟いた声は心なしか震えていた。
朝、リプカさんと洗面所で着替えている時のこと。昨日の夜、エスが噛まれた場所を凝視していたのが気になってそこを確認してみると、赤紫色をした噛み痕がくっきりと綺麗に残っていた。
何故、昨日お風呂の時に気付かなかったのか。色々あって疲れていたのだろうか。
「あーそれね、龍族の噛み痕って数日残るのよ。ぶっ飛ばしてやろうかしら。元々ぶっ飛ばしに来てるから上乗せね」
数日も消えずに残っているだなんて、何か悪い冗談であってほしかった。リプカさんの方に振り向こうとすると、噛み痕を撫でられるのが鏡越しに見える。
「結構深いからなかなか消えなさそうね。……元気になったら、あの子に上書きしてもらいなさいよ」
上書き? それは、エスに噛んでもらうということだろうか。考えただけで顔に熱が溜まる。物凄く熱い。
「上書きすると前のはすぐ消えるのよね」
「噛んでって頼むんですか? それは、かなり、恥ずかしいような……」
「あら、昨日の夜恥ずかしいことしてたじゃない」
…………。ん? 昨日の夜?
「様子見に覗いてみたらお姉さんもびっくりよ。安心して。雄二頭は押し込んどいたから」
「見てたんですか!?」
リプカさんは美しい笑みで頷いた。穴があったら入りたい。出来ればもうそのまま出てきたくない。
なんてことなさそうに言われるけれど、あれは自分でもやってしまったと思った。エスだって普段は分かりづらい真顔を貫き通すのに、目に見えて困惑していた。
「あんな風に密着されて、純真な誘惑は罪ね。私なら、あのまま食べるのが正解だと思うもの」
刺激的な言葉が容赦なく撃ち込まれていく。もうダメだ。恥ずかしすぎて耐えられない。客観的な意見を聞く耳がもう耐えられない。へなへなと床に座り込む。
「大丈夫よ。あの子なら『噛んでほしいの』って言っても我慢してくれそうじゃない? ちなみにこれ龍族の雄を誘う時の常套句なんだけど」
何が大丈夫なのか。完全に誘惑になる言葉を言えるわけがない。私がそれを口にしたところで取り合ってもらえずに終わるのも目に見えている。
「それから、地龍族を助ける件についてはあまり賛同出来ないわ」
先程までと打って変わって、真剣な面持ちで落とされた言葉に「そうですよね」と返すことしかできない。
助ければ地龍族は元の力を取り戻す。そのまま、また争いが始まらないとは言い切れない。リプカさんが賛同出来ないなら、プロミネの意見も聞かなくても分かる。
何とか上手くできないものかと俯いた時、私を立たせながらリプカさんはやんちゃな笑顔を見せた。
氷龍族も、炎龍族もいるのだから別に構わないと。エスだって、ちゃんと最悪の場合を考えた上で私に選ばせようとしているのだと。
リプカさんも、そこまで考えてくれているんだ。エスも先のことを想定して私のわがままを叶えてくれようとしている。
皆、考えなしに突っ込んでいく私に優しすぎる。感謝してもし尽くせない。
「ねえ、ショコラちゃん、あの子達がもし国を立て直すとしても異世界に行くの? それは変わってないの?」
「えっと、はい。二人を逃がして、問題を解決して、この世界が平和になったら」
当初の願いだったはずなのに、口にすると『違う』と感じるのは何故だろう。私が望んでいくのではない。でも、行くのは決まっている。そんなよく分からない気持ちが沸き上がってきて、全身の血が急激に冷やされたような気がした。
「……エストレア、あの子は優しく大事に扱う程、後々手が掛かるわ」
意外なことを告げられて疑問符を浮かべる。むしろ、手が掛かるのは私の方なのに。エスに似合わない言葉だった。
リプカさんは続ける。龍族の王族など碌なものではない。今までに誰にも助けてもらえず、幼少期から地に足を着けて生きてきた雄は、今更『愛情』を受け入れられる程出来ていないと。
「そうならざるを得なかった均衡が崩れる時って、心も壊れたりするの」
「助けちゃダメってことですか……?」
「あの子にも地龍族にも言えることだけど、救われないから保てるものもあるわ。それでもショコラちゃんは助けるんでしょうけどね」
途轍もない決断を迫られている。冷えた血液が巡りを止めない。
助けることが均衡を崩す。それは過去の私にも起こったことのように思う。自分を助けてくれた異種族のエスを探し続けるくらいに、たった一度見ただけの眩しすぎる希望に縋ってしまった。
確かに、『初めて』優しく扱われた。それだけ過去の記憶だったのに、エスのことは覚えていられた。
だから私は浅ましくも、エスを仲間として手に入れようとしたのだから。
着替えを終えた私達は、朝食を摂って行動を開始する。昨日瓦礫の山だったお城は綺麗に元に戻っていた。実際目にすると気味が悪い構造だと思う。
プロミネとリプカさんが二人で奇襲をかけた結果、中にはまだ誰もいなかったらしい。その為、私達三人と炎龍族の二人とで分かれてベルクを捜すことになった。
とは言え、捜すと言っても手当たり次第だと日が暮れても見つからない可能性もある。二手に分かれても国は広い。
いっそお城の前で待機していた方がいいんじゃないかというティエラの意見も、出ているところで話に持ち込まないと昨日の二の舞になるかもしれないというエスの意見も出てくる。どちらも分かる。
灰色の街並みを見続けていると気が滅入る。たまに出歩いている人もいるけれど、話し掛けるとそそくさと逃げられてしまうことが続いて、情報収集という手が使えないのは早い段階で分かっていた。
手詰まりだ。四方八方似たり寄ったりな建物ばかり、これでは片っ端から回っても何処を潰したのかも分からなくなる。
暫く歩いていると街並みが途切れた。代わりに小高い丘がある。
歩を進めていると突然足元に草花が生え始めた。その急速な成長は自然のものではない。街や山よりも少しだけ潤った土の上、みるみるうちに草花が生い茂っていく。
樹属性魔法、だと思う。ここまで広範囲に渡って掛けるのは、私程度の魔力量なら出来ない。
樹属性魔法は氷属性魔法と同じで発動に時間がかかる上に、ひどく魔力を消費する。こんなことが出来るのは相当の魔力の持ち主だけだ。
誰がかけているのかと、緑に埋め尽くされた丘を登った先には、夥しい数の墓石があった。
墓場の中を通っていくと、一つ一つの墓石の近くに細やかだけれど綺麗な花が咲いていく。一見すればお花畑にも見えないこともない墓場の雰囲気は異様なものだ。
一際大きな墓石が目立つようになってきた時、緑に埋もれている二種類の灰色髪を見つけた。
淡く薄緑の光を放ち続けているベルクにペトラが魔力を上乗せして魔法を掛けている。先に私達の存在に気が付いたのはペトラだ。目が合うとそっと微笑まれる。「こんなところまで捜しにきたのか」と呆れ気味のベルクが魔法を中断した。
「土を蘇らせるには、水属性だけあればいいんですか?」
単刀直入に切り出すと、案の定ベルクは眉をひそめる。ひどく不可解そうだ。
「あのね、妖精さん。その水属性だけがないものなんだよ」
「私、水属性持ってます」
地龍族の二人は同時に目を見開いた。
私も水属性がないことには驚いたけれど、それよりもまさか本当に、水が足りないだけだとは思わなかった。
「魔力量が少ないので、蘇らせるとしたら何日も掛かると思いますけど、それでもいいなら――」
「貴様、何が狙いだ」
警戒心を剥き出しにするベルクに、狙いも何もないと、私に限って謀っているなんてことはないと、気乗りしていないはずのエスとティエラが背中を押してくれる。
水属性がある事実を見せる為に、二人の目の前で手を器にして水を溢れさせた。持っているとはいえ、私が国全体の土を水で満たすまでの道程は大変なものだと思う。
「もしもこの地が元に戻れば、我等地龍族も元の力を取り戻す。その時に一堪りもなく殺されるとしたら、貴様はどうするつもりだ」
ちゃんとそこまで考えている。相変わらず、私の考え方は理に敵ったものでもなければ、子どもの希望みたいなものだけど。
「私には心強い仲間がいます。だからその可能性があったとしても、私達が勝ちます」
ベルクは私に合わせていた視線をエスとティエラに移動させる。
固い沈黙の時間が数秒、「そうか」と一言零したベルクは、その威厳を堪えたかんばせを破顔させた。口角を上げるのみのそれが、至極嬉しそうに見えた。




