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ひとりぼっちの勇者たち  作者: 長月イチカ
教室の隅のブレイバー
44/53

◇1


 たとえば世界の危機に立ち上がるような

 誰ひとりとして見捨ずに、すべてを等しく救えるような

 そんなヒーローにはきっとなれない


 マンガや小説やドラマや映画のクライマックスみたいに、ハッピーエンドもきっとムリ


 でもきみが泣いていたら、すぐに駆けつける

 きっとぼくも一緒に泣くだろうけど

 きみが笑うその時は、ぼくも隣りで笑っていたい


 その為にはどうか、きみの傍に居させてほしい

 できるだけ近くに、居させてほしい

 とてもとても小さくてちっぽけだけど、それでもぼくの、ありったけの力で


 きみを、守るから


◆ ◇ ◆


 鏡の前でセーラー服のスカーフをきつく結ぶ。慣れないそれにやっぱり少し手間取ったけれど、前よりは大分マシに結べていると思う。

 それから両耳のあたりで髪をきつく結い、鏡の中の自分の姿を見つめた。

 鏡の中に映るのは、月子ちゃん。ぼくではない。

 おそらくまだ月子ちゃんは、眠ったままだろう。ぼくの体の内で。

 だけど不思議と、月子ちゃんのこの体は昨日からどこか温かい気がした。

 とくとくと鳴る心臓にそっと手をあててみる。

 不謹慎ながら、昨日の夜のトイレやお風呂での葛藤が思い出された。とてもとても大変だった。でもそれは今は、割愛しておこう。

 若干の顔の熱を感じながら、もう一度鏡に向き直る。そこには少しだけ情けない顔をした月子ちゃんが居た。

 月子ちゃんは本当に、こんな風に笑ったり怒ったり泣いたり、しないのだろうか。

 ぼくだからこんな風に、すぐに泣いたりくだらないことで笑ったりするのだろうか。

 それは、違う気がした。

 ぼくはもっと、月子ちゃんの泣いたり怒ったり笑ったりした顔が見たいと思う。

 だけどそれはぼくの、身勝手な望みでしかないのだろう。

 小さく苦笑いを落とし、立ち上がる。

「……いってきます」

 無意識に小さく呟いたのと同時に、ふと気持ちが引き締まった気がした。

 月子ちゃんの小さな小さな儀式がぼくのちっぽけな勇気を後押ししてくれているような気がした。


 教室にはまだ空席の方が多い。ちらほらと席に着いている人たちも、相変わらずこちらには無関心だ。

 寒いな、と思った。教室の隅のストーブは付いている。だけどなんとなく、教室全体がひやりとしている。

 ぼくはカバンだけ机に置き、すぐに教室を後にした。

 目的の場所に向かう途中、冷たい朝の空気が頬を撫でる。どくどくと脈打つ体の熱を、僅かながらに冷ましてくれた。

 実習棟の校舎はひどく静かで、まるで世界にはぼくしか居ないような、そんな不思議な錯覚がした。音は一切無く、世界から切り取られたような、小さな箱庭。

 月子ちゃんがひとりで戦ってきた場所。ぼくはひとりで、戦えるだろうか。こんな冷たい世界で。

 だけど、小さな世界だ。ぼく達から見れば大きくても、すべてのような気がしても…ぼくが知らなかっただけで、月子ちゃんも知らないだけで。こんなに小さな世界だったんだ。

 薄暗い廊下を進んで、長い階段を上る。月子ちゃんと初めて会った場所。はじまりの場所に胸の内でさよならするような気持ちで一歩一歩踏みしめる。あの日の自分に。

 屋上の扉を開けると目の前には青く高い空が広がっていた。じゃり、と砂を踏む音が小さく響く。少しだけ風が強い。フェンスがぎしぎしと鳴っていた。

「――来るんだねぇ、やっぱり」

 屋上の隅の方から、声がした。

 それは予想していた堀越恭子のものではなく、だけど聞き馴染んだ声。声の方にゆっくりと顔を向ける。風に翻る金色の髪。

「……昴流、さん…?」

 フェンスに預けていた背を持ち上げ、こちらを射るような視線と、目が合う。

 相変わらず獣みたいだ。だけどその瞳に少しだけ、哀しい色が混じっているような気がした。

「まぁ、そうだよね、いっつもバカみたいに律儀に、来てたもんねぇ…月子チャンのコマンドにはさ、“逃げる”とか“助けを求める”とかそういういう選択肢は、ないわけ?」

 一瞬何を言っているのかわからなかったけれど、ゲームの話みたいだった。

 選択肢。月子ちゃんの選ぶ選択は、いつもきっとひとつだけだった。

 ――逃げない。

 だから、ぼくは。

「あり、ます…もうひとつだけ…」

 ぼくは、戦う。


「堀越、恭子さん…達が、居るものだと…」

「うん、まぁ俺も、呼び出された身なんだけど」

 言って、一歩こちらに近づく。彼の口の中にあった棒付きキャンディーが、棒だけになって後は粉々に砕かれた。ガリガリと、噛み砕かれた。

「呼び出された…? 昴流さんも…?」

 どういうことだろう。昨日の留守電は、確かに堀越恭子からだった。だからきっとここで待ってるのは堀越恭子たちか、もしくは桜塚かもと。そう思って来たのに。

「しつこくてさぁ、あの日の証拠、出せって」

「…?」

 あの日? 証拠?

 わからない。多分、月子ちゃんだったらわかったのかもしれないけど、ぼくにはなんのことだかさっぱりだった。

 それでも昴流さんは躊躇なく、距離を縮める。

 手の中に残っていたキャンディーの棒を、器用に指だけでペキリと折って、それをポケットに押し込んだ。次に出てきた時その手には、携帯電話が握られていた。

「…あの日、って…」

 胸が騒いだ。ざわざわと。

 縮まる距離に、ぼくは思わず後ずさる。

 一歩ずつ近づいてくる昴流さんの口元は笑っているのに、ただこわいとそれだけが浮かんだ。今までとは何かが違う気がした。この体も、痛みも。

「……っ」

 もはや本能的に身の危険を感じた。体の方が思うよりはやく反応し、彼の視界から逃れようとしたその瞬間、長い腕が伸びてきて手首を掴まれる。そのまま手首ごと、強くフェンスに押し付けられた。

 ガシャン、と大きく鳴ったフェンスがまるで悲鳴みたいだった。

「逃げられるとさ、追いかけたくなるよね。まぁ逃がさないけど」

 笑いながら昴流さんは、再びその視界にぼくを捕らえる。見下ろすその瞳が、揺らぐ。そこには月子ちゃんの姿が映っている。

 この光景を、前もどこかで見たことがある気がした。ぼくが、だろうか。それとも。

「思い出すなぁ…ちょうどさ、1週間ぐらい前だったっけ」

 ぼくを見下ろしたまま、昴流さんが口を開く。その長い金色の前髪が、ぼくにも触れそうなくらい、近かった。

 熱が、体温が、上昇する。どくどくと心臓が、悲鳴を上げていた。破裂しそうなくらい。

「あの日は夕暮れだったね。赤い、空。段々と日は落ちて…夜の始まりに、俺はきみを抱いた」

 ぼくは未だに、この人と月子ちゃんの関係がわからなかった。

 月子ちゃんを傷つけるひとだと思った。だけど助けてくれたのも、このひとだった。もしかしたら味方なのかも、と。そう思っていた。

 ──いま、なんて言った?

「きみをどうやってでもいいから傷つけろ、て言われてた。何してもいい、って言うからさ。じゃあ抱いてしまおうと、思ったんだよね」

 心臓が、痛い。掴まれた腕よりもはるかに。

「ラヴホ代くれるって言ってたけど、別にどこでも良かった、俺的に。金持って来させるとも言ってたけど、待っても来なかったしさぁ。そうゆうシュミもないから、ギャラリーには撤収してもらって。証拠だけは必ず撮れってあの子には言われたけど、さすがにねぇ…そしたらさ、だったらもっかいヤれって。ってことでさ、いくつか隠しカメラがあるけど気にしないでいーよ」

 痛い、痛い、痛い。

 噛み締めた唇から、血の味がした。


 味方なんか誰もいない。

 月子ちゃんが戦うこの世界には、誰もいない。

 この世界を救わないと、月子ちゃんはきっと帰ってこない。戻ってこれない。でも、もう。

 戻ってこなくてもいいよって思った。ぜんぶ終わったらぼくが、迎えにいくから。


 …痛かったね。

 きっと、ずっと。



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