◇3
◆ ◇ ◆
――ぼくはね、3兄弟の末っ子で、一番甘やかされて育ったと思う。
医者の家系に生まれ育って、小さい頃からもう、ぼくの将来は決まってた。それでも父さんの病院を継ぐのは一番上の兄さんだって誰もが疑わず、勿論ぼくもそれに不満はなかった。
一番上の兄さんは、それは優しくて聡明で、自慢の兄だった。我が家にとっても、一番の。
ぼくも兄さんが、大好きだった。
小学校にあがってから、この髪色を理由にいじめられるようになった。
段々勉強は手につかなくなっていって、学校に行きたくなくなっていって、それでもいじめっこ達はしつこくどこまでもぼくを追いかけてくる。
学校に行っているフリをして、サボるようになる日が続いた。
いじめっこ達はどこまでも追ってきた。
ある日ぼくは彼らから逃げるあまり、迷子になってしまった。日も暮れ、雨まで降ってきて…帰り道もわからず、寒くて凍えて死んでしまうかと思った。ぼくは泣きながら、見知らぬ公園の遊具の中で、一夜を過ごした。
一晩空けて警察に保護されてぼくが連れていかれた先は病院で…そこには包帯と管に巻かれた兄さんが横たわっていた。
兄さんはぼくを探して雨の中、事故に遇った。
手術後一命はとりとめたけれど、兄さんは右半身の自由を失った。視力もほとんど見失った。
兄さんは目が覚めてから3日後に、自殺した。
ある日学校に行くと、ぼくの国語のノートに「ヒトゴロシ」の文字が書かれていた。全ページにびっしりと。算数のノートには「右手が動かない右足も動かない」と。理科のノートには、「目が見えない目が見えない」と。そして連絡帳には「死ねばいいのに」と、一言だけ。赤いインクを垂らしたような、いびつで歪んだ文字だった。
だけどノートに書いてあることは全部事実だった。
教室のあちこちから、くすくすと笑いが漏れていた。昼間なのに教室内は薄暗く、カラスみたいなふたつの目が、いくつもギョロギョロと光っていた。
地元の名家の跡取りである長男が自殺したニュースは新聞にも載り、その新聞の切り抜きが紙ヒコーキになり、学校中を飛び回っていた。でもその紙ヒコーキが描く軌跡は場違いなほどに綺麗だったから、天国の兄さんに贈ることにした。
今から10年前の話。
ぼくは今年、兄さんが死んだ年齢になった。
神様に会えるなら訊いてみたい。どんな基準で人を分けるのかを。その価値をどこで決めるのかを。
そして確認するんだ。
ぼくはきっと17歳を迎える前に、そこに行くんでしょう?
…それとも、地獄だろうか。
それでもいい。ここに比べれば。
◆ ◇ ◆
「……ぼくはきっと、生きる資格なんかない…」
言った言葉が長い廊下にやけに響いた気がした。
もう校内に生徒達の気配は一切ない。それどころか世界には、ひとりきりのような気さえした。
そんなバカみたいなことを思うときは大抵、もうなげやりになっている時で。後悔と自責と畏怖と絶望とが、綺麗に混ざりあってぼくを動かすんだ。
そして――…
ぎゅ、といつものように自らの手首をきつく握る。そこに馴染んだぼくの痕はなくて、ようやく自分が今、月子ちゃんの体に居ることを思い出した。
薄暗い視界が少しだけ光を認識し、ゆっくりと顔を上げる。
自分で話しながら、呑み込まれてしまっていたんだ。いつもみたいに。
「…あたしには理解できないわね」
隣りで月子ちゃんが、ぽつりと呟いた。その感想は月子ちゃんらしいなと思ったら、少し笑えた。
解り合えないことには慣れていた。
「…いいんだ、解ってもらえなくたって」
「あなたのことじゃないわよ。あなた自身のことは、あたしがどうこう言う問題じゃないでしょう」
「……へ」
「そのクソガキよ、随分しつこいクソガキが居るんだなと思って」
「…え、…あ、いじめっこのほう…?」
「まぁ、あっち側の心理なんて理解できなくて当然なのよね。立場が逆なんだから」
それはぼくも思った。ぼくも同じこと、思ったよ。
「…ふふ」
なんだかぼくは少し拍子抜けして、思わず笑ってしまった。月子ちゃんはそんなぼくを見て、少し顔をしかめたけれど、気にならなかった。
ぼくだったらこんな重たくて暗くて面倒くさい話されたら、絶対ひく。だって関わったって、良いことなさそうだもん。実際きっと、ない。
だけどぼくらは、ぼくらの意思を全く無視して、関わりあってしまった。月子ちゃんがこうして隣りでぼくの話に付き合ってくれるのも、仕方が無いのだ。だってぼくは月子ちゃんで、月子ちゃんはぼくなんだもん。そう思うと少しだけ気楽に思えて、可笑しかった。
この場所で笑うなんて、想像もつかないことが起きた。それだけで充分ぼくにとっては“奇跡”みたいだと思った。月子ちゃんはきっと呆れるだろうから、口には出さないけれど。
「ほんと、だよね…しつこくて、イヤになる」
言いながら薄く笑って、睫毛に残っていた滴を指先ですくう。小さな指先の小さな滴は、窓の外の光に反射してキラキラしてた。
これはぼくのじゃなくて月子ちゃんのだから、そう思えたのかもしれない。不思議とぼくの目で見るそれと月子ちゃんの目で見えるものは、違った。視力云々は置いておいて。
ぼくの都合の良い変換フィルターに過ぎないのだろうか。
月子ちゃんの体に居るとほんの少しだけ、世界の違った見方を知れた。
だけど世界が変わるわけじゃないことも、わかっていた。
「ずっと…ぼくはそいつが怖くて、仕方ないんだ」
「……ずっと…?」
「うん、ずっと。…そいつの名前は、桜塚健太」
「……桜塚、って…」
月子ちゃんの言葉にぼくはこくりと頷いた。たぶんこの学校の誰もが知る名前だから。
「この学校の理事長の孫だよ。ぼくはそいつと初等部の頃から、ずっと同じクラスなんだ。…イヤになるくらい、ずぅっと」
桜塚健太は、ぼくと月子ちゃんのクラスメイトで、そしてこの学校のリーダーだ。
この学校はずっと、彼の都合の良い遊び場だった。そしてぼくはずっと、彼の都合の良い玩具だった。
「…なるほどね。これでなんとなく、繋がったわ」
「…? なに、が?」
「あなたとあたしを繋ぐ糸よ」
月子ちゃんは真顔でそんな冗談みたいなことを言うから、思わずぼくはドキリとした。月子ちゃんは全く何とも思ってないみたいだったけど。
「さっき、会ったんでしょう。 彼女、堀越恭子」
「え、ああ、うん…」
彼女の名前は知らないけれど、そういえばそんな名前で呼ばれていた気がする。ぼくらの間で共通の“彼女”はきっとひとりしか居ないから、間違いないだろう。月子ちゃんをいじめている人の名前。
「その桜塚の彼女なのよ。まったくもってお似合いの組み合わせよね。…あたしは特待生として奨学金制度を受けて高等部からこの学校に入ったけど、それからずっと、彼女はあたしが気に入らないみたい。理由は未だに、わからないけれど」
「……!」
あまりの事実に、言葉を失う。
ぼくらの共通点は、“いじめられっこ”だけでなく、なんと“いじめっこ”までおんなじだったのだ。
確かにぼくらの糸は繋がった。あの日、あの時間に、あの場所で。
「桜塚健太か…あたしも何度か会ったことあるわ。名乗られてもいないし肩書きしか聞かないからフルネームは知らなかったけど」
「そ、う…月子ちゃんも会ったこと、あるんだ…」
それは流石に予想外だった。だけど改めて考えれば納得のできることだった。
昨日、屋上にはきっと堀越恭子が居て、そこには桜塚も居た。だから月子ちゃんが居たんだ。そして、ぼくも。
「まぁ、これでだいたいお互いの状況は掴めたわね」
言って月子ちゃんは、おもむろに立ち上がる。その動作を目で追いながら、ぼくも続いた。
「だからといってあたし達がこうなった原因がわかるわけでもないけど。またこれ、寝たら戻るのかしら?」
「ど、どうだろう、ね…」
確かにぼくらには共通点があるようだけれど、でもどちらかというと異なる点のほうが多い。
ぼくと月子ちゃんは正反対だと思う。いろんなものが。
どうして、ぼくと月子ちゃんなのだろう。やはり同時に衝撃を受けたから?
「あとはせめて、入れ替わるキッカケとかひきがねが分かると対処のしようもあるんだけど…こうなんの前触れもなく入れ替わられると、困るわ」
その言葉にぼくは内心ぎくりとしつつも適当に相槌を打つ。だってぼくには、前触れがあったから。 なんとなく心当たりが、あるんだぼくには。
一番最初、階段から転げ落ちたとき──そして、今回。入れ替わった時の状況を思い出して、共通点を探してみた。それは意外と簡単に見つかった。
ぼくが“逃げたい”と、思ったときだ。
あの日も、そして今日も──。
でもそれはあくまで推測でしかないし、確証があるわけじゃない。だからまだ、月子ちゃんには言わない。というか、言えない。
もしそうだとしたら、入れ替わりの根本の原因はぼくだってことになる。他人を巻き込んでまで、逃げようとするなんて──
「…ねぇ」
再び自己嫌悪の渦に呑み込まれそうだった時、月子ちゃんがぼくを呼んだ。はっと顔を上げると、すぐ目の前に月子ちゃんが居て、ぼくを見下ろしていた。
罪悪感からか、思わずヘンな汗が流れる。すぐまた逃げ出そうとする心が騒いだけれど、月子ちゃんからは、逃げられない気がした。
「あなたがさっき言ってた痛くない傷って、これでしょう?」
言って月子ちゃんは、右腕のシャツの袖をまくった。
その動作にぼくはぎくりと体を強張らせる。心臓がまた軋む。ああ、痛い。
そうだ、すっかりタイミングを逃してしまっていたけれど、月子ちゃんに謝らなければと思っていた。よりにもよって最悪なタイミングで入れ替わってしまったことに。いや断じて意図的にではないのだけれど。
それでもうしろめたさから、月子ちゃんの顔を見れない。声を絞り出すだけで精一杯だった。
「ご、ごめんなさい……!」
その手首には白い包帯が綺麗に丁寧に巻かれていて、ぼくの知る右手とは違った。あの部屋には包帯なんて無いから、きっと月子ちゃんが巻いてくれたのだろう。
「あたしには、自分で自分を傷つける人の気持ちはわからないけど…」
慣れているはずのそのセリフが、今度は胸に刺さった。慣れていた、はずなのに。
「あたしには、痛いみたい」
月子ちゃんは怒るわけでもぼくを責めるわけでもなく、右手のシャツの袖を戻しながら、いつもの落ち着いた口調で言う。
「……え…」
一瞬なんのことだか、わからなかった。呆けた顔で月子ちゃんもといぼくの顔を見上げる。
「あなたは痛くないって言ってたけど、あたしはびっくりしたし、痛かった。今もね。だから強制はしないけど、できるなら、控えてもらえるかしら。まぁ、ムリならムリでいいんだけど」
その言い方はやっぱり月子ちゃんらしくて。その月子ちゃんの言葉がなんだか可笑しくて。そんなことを言われるなんて、思ってもみなかったから、びっくりして。
ぼくはきっと間抜けな顔をしてたと思う。あ、でも今は月子ちゃんだから、それもいいか。なんて。
「……わ、わかった…がんばって、みる…」
今までどんなに自分で抑えようとしても無理だった。こんなのダメだって…いけないって、ムダだって、頭では理解してた。でもそうすることでしか自分を保てなかった。
そんな、ぼくが。
泣き言ばかり、弱音ばかりのぼくが、がんばる、だって。
「そう? じゃあ、よろしくね」
月子ちゃんが少しだけ笑う。
ちょっとだけ、褒められた気がした。
月子ちゃん自身にそんな気はなかったのかもれないけれど、ぼくがそう感じたんだからあえて確認はしない。
自分でも少し可笑しかった。でも、これはきっと、大事なことだと思った。
痛いって月子ちゃんは言った。
ぼくは、ぼくだけは絶対に。
月子ちゃんを傷つけたくないと、そう思ったんだ。




