◆2
長方形の広いテーブルに、5つのイス。テーブルの上には既にいくつもの料理が並んでいた。
お味噌汁の良い香りが鼻をくすぐる。明らかにうちで使っているのより良い味噌だ。ぜったい。
しまった席がわからないと思ったけれど、テーブルには食事のセットが3人分しか並んでいなかったので、それとなくお兄さんが席につくのを待ち後から来たお母さんがお皿を置いてくれた雰囲気でなんとなく彼の席を推測した。席についた時何も言われなかったので、間違ってはいなかったようでほっとした。
席につく際に彼のお母さんと目が合った。やわらかくウェーブのかかった髪を肩元でまとめていて、レースの付いたエプロンが良く似合っていた。なんとなく、うちのお母さんとは正反対だなと思う。
目が合うと柔らかく笑ってくれて、なんだかいたたまれなかった。笑い返すべきかを迷ったけれど、とてもそんな器用なことをできる余裕はなかった。
隣りの席のお兄さんがお母さんからお味噌汁のお椀を受け取りながら、口を開く。
「…父さんは?」
「少し遅れるみたい。今日は講演会があるって言ってたから」
あたしの真向かいの席に座りながら、お母さんは明るく笑った。
「先に頂いちゃいましょう、冷めちゃうわ」
その言葉にお兄さんも静かに頷き、自分もそれとなくそれに倣う。
「いただきます…」
手を合わせて呟いたあたしを、隣りのお兄さんと目の前のお母さんが見ていた。だけどあたしはそれどころではなかった。
自分のすぐ目の前にある箸置きに置かれたお箸を見やる。食卓に並んでいるのは、和食だった。反射的に伸ばした右手を、急いで引っ込める。
忘れていたけれど、彼は、この体は左利き。そしてあたしは右利きだ。
入れ替わった際に右手を使おうとして何度か失敗したことがあるけど、“あたしの感覚”で彼の右手は使えない。やはりあくまで体は、彼なのだ。
だけど彼の体の感覚に任せて左手を使うのも、“あたしの感覚”では上手くいかなかった。あたしはあくまで、あたしなのだから。
とりあえず左手でお箸を持ってみる。持つだけならば、なんとかなった。だけど上手く持てない子供みたいな不恰好な持ち方だった。こんなのどう見てもおかしい。
これじゃあ持てても、使えない。魚の骨を分けるどころか、豆ひとつ捕まえられない。
ここ数年に一度ってくらいの冷や汗が滲む。緊張も相俟って、食事が始まって数分経つのに体が動かなかった。
やっぱり赤の他人になりすますなんて、ムリだったんだ…!
「陽太」
「は、はいっ」
すぐ隣りからいきなり呼ばれて、思わず持っていたお箸をカシャンを取り零す。
今返事を返した自分を褒めたいくらいだ。その名前で呼ばれたことに反応した自分を。
あたしのその挙動不審な様子に、目の前に居たお母さんの視線もまっすぐ自分に注がれていた。気まずくて思わず俯く。右手の手首がじくりと痛んだ。
「お前、左手ケガしてたんだろう。ムリして使うな」
「え…っ」
突然のお兄さんの言葉に、思わず顔を上げる。お兄さんと目が合ったけれど、お兄さんはやはり無表情だった。
「まぁ、そうなの?」
「え、あ、その…」
右手に巻かれている包帯は上手く隠してあるけれど、左手に傷は見当たらない。痛いわけでもない。
上手く言葉を発せずにいると、お兄さんが隣りで続けた。
「後で手当てしてくれって頼まれてたんだ。母さん、フォークか何か」
「そうね、お箸じゃ食べづらそうだものね」
言ってお母さんはすぐに台所に行って、彼用のフォークを持って来てくれた。
「ムリしなくて良いのに」
「あ、ありがとう…」
差し出されたフォークをおずおずと受け取った時だった。
「…父さん」
隣りのお兄さんの呟きに、体が凍る。思考も神経も一瞬停止し、それからなんとか視線を動かしたその先に、彼の、お父さんが居た。
テーブルの、4つの席が埋まる。
帰ってきた彼のお父さんは、お兄さんの向かいの席に座った。椅子はひとつ空いたままだったけれど、これで家族は揃ったことになった。
彼のお母さんはお父さんの食事の支度をしに席を立ったので、食卓には3人だった。
お兄さんは変わらず無表情だったけれど、家の主が帰ってきたからか、箸を置いて食事の準備が整うのを待っていた。あたしもフォークを持ったまま、それに倣う。
お父さんはネクタイを緩めながら、ゆっくりと口を開いた。
「晃良、明日の午後はちゃんと空けてあるのか」
「都内病院長の学会ですよね。ちゃんと覚えてますよ」
「新設した病院の挨拶もあるらしい。お前が挨拶しておくんだ」
「…わかりました」
淡々と交わされる会話はやけに低調なように感じた。お父さんは、お兄さんの方しか見ていない。
どうしてだろう。フォークを持つ右手が震えていて、それを隠すのに必死だった。
それからお父さんの食事の準備も整ったところで、食事は再開された。あたしも異様にドキドキしながらフォークを握りなおす。
「そういえば晃良、明日発表する資料は出来てるのか?」
「午前中の内に父さんと役員の方にはメールで送っておきました。印刷したものは父さんの部屋の机に置いてあります」
「そうか。明日は午前中病院で会議があるから、私はその後会場に向かう」
「じゃあ先に行ってます。僕は朝の定期検診だけなので」
静かな食卓だと思った。
お父さんとお兄さんの会話が終わると、それ以外の音はまるで無いかのような。お母さんもただ静かに食事を口に運んでいる。“家族”の会話はまるで無い。
あたしは何故か殆ど体を動かすことができなくて。この場でフォークを使うこともできなくて。
どうしてだかわからないけれど、本当にぴくりとも、体が動かなくて。
ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
そうして沈黙の食事が数十分過ぎた頃、お父さんが一番に箸を置いた。お母さんが見計らったように声をかける。
「あなた、おかわりは…」
「いい。晃良の資料に目を通してくる」
言って、席を立つ。そしてわき目もふらずに部屋を出る。
あっという間に、“家族”での食事は終わった。
お父さんはこの部屋に入ってから一度も“あたし”を見なかった。まるでここにはこの席には誰もいないかのようだった。
「――陽太」
一番に口を開いたのは、やはり隣りに居たお兄さんだった。
「食べないのか」
そう言われて、漸くゆっくりと自分の手元を見る。お茶碗もお椀の中も皿に分けられたおかずも、まったく減っていない。
「た、食べ、ます…」
言葉遣いにも気を遣っていたけれど、思わず敬語が漏れた。それどころではなかったのでしょうがない。だけどお兄さんからもお母さんからも特に何も言われなかった。
ぐっ、と握り締めたフォークの感触を漸く感じるようになって。彼が、鈴木陽太が、自分のお父さんに対して抱く畏怖感を知る。
お父さんがこの部屋に入ってきた瞬間、まるで体が凍ったように力が入らなかった。
お父さんがこの部屋を出た瞬間に、体から一気に力が抜けるようだった。
その感覚は、自分にも覚えがあるもので。意外なところばかり似ているなと思う。
感覚が戻ってきたあたしは、フォークを握り直して目の前の食事に向き直る。ぎこちなくフォークで、お茶碗の中のごはんを一口、口に運ぶ。あたしの好きな栗ごはんだ。彼がどうなのかは知らないけれど。
それからお味噌汁もゆっくり口に含む。ごはんもお味噌汁もすっかり冷めていた。
お腹が空いていたのと、出されたものは全部食べる主義なので、目の前にあった食事は全部綺麗にたいらげた。彼の体は若干の抵抗を見せたものの、気合で食事を体に押し込む。体が彼に戻ったら吐いてしまうのかなと思ったけど、気にしないことにした。
隣りのお兄さんと正面のお母さんが、僅かに驚いた顔でこちらを見ていた。普段は殆ど食べずに残すと言っていたので当然だろう。だけどもう、そこはやっぱり、気にしないことにした。
彼のお母さんの料理はとても手の込んだものばかりで、どれも美味しかった。うちの大皿料理とはまるで違う。量もレパートリーも、食材も食器さえも違う。
広い家に豪華な食事。はたから見たら幸せそうな家庭だった。
だけどそこに、彼の存在は許されていなかった。
「ふふ、今日は珍しくたくさん食べるのね…日向」
嬉しそうに彼のお母さんは笑った。
彼はあの小さな部屋から出たら、生きていけない気がした。