◇6
◆ ◇ ◆
「…あ、晃良、さん…っ」
「…遅くなって申し訳なかった。…陽太は…?」
「あ、あの、中に…」
お昼過ぎ、まだなお目を覚まさない“ぼく”を、晃良兄さんが車で迎えに来てくれた。
月子ちゃんの部屋で眠る“ぼく”を見て、晃良兄さんが顔色を変える。
「…死んで、いるのか?」
「えっ、いえ、眠っているだけなんですけど…その…目を、覚まさなくて…」
…驚いた。晃良兄さんの口から、そんな言葉が真っ先に飛び出したことに。あの冷静で慎重な、晃良兄さんが。
「…そうか…なら、いい…」
そう言って晃良兄さんは、ゆっくりと“ぼく”に近づく。床で眠る“ぼく”を覗き込むように膝をついて身を屈めて、それから少しの間を置いて“ぼく”の手首を手に取った。
脈でも計っているのだろうか。そう思ったけど、晃良兄さんがとったその右手首には包帯が巻かれている。新しい包帯には替えず、ずっと同じものをしていたので、少し汚いし擦り切れていた。
じっとそれを見つめる晃良兄さんの表情は、ぼくが立っている場所からはよく見えない。
ぼくはずっと、晃良兄さんが何を考えているのか、ぼくをどう思っているのかわからなかった。月子ちゃんに言われるまで。こんな風に、なるまで。
でもそれは当たり前だった。ぼくはそれを知ろうともわかろうともしなかったのだから。
歳の離れたふたりの兄は、兄というよりも“父親”に近かった。
父さんがほとんど家に居ないせいもあるだろう。思い描くような“親子”らしい会話を、父さんとした記憶はない。日向兄さんや晃良兄さんと話している時でさえ、内容は病院のことばかりだった。
顔を合わせるのは、あの冷たい食卓でのみ。
日向兄さんが死んでから、ぼくと父さんの間に会話が赦されることはなかった。
だけどそういえば必ずってほど、そこには晃良兄さんも居てくれた。ずっとそこに、居てくれたんだ。
幼い頃、大きくて温かなその背に、おぶってもらった記憶がふと蘇る。
日向兄さんがいつもぼくの前を歩いて手をひいてくれていたその後ろで、晃良兄さんは。いつもぼくを、見守ってくれていた。
日向兄さんと違って晃良兄さんは、あまり表情豊かなほうじゃない。だからぼくは勝手に、怒られているような気になって、いつからかこわくてまともに顔を見れなくなった。
きっといつか呆れられて、愛想つかされて、見放されてしまう。いくら兄弟だって、こんな情けなくて足手まといでしかない弟。
それは今かもしれない、明日かもしれない。いやもう既に、晃良兄さんはぼくのことなんか、嫌いにきまっている。
ずっとそう、思っていたんだ。
晃良兄さんは最初、日向兄さんが死ぬ前…別の職業を、志していた。晃良兄さんも頭が良く成績優秀だったし、きっと立派な職業を志していたのだろう。父さんも特に反対しなかった。
でも、日向兄さんが死んで、ぼくは学校にすら行けなくなって。
すべてを背負ってくれたのは、晃良兄さんだった。
『父さん、おれが…おれが、継ぐよ。おれが、医者になる』
自分の夢を、捨てて。
その背にかばってもらった。助けてもらった。もうずっと、呆れるくらいに長い時間、ずっと。
ぼく以外のひとはみんな、強いひとばかりだと思っていた。そんなバカなことを、ぼくは今まで当然のように、思っていた。
晃良兄さんの背中が丸まっているのを、ぼくは初めて見たんだ。
一瞬のような数十分のような沈黙の後、晃良兄さんが“ぼく”の体を軽々と抱え上げた。ひ弱なぼくはさほど脂肪も筋肉もついていない。改めて情けなく恥ずかしかった。
それから晃良兄さんが、ぼくに向かって頭を下げた。
「迷惑をかけて、すまなかった」
「え、あ、いいえ…っ こちらこそ…」
なんともいえない申し訳ない気持ちで、ぼくは慌てて手を振る。
迷惑をかけているのは…ずっと、かけ続けていたのはぼくだ。
謝らなければいけないのはぼくのほうだ。
晃良兄さんが車の後頭部座席に“ぼく”の乗せ、ドアを閉める。本当はぼくも一緒に行きたかったけれど、それは流石に憚られた。
玄関先で見送る為に出てきたぼくのすぐ後ろに朔夜くんが居たっていうのもあるけれど、何よりぼくは今、月子ちゃんの体を預かっているんだ。ムリはさせられない。これ以上。
月子ちゃんの為にも、朔夜くんやご家族の為にも、今日はちゃんんと家で休むこと。それが今の、最善の選択のはずだから。
「…そうだ…」
走り出すと思っていた車の運転席の窓が開き、晃良兄さんがぼくに視線を向ける。ぼくはその視線に応えるように、身を屈めて顔を近づけた。
「はい…?」
「きみは…その、なにか…知らないか…?」
「…? なにが、ですか…?」
質問の意図が拾えず首を傾げるぼくに、晃良兄さんが少しだけ気恥ずかしそうに顔を背けた。晃良兄さんのそんな顔を見るのは初めてだった。
一体どうしたのだろう。いつも物事をはっきりと言う晃良兄さんが、珍しく言い難そうに口篭っている。
「明日…陽太の、誕生日なんだ…なにか…その…欲しがってたものとか…陽太から聞いてたり、しないかと思って…」
「……え…」
ぼくはその時、ものすごく間抜けな顔をしていたと思う。あ、でも今は、月子ちゃんで。
でもそれよりも何よりも、今晃良兄さんの口から出てきた言葉にぼく自身がいろいろと衝撃を受けた。
すっかり忘れていた。ここのところいろいろあり過ぎて。
明日はぼくの…鈴木陽太の17歳の誕生日だった。
無意識にぼくは、右手の手首をぎゅっと握った。そこには細くて冷たい手首があるだけだった。
月子ちゃんの右手に巻いてあった包帯は、やっぱり替えていないのか緩んだり汚れたりしている。まるで“ぼく”の手首に巻いてある包帯と、はじめから同じ1本の包帯だったみたいによく似ていた。
晃良兄さんの視界にもそれが映ったのか、溜め息と共に車の中から長い手が伸びてきて、手をひかれる。
それから緩くなった包帯を、きつく結びなおしてくれた。
「…まぁ、いい。自分で考えるさ」
月子ちゃんに言われた言葉を思い出す。
“少なくともあなたがそうやって投げ出そうとする命を、守ろうとしているひとが居る。あなたが自分のことしか考えていない間に、自分のことよりもあなたのことを考えているひとが居る”
晃良兄さんはいつから、ぼくの手首の傷に気付いてくれていたんだろう。
いつから、ぼくのこと―
“あなたが何度死のうとしたってきっと、そのひとがあなたを死なせたりなんかしない。絶対に”
見ていてくれていたんだろう。守ってくれていたんだろう。
ぼくが死のうとしてるって知りながら、いつも。
ぼくはとっくに、諦めていたのに。
過去も未来も父さんや母さんや晃良兄さんのこともぜんぶ。
投げ出そうとしていたのに。
堪えきれず溢れた涙が、晃良兄さんの手にもぼたぼたと落ちた。それにぎょっとしながら晃良兄さんが顔をあげ、こちらを見つめる。
「ど、どうし…痛かったのか?」
「…ち、ちがうんです、すみませ…」
慌てて涙を拭いながら顔を上げる。困惑する晃良兄さんの顔なんて、やっぱり初めてだ。
「あの、参考までにで、構わないんですけど…」
「…なんだ」
ず、と鼻をすすりながら言ったぼくを、晃良兄さんがまっすぐ見上げる。久しぶりにこんな近くで顔を見た。生真面目な晃良兄さんのメガネのフレームが、少し下がっている。
ぼくは自分はずっと、日向兄さんにしか似てないと思ってた。だけどこうして見ると、晃良兄さんと日向兄さんもどこか似ていて、それはつまりぼくだってきっと、晃良兄さんに似ているところがあるってこと。
「自転車が…あると、いいなって。あの、彼、最近やっと、乗れるようになったんです…! 新しいものじゃなくて、おさがりでいいから…だから、その…」
言って、途中で続かない言葉に思わず俯く。自分の口以外からそれを言うのは、やっぱりなんとなく、卑怯な気がして。相変わらずすぐ怖気ずくぼくの言葉を、晃良兄さんは汲み取ってくれた。
「…わかった」
小さく返ってきた言葉に、ひかれるように視線を上げる。包帯越しに伝わる体温は、今ここに居るという証。ここに、ひきとめてくれる。繋がりを。
「ありがとう」
晃良兄さんが笑った顔を、ぼくは生まれてはじめて見た気がした。
忘れているだけかもしれない。覚えてないだけかもしれない。だけど今のぼくにとっては、初めてだったから。
胸が知らず、熱くなった。だけどそれはこの体じゃなくて、ぼくの。ぼくの体が、言ってるんだ。呼んでるんだ。
変わりたいって。もう、逃げたくないって。
ぼくの体がぼくを呼んでいる。
ねぇ、月子ちゃん。ぼく達にはきっとまだ、これからたくさんの“初めて”が待ってる。もしかしたらその中には、ずっと前に諦めてしまったものも、あるかもしれない。
あるかも、しれないよ。そこには。
部屋に戻るとベッドの上で携帯がチカチカと光っていた。ぼくのじゃなくて、月子ちゃんの携帯だ。
ぼくの携帯は、自分の制服のポケットの中に入れておいた。
たくさんの情報と知識をいつでも取り出せる手の平サイズの便利な機器。だけどあまり、役には立たなかった気がする。恐怖するだけのブラックホールだ。
月子ちゃんの持つ携帯の方が、よっぽどすごい。そう思った。だって確かな絆を繋いでいるのだから。
手にとってディスプレイをみると留守電が残っている。この携帯は共用だから、家族と親しい人しか番号は知らないって月子ちゃんは以前言っていた。しかも登録外の番号だ。朔夜くんに言った方がいいだろうか。
だけどぼくはなんとなく、それが月子ちゃん宛だとわかっていた。予感がしていた。
耳にあてて確認ボタンを押す。電話の相手は、予感通り堀越恭子だった。
呼び出しの電話。明日必ず学校に来いと。いつもの場所で、待っているから、と。それだけだった。こわいくらいに冷静な声だった。
なんだかあの日とよく似ている気がした。
ぼくは桜塚に呼び出されて…金を持ってこいって、言われたんだ。そしてあの屋上に、向かっていた。
そこで出会った。
もう何もこわくなかった。




