◎4.エストレア、感情に苛まれる。
感情が人型らしさを形成し、同時に獣らしさを加速させる。
近頃のエストレアはそれを痛感していた。
残された文献によると、龍族は人型を得る程の進化を遂げた頃には、通常期の獣欲が著しく減退していたらしい。
長寿で子を成す必要性が乏しいからか、人の理を壊さないように律した為か、理由は定かではない。
エストレアはそれを、理性的な通常期を過ごす龍達を視認してきた幼少期の記憶、そして成長を経て自身も当て嵌まる事例だと落とし込んでいた。
種族自体を、自分自身を厭っていた為に、全ての欲求が低かったエストレアには都合が良いと思うこともあった。
弟を無事に育てあげる以外には不要なこの命だから。
そんな無機質な思想とは裏腹に、動物的な欲を呼び覚ます少女に出逢ってしまったのだが。
通常期が理性的であるのは、あくまで無妻の雄龍に限定されるもので、唯一の番いを決めると簡単に崩れ去る法則だ。
罷り間違っても番いを持つ日は来ない。そんな冷めきった考えを一瞬にして覆す罪深い存在に、現在進行形で己の燃え滾る欲に悩まされている。
他の雄龍よりも感情稀薄で心無いと囁かれ続けてきたが、エストレアも他の雄龍と何等変わりない。
むしろ、機械的な理性に抑圧されていた分、解放された感情はどんな雄龍よりも重かった。
元より獣である龍は、人型の種族よりもずっと本能に忠実な動物だ。『好き』になった雌が傍にいて待てが出来る高尚な生き物ではない。
初恋と最愛が同時に訪れた雄龍は、強い恋情から来る精神的な快感に全く耐えられていなかった。
とは言え、番いである少女が今誰よりも頑張っているのに、自分が怠けるわけには行かない。
少しでも気を抜くと、少女を愛した後の充足感を思い出す程には脳が溶けているが、ただでさえ追い付けない少女にこれ以上置いて行かれるわけにはいかない。
地龍族の城の一室にて、地龍の王である男が宙に魔法で文字を書き綴り、振り返っては問う。
城とはなんだ、と。
今机に向かっているのはエストレアとその弟だ。指し示された弟は、「砦でしょ?」と瞬時に回答する。
男は「正解だ」と口角を持ち上げると、弟の前までやってきてその白銀の髪を容赦なく撫で回した。
確か、この男も約十年もの間養子を育ててきたはずだが、力加減は学んでいないのだろうか。弟は「うわあああ」と声を上げつつ、脳震盪を余儀無くされている。
窓から射し込む赤い光を眺めて、エストレアは静かに溜め息を吐く。
夕刻、珍しく弟が此方に足を運んだかと思えば、ちょうど手の空いていた男に二頭揃って捕まえられてこの状況だ。
男が自ら教えを授けてやると宣った際には、「うわー有難いね」と弟はいつもの明るい声で応えていたが、疲れからか素直になっているその顔には『早く帰りたい』と書いてあった。右に同じだ。
「では何故、貴様らの城はあれほどに脆かったのか」
これは授業ではなく説教の間違いではないのか。
年長者の考えることは、まだ若いエストレアには分からない。
「自分達の力を過信して、予算を割かなかったから」
「その通りだ若造。実に愚かしく甘い龍達であったな」
男が目の前に移動してきた瞬間に、嫌な予感は的中した。充分大人の自分の頭まで撫でられている。
思えば、あの養子はエストレアと同い年だったか、ならばこの男からすれば自分も子ども同然か。
面倒なので甘んじて受け止めるが、何せ首が痛い。迷惑極まりない。
「貴様らいいか、よく聞け。城とは最後の砦だ。たかだか隕石の百発や千発、食らった程度で崩落するようではただの家屋に過ぎん」
めちゃくちゃなことを言われている。
砦であるのは間違いないが、地龍族の最上級の攻撃を何千発も食らって無事な建物とは、一体どんな装甲になるのか。
エストレアの盾を四六時中張るのが現状最強の装甲だろうが、魔力には限界がある。まず不可能だ。
「よって、私が直々に『永久不滅』の術式をその地に刻んでやろう」
男の得意気な台詞に血の気が引いていく。
まさか、あの気味の悪い術式を氷龍族の城にも施すというのか。あまりにも嫌過ぎる。エストレアが隣を見れば、弟も青い顔をして首を横に振っていた。
男が席を外してから、何とか阻止出来ないものかと弟と相談していた時、不意に少女の魔力を感じて振り返った。
いつから此処にいたのか、少女はあの男の養子と仲睦まじく会話を繰り広げていたと思うと、大きな金属の塊を渡されて嬉しそうに笑っていた。
「ミスリルだよね、あれ」
弟が口にした通り、少女の手の中の塊は魔導金属であるミスリルだった。
青みがかったそれは、銀に分類される金属でありながら非常に硬く、化学変化もしづらい。それでいてありとあらゆる伝導率は最高値と、性質の利点のみを引き継いでいる金属だ。
少女は此方に見向きもせず、ミスリルの塊を抱えて、笑顔で養子に手を振ると走り去っていった。
「何に使うんだ」
恐ろしく不満げな声音の呟きが零れた。
元より縄張りの習性に則り、少女が他の龍族に施しを受けるのを良しとはしていないが、これはまた別の感情だ。
帰宅後と起床時の短時間にしか顔を合わせない生活を送っているせいか、欲を律するのが難しくなっている。
まるで駄々を捏ねている子どものようだが、エストレアは少女にただ一度此方を見て欲しかった。
「ミスリルについては伝えられないが、総括して貴様の杞憂であるのは違いない」
気配を消して戻ってくるのはやめてほしい。
小脇に幾つかの魔法陣が描かれた書類を携えているが、エストレアはそれを見て見ぬ振りをした。
先程の術式に関するものだろうが、その相談には応じない。
「僕もにーちゃんみたいに、大人になってから子どもになるのかなー」
どういう意味なのかと、問うまでもなく自覚がある。
少女を番いと決めてからの自分は、言い逃れようもない腰抜けだ。前触れはあったが、まさかここまで溺れてしまうとは思いもしなかった。
「番いを得た全雄共通の状態だ。これはまだ表面上はマシだがな。小娘も酷な真似をする」
「その前に、あいつに酷を強いたのは俺だ」
復興前の国の王の番い。そこに縛り付けたのは紛れもなくエストレアであった。少女にとって得るものは何もない状況、これ以上ない受難だろう。
それでも変わらず笑顔を向けてくれるが、エストレアには精一杯目の前の困難に立ち向かう以外にしてやれることがないのが歯痒かった。
最初から自分を選んでくれていた少女を、この手で幸せに出来るまでの道程は至極遠い。
「巻き込んだ以上、立ち止まっていられない」
自分は不安なのかもしれない。
手にしたものがあまりにも甘くて温かくて、味わってしまったからには失うのはとても恐ろしくて。
だから、ここ最近は全力疾走を止められないのかもしれない。
「時代は長らく停滞していた。あまり急いて突き進まれても、私含め皆置き去りにされるが」
「そうだよ。もっとゆっくりしたらいいのに。やっと幸せと向き合ったのに、にーちゃんもショコラも仕事と勉強ばっかり」
エストレアとて、仕事と勉強ばかりしたいわけではないのだが、そうしていないと今にも少女を二度と部屋から出られない状態にし兼ねない。
何重もの意味での戒めが今の状況を作り出している。
「はっきり言うが迷惑だ。私は暇だから貴様らを憎んでいられたのだぞ。これでは碌に花の世話も出来ん」
「僕も今に脳みそ爆発するよ。無理ー。この速度で大丈夫なの、にーちゃんとユビテルくらいだからね?」
いつ手を組んだのか、男と弟は畳み掛けてくる。
基本的にエストレアは強く押せば折れる。それを知っていてか、男と弟は「ペトラと気晴らしに従騎士達に稽古を付けた日は屍が累々と横たわる惨状になったな」「プロミネがまた仕事が嫌で失踪したらしいよ。勿論その日の内にリプカに捕獲されてたけど」とそれは自分のせいではないのでは、という内容まで聞かせてきたが、否定をさせてもらえる雰囲気ではなかった。
こうも詰め寄られると、エストレアも素直に口を開かざるを得なくなる。
「……俺だって、してもいいなら引きこもりたい」
少女と暫く二人きりで引きこもりたい。
それこそ、少女の身体に龍族の種が馴染んで芽吹くまでは離したくない。実際に掛かる時間を考えると到底させてはもらえないだろうが、気持ちとしてはそれくらい強い。
少女がこの手にある確固たる証が欲しい。
そこまで考えて意識を引き戻すと、男と弟は何やら相談し合っていたようだが、あの術式に関してならば却下だ。
甘いと言われようが、この先争うつもりがない地龍族への対策は要らない。未来永劫争わない約束ならいつでも結ぶ。
今はそれよりも――
「頼みたいことがある」
二頭の会話を割って、エストレアは男に向き直る。
非現実的な方法は追々実現させるとして、今すぐ作れる証を用意するべく助力を求めた。
まずは、誰よりも自分の為に。少女との幸せな未来の為に。