◇9
やがて影もコンビニの明かりも視界からは消える。振り返りもせずにぼくは必死に走ったから。
走って、走って。
暗い夜道を外灯が流れる。涙と共に。
…月子ちゃんはどうなるんだろう。
相手が月子ちゃんをいじめている奴なら、この後どうなるかなんて、容易に想像できる。月子ちゃんだってきっとそうだ。だけど月子ちゃんは、ぼくに走って、って。逃げてって、言った。だから、逃げた。逃げることだけは得意だから。いつも逃げてばかりいたから。それしか、できなかったから。
ぼくにはどうやったって、あっち側の人に立ち向かう勇気なんて、ないのだから。
涙が頬を伝っていくつも零れた。荒く吐き出す息に嗚咽が混じる。
苦しくて堪らなくて、思わず足を緩めた。立ち止まり、肩でぜいぜいと息をする。
気持ち悪くて吐きそうだ。
「……っ、 っく、 う…」
右手が疼いた。じくじくと、包帯の下。自己嫌悪の刃、一時の現実逃避。部屋の机の奥に閉まったカッターの刃が、脳裏にちらつく。
…もし、今、入れ替わったら。
殴られるとしても、痛いのはぼく? それともやっぱり、月子ちゃん…?
…きっと。きっとそれでも。
月子ちゃんは、逃げないんだろう。助けてなんて、言わないんだろう。
そしてやっぱりぼくは、だれも、守れないんだろう。
痛いんだ。どうしたって、何したって。なにかが、どこかが、痛いって主張する。暴れ回る、ぼくの意思なんかお構いなしに。すべて目を背けて耳を塞いで逃げ出す弱い心がぼくを動かす。いつもそう。ずっとそう。きっと、これからだって。それは変わらないんだ、これまでのように。…だけど。
『痛いの怖がってたらなんにもできねーだろ。何かやろうとする時には大抵痛みが伴うんだよ』
…そうだね。本当に、そうだよ。
生きていくことすら、こんなに痛い。
ぼくにとってこの世界は、生きているそれだけで、こわいものだらけで、痛いことだらけで。
優しい思いに触れても痛くて、強さに惹かれても現実は痛くて。
何したってどうしたって、けっきょく、痛いなら――
「…っ、は、ぅ、うぅ…!」
ふたりなら少しぐらいは…ほんの少しぐらいは、分け合えるのかな。何かが、変わるかな。
ごしごしと服の袖で涙を拭う。それでも止まらなかったけれど、少しだけ落ち着いた体で息を吸った。冬の冷たい空気が肺いっぱいに膨らむ。
ぼくは振り返り、来た道を走り出した。
足が震えたけれど、心臓も震えたけれど、心も震えていた。
暗い夜道に見えるコンビニの明かり。ぽっかりと夜空に浮かぶお月様みたいに、そこだけ切り取られたように浮いていた。
伸びる人影。まだふたりは対峙したまま何か話してしるようだった。
「…っ、は、はぁ、月子、ちゃ…」
さっきよりも体が重い。恐怖からか、思うように動かせない。足が、もつれる。
視界にふたりの姿は、映っているのに。辿り着けない。
「……っ!」
対峙した男の人が、月子ちゃんの手をとった。月子ちゃんは何も反応していない。
どうしてだろう。月子ちゃんは、どうして――
「月子ちゃん…!!」
そんなカンタンに、連れていかれたりしないで。
眩しい。くらむ光は、コンビニの明かり。頭がガンガンする。
暴力的な明るさだなぁ。さっきまで暗い場所に居たぼくにとっては。
ぎゅう、と腕に力を込めた。小さな温もりが返ってきた。
「…どう、して…」
腕の中で小さく月子ちゃんが零した。ぼくは何も答えられない。
「―はは! 戻ってきたんだ! 勇気あんじゃん、いい度胸してる」
すぐ目の前から、重みのある笑いが聞こえた。バカにしてるのか褒めているのかわからない、笑いを含んだ声。
「でもさ、俺はその子に用があるんだよねぇ。…わかる? …邪魔なんだけど」
…こわい。こういう言い方はよくされた。桜塚達に。命令を孕んだ強い口調だ。そして大抵その後は、何したって何もしなくたって、殴られるんだ。
そんなこともういい加減、解ってるんだ。
「は、離して…! なんで、戻ってきたのよ…っ!」
腕の中の月子ちゃんが小さく暴れた。後ろから強く押さえ込むと、簡単に自由を奪えた。
女の子は、かわいそうだ。こんなに小さくて、弱い。
「あたしは、大丈夫だから…っ」
ぼくは月子ちゃんを抱いたまま首を振る。力を込める腕さえ震えた。
必死に走ったせいで、パーカーのフードはもうとっくに脱げていた。メガネには涙の跡がたくさんついて汚れている。曝け出されたぼく自身は、一体どう映っているのだろう。
どくどくと荒い息に混じって心臓が脈打つ。荒い息と一緒に血液まで噴出しそうだ。
それでもこの腕は離せなかった。
俯いていた視線を、ゆるりと上げる。目の前にはするどい眼光。ぼくを睨んでいる。見下している。
近くで見ると、やっぱり綺麗な顔立ちのひとだなと思った。金色の髪も、光る銀の装飾品も、このひとを綺麗に飾っている。
滲み出る威圧感が、ぼくを脅迫する。押し潰されてしまいそうなほど、強く。
視線が一瞬だけ交錯した、次の瞬間。
「…う、おえぇぇ…ッ」
文字通りぼくはすべてを吐き出していた。
「ちょ…っ、ちょっと…?!」
「…は、ははは! マジかよカッコわりぃ…! う、うける…っ」
朦朧とする意識の向こうで笑い声が響く。もはや限界だった。これが今のぼくにとっての精一杯。カッコわるい。情けない。そんなのもう充分承知の事実なんだけど。
「はは、はー。まぁ、今日のところは退いてあげるかぁ、その勇気に免じて」
「……それはどうも」
地面に座り込むぼくの背をさすりながら、月子ちゃんが言い放つ。ぼくはもう一言も発せられない。今出てるものを押さえ込むのでいっぱいいっぱいだったから。
「訊きたいことあったけど、学校でいいや。どうせ毎日来てんでしょ?」
「そうですね」
「つれないねぇ、まぁ次会ったその時は」
ぐい、と、月子ちゃんの服を掴んで引き寄せるのが、視界の端に見えた。見えたけどもうぼくには何もできなくて。その冷たい声音だけがやけに鮮明に聞こえた。
「あん時の続き、してあげるよ」
彼の足音が暗闇に消えていく。そしてその姿も見えなくなった。
コンビニの前には、ぼくと月子ちゃんだけが残った。だけどもうぼくの意識はほとんど働いてなくて。
月子ちゃんが朔夜くんを呼んで、ぼくはまた月子ちゃん家に連れ帰られたこと。そして漸く対面した月子ちゃんのお母さんに看護してもらったこと。それだけなんとなく覚えている。
それからあの人のことも少しだけ話してくれた。月子ちゃんの部屋で横になるぼくに、少しだけ。
同じ学校の3年生で、八坂昴流っていう名前だってこと。うちの学校で一番の問題児で、最近なぜか桜塚達とも関わりを持つようになったということ。そして最後にぽつりと落とすように。
「あなたが関わる必要なんて、なかったのよ」
ぼくの頭に濡れたタオルを置きながら、月子ちゃんが小さく言った。その表情はやっぱり見えない。 何も返せないぼくはゆっくりと意識を手放していた。
ぼくにとって、とても長い長い1日だった。