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王の間での決戦から三日が過ぎた王宮のとある一室――
リロイは王族御用達の大きなベッドのまん中で身体を起こしていた。汗臭い兵士の服はしっかりと脱がされて、替わりにつやつやで金色のネグリジェを着せられている。膝くらいの丈の、裾にフリルがついたワンピース状のネグリジェ。レイリアの女性ならば、だれもが一度は着てみたいと思う一品である。
リロイはうすいかけ布団の中で裸足をばたばたとさせてみる。さぞ高級なのであろうベッドの表面は、かすかな弾力をリロイの踵に返す。優しい弾力が気持ちよくて、しばらくそうやって遊んでいようかと、リロイは思った。
「でも、こんなところにいたら全然落ち着かないよね」
金の装飾が施された部屋をリロイは茫然と見つめる。人が二十人くらい入れそうな部屋に、リロイはぽつんとたたずんでいる。召使いの姿は見えない。つい先ほど替わりのかけ布団を持ってきて、「ではごゆるりと」と告げて退室してしまった。
「もう充分すぎるくらいごゆるりとしてるんだけどね」
左の壁に金縁の大きな窓がついている。リロイは窓からエイセル湖をながめて、「ふう」とため息をついた。
バルバロッサとの決戦の後、リロイが目覚めたのはその日の夕方だった。目が覚めたときにはすでにだれかによって着替えられ、王族御用達のベッドの上――王宮のとなりにある別館に運ばれていた。
打撲した左腕には包帯がしっかりと巻きつけられている。バルバロッサに強く打ちつけられた腰にも包帯がきつきつに巻きつけられていて、かなり動きづらい。少しひねっただけで腰から激痛が走るから、動けなくても問題はなかったが。
「やあ、リロイ君。起きたのかい」
部屋の隅の戸口から優しい声が聞こえて、リロイははっと背筋を伸ばした。タキシードのような麗しい衣装のエメラウスが優雅に入室する。花束をたずさえて、にこっと微笑んだ。
「やっと時間ができたから見舞いに来たよ」
「あ、あ、ありがとう、ございます」
がちがちにかたまるリロイにエメラウスが微笑む。その後に侍女があらわれて、エメラウスの花束を受けとった。
エメラウスはベッドのとなりの椅子に座った。
「具合はどうだい?」
「え、あ、そ、その……」
「かたくならなくていいよ。君はクーデターを止めた英雄なんだ。僕なんかよりもずっと偉いんだよ」
「い、いや、だからその、英雄っていうのはやめてください」
リロイは両手の指を遊ばせながら口をぱくぱくと動かす。超絶に美しいエメラウスに見つめられると、顔から炎が燃え上がってくる。直視なんて――絶対にできない。
それを知らないエメラウスは「何でだい?」と首をかしげた。
「君は、クーデターの首謀者であるバルバロッサ殿を倒したんだ。立派な英雄じゃないか。彼は赤ひげと恐れられる、レイリアの五本指に入るお人なんだよ」
「そうです、けど……あれは、ただのまぐれですから、その――」
「はは。リロイ君は控えめだなあ」エメラウスはいつになく興奮した様子で口を開いた。「せっかくいい腕を持っているのに、そんなだと損をしてしまうよ」
「いい腕だなんて、そんな……」
エメラウスから絶賛されて、リロイは気恥ずかしくて仕方なかった。本当は部屋中を飛び出して喜びたいのだが、色々な都合があってそれは憚れる。飛びまわるのはエメラウスが出ていった後にして、今はとりあえず顔をまっ赤にして、淑女らしく恥らうことにした。
そんな様子を、エメラウスが「ふ」と頬をゆるめて見つめる。
「武術大会で戦ったときは、あっさり勝てたんだけどね。それも遠い昔の記憶になってしまったんだね」
「そ、そんな、ことは……ないです」
「ふふっ。謙遜しなくていいんだよ。バルバロッサ殿と戦っていたときのリロイ君は……すばらしかった。最後のトリックもすごかったけど、それ以前に技のきれが武術大会のときとは段違いだった。どうやったらそんなに上達できるのか、僕には不思議でならないよ」
「は、はい」
「……君があらわれる前、僕もバルバロッサ殿と一戦交えたけど、まるで歯が立たなかった。武術大会を準優勝できたから、剣には絶対の自信があったんだけど、ね」
エメラウスは眉尻をわずかに下げて、リロイから目を逸らす。リロイはそっと顔をあげて、エメラウスのきれいな顔を見つめてみた。まっ赤な薔薇が視界のまわりに花を咲かせて、その中央に映るエメラウスが嬉しさと悲しさを混じらせたような不思議な表情で吐息を吐いた。
――嗚呼、美しい。美しすぎる。
胸の鼓動がばくばくと脈打つ。目がピンク色になり、ハートの形に変形する。もう何ていうか、それだけでリロイは幸せだった。
――あのエ、エメラウス様を、ひとり占めにできるなんて、嗚呼、あたしは何て罪なおん――
「よ! ロイ、起きてっか」
そこへ突然、すっかり聞き慣れてしまった声がかかった。
はっとリロイはわれに返り、大きく開かれた戸口をにらむ。白いローブを着たサムソンが、まったく空気を読まずにずけずけと入室してきた。
リロイは露骨に嫌そうな顔をした。
「よ、じゃないわよ。あんた、また来たの?」
「うるせえな。何度来たっていいじゃねえか。別に減るもんじゃねえんだし」
「……ひま人」
リロイがぼそりとつぶやくと、にこにこしているサムソンの表情がかたまった。
「てめえ。今何つった」
「えっ。だから、ひま人って」
「ああん!?」
サムソンが鋭い剣幕でリロイに顔を近づけた。
「てめえなあ。人がせっかく見舞いに来てやってんのによお。あンだよその態度は! 何ならそのかけ布団を今から剥ぎとってやろうかア!?」
「せっかくとか、別に見舞いに来てって頼んでないし。何よその、さりげない恩着せ。超サイテーね」
「て、てめえ!」
サムソンが顔を赤くしてリロイの肩をつかむ。リロイも「何よ!」と眉間にしわを寄せてサムソンの胸倉をつかんだ。
とっくみ合いを始めるふたりをながめて、エメラウスが「ははは」と屈託のない笑顔で笑った。
「君たちは本当に仲がいいんだねえ」
「なわけあるかーい!」
リロイとサムソンは同時にふり返る。リロイははっとわれに返り、エメラウスに向けた拳をあわてて隠した。
侍女が花を活けた花瓶を棚の上に置く。扉のとなりに白やピンク色の花が咲いた。
サムソンは退室する侍女の背中を見送り、となりに座るエメラウスにふり返った。
「それで、キザ――エメラウス、様。戦局はどうなってるんすか?」
「うん。ほぼ収束に向かっているよ。ブレオベリス様が八面六臂の活躍をされているからね」
「そうだったんだ。にしても、ロイの親父さんって本当に強え人だったんだなあ」
サムソンがぽりぽりと頭を掻く。リロイはベッドの端を見つめて、わずかにうつむいた。
バルバロッサが倒れた後、クーデターを起こした反乱軍はにわかに勢いをなくしたと、リロイはエメラウスから聞かされた。リーダーが倒された上に迅雷ことブレオベリスが兵を起こしたからだった。
決戦から三日が経ち、バルバロッサたちの反乱はまだ鎮圧されていないが、それも二日後には目処がつくだろうというのが、エメラウスとサムソンが導き出した見解だった。
エメラウスは呆れ果てた顔でリロイとサムソンを見つめた。
「本当にって、君たちはブレオベリス様のすごさを知らなかったのかい? あの人はレイリアを代表する、本当にご立派なお方なんだよ」
「そうだというのは、多方面で耳にたこができるほど聞きました」
「そうだろう? あのお方は今や王宮の騎士たちの目標だからね。僕にとってもまだ霞のように遠い存在だけど、いつかあんな風になれたらいいなと思っているよ」
「ええっ!? お父様みたいになりたいんですか!」
リロイがいきなり声を立てると、エメラウスは「何でだい?」と首をかしげる。リロイは顔を近づけて、ぐっと両手をかたくにぎった。
「だめです! エメラウス様は今のままで充分にかっこいいんですから、お父様みたいになってはだめです!」
「ええっ、僕はブレオベリス様のようになってはいけないのかい? それはひどいなあ」
眉をひそめて当惑するエメラウスを置き去って、リロイは考える。頭の上からもくもくと立ち上った雲を背景にブレオベリスが映し出される。ブレオベリスはだらしない顔で頬を押しつけたり、「プウ」と尻からおならを出したりしている。
そのとなりに立つ、完全無欠、超絶美形のエメラウス。ブレオベリスのリズムに合わせておならをしている姿は、幻滅うんぬんというよりもシュールすぎてまず言葉にならない。
リロイはぞっとした。顔をまっ青にして、首をぶんぶんと横にふった。
「だめですだめです! エメラウス様が何と言ってもお父様みたいになってはいけません! 絶対になってはいけないんです!」
「……リロイ君のおうちも色々と大変なんだねえ」
エメラウスは呆れ果てた目でリロイを見つめた。そのとなりでサムソンもため息をついた。
「そんなことはどうでもいいけど。エメラウス様。ゲント伯はこれからどうなってしまうんですか」
「あ、そうだった。バルバロッサのおじ様……!」
リロイもすぐにわれに返り、エメラウスの顔を見つめる。エメラウスは腕を組んだ。
「タイクーンへの反逆は死罪と決まっているからね。通例どおりならば死罪が言いわたされるだろうね」
「おじ様は。……おじ様は、タイクーンに反逆しようと思って軍を動かしたんじゃないんです。それなのに、死罪になってしまうんですか」
「彼らの言い分がどんなものであったとしても、結果的には反逆と何ら変わりない――王宮の大臣たちは口を揃えてそう主張するだろうね」
「そう、ですけど」
「でもね。タイクーンはそう考えていないようだよ」
「えっ――」
エメラウスは膝に手をつけて立ち上がる。リロイに背を向けて、花瓶が置いてある棚に向かって歩いた。
「君がバルバロッサ殿をかばうだろうと思って、タイクーンに口添えしておいたんだよ。バルバロッサ殿を死罪にしないでほしいってね」
「えっ。そうなんですか」
「タイクーンにとって、リロイ君は命の恩人だからね。リロイ君の言葉だと言ったら、タイクーンは二つ返事で了承してくれたよ。……まあ、僕が口添えしなくても、ブレオベリス様が直訴すると思うけどね」
エメラウスは赤い薔薇を抜きとる。指で刺をさわって、「ふふ」と嘲笑した。
「そう、ですね。……うん。お父様は、おじ様を絶対に見放したりしない」
「ふふっ。おふたりのことはリロイ君の方がよくわかっているようだね。……だが、問題なのは王宮の大臣たちだ。彼らはバルバロッサ殿に拘束されていたから、われらに真っ向から対立してくるだろう。あの手この手でバルバロッサ殿を処刑台へと追いこもうとするはずだ」
刺を触っていた指先がぷつりと切れて、鮮血がたらりと滴る。エメラウスは指先を口に近づけて、舌でぺろりとなめた。
「でも、それは問題ないとタイクーンが力強くおっしゃられた」
「タイクーンが……?」
「うん。タイクーンは、今回のクーデターを引き起こしてしまった一因は自分にあるとお思いなんだ。大臣たちの言葉に惑わされてタイクーンたる決断ができなかった自分がとても恥ずかしいと、僕に胸のうちを明かしてくださったんだ」
「そうだったんですか」
「でもね、バルバロッサ殿と戦うリロイ君を見てとても感銘を受けたと、興奮冷めやまない様子で語っていらしたよ。あんなに若くて可愛らしい子が身体を張っているのだから、朕も負けていられない、とね」
「えっ……えええっ!?」
いきなりの爆弾発言にリロイは目を見開く。同様にサムソンも魚みたいに目をぎょろりとさせて、微笑するエメラウスを凝視した。
「タイクーンはわれわれの先頭に立って、大臣たちの猛反対を真っ向から受けて下さるそうだ。まかせっきりだった政治にも参加して、昏迷するレイリアを変えていきたいと力強くおっしゃってくださった。これからきっと、レイリアは面白くなるよ」
エメラウスは薔薇を花瓶に戻してリロイに笑顔を向ける。屈託のない、子供のような笑顔だった。
サムソンはリロイにふり返って、ごくりと息を呑んだ。
「ロ、ロイが、もしかして、タイクーンを動かした……?」
「えっ、い、いや……そんな大それたこと、あたし風情がしちゃっても、いいの……?」
「嬉しい知らせはこれだけじゃないんだよ」
エメラウスがにこにこしながらリロイとサムソンを交互に見つめた。
「タイクーンはこの間の決闘を見られて、リロイ君を大変気に入られてね。君にたってのお願いがあるそうなんだ」
「あたしにお願い、ですか」
「うん。僕が団長をつとめる近衛騎士団にぜひ入ってくれないか、というお願いなんだけどね」
「へっ……?」
リロイは間の抜けた返事をして、しばらく身体をかたまらせる。突然の話に、状況がいまいち把握できない。
――近衛騎士団に入る。入ってことは、騎士団の一員になるってことだよね。てことは、つまり……
腕を組んで頭を働かせて、数分経ってからひとつの結論が見つかった。
「それって、タイクーン自らがあたしを騎士として認めてくださったってことですか」
「それも王国いちのエリートとして、ね」
エメラウスが片目を閉じてウインクする。リロイは胸のまん中をずきゅんと打ち抜かれて、頭がまっ白になった。
となりのサムソンが顔を赤くして、リロイの手をとった。
「ロイ! やったじゃねえか。近衛騎士団って超が三つくらいつくエリート騎士団なんだぜ! 騎士やってるやつが一度は入ってみたいっていう、騎士団の花形ともいえる集団なんだぞ」
「えっ、う、うん」
「何間抜けな顔してんだよ! 今日まで騎士見習いだったやつが、しかもタイクーン自らにご指名をいただくなんてよお。……すげえ。お前、まじですげえよ!」
「そ、そうかなあ」
興奮するサムソンにリロイは曖昧な返事をする。あまりに突拍子のない話で、リロイはいまいち実感がつかめなかった。
――ん、でも、近衛騎士団に入れるってことは、その、あれだよね。今後はずっとエメラウス様と、い、いっしょに、いられ……
エメラウスが棚の前でにこにこと微笑んでいる。リロイの顔が一瞬のうちにまっ赤に染まり、ぼんっと煙を出して爆発した。
「それからサムソン君。君にも知らせだよ」
「へっ。おれ?」
「うん。君がリロイ君の手足となって動いてくれたことをボア様に話したら、君を宮廷魔術師に推薦したいとおっしゃってね。これから君に話があるから王宮に来なさい、とのことだよ」
「えっ。ま、まじっすか」
「何でも、苦手だった風の魔術までマスターしたそうじゃないか。プリシラ君もとても驚いていたよ。……ほら、ぼけっとしていないで早く準備をしてきておくれ。僕がこれから案内してあげるから」
エメラウスが棚から離れて、大きく開かれた扉に向かって歩く。その悠然とした背中をサムソンは茫然としながら見つめる。だらしなく背中を丸めて。
リロイは右手を出して、サムソンの背中をばしっと叩いた。
「あんたもよかったじゃない。ボア様にがんばりが認められて」
「えっ、あ、いや、だっておれ、何にもいいことしてねえし」
サムソンもぽかんと口を開けて、リロイと同じような反応をしている。リロイが「早く行きなよ」と扉を指差すと、サムソンは椅子からはげしく転げ落ちて、頭をさすりながら退室していった。
「もう、ばかねえ」
広い部屋でリロイはひとり、くすくすと笑う。かけがえのない親友の朗報まで聞けて、もううれしくてしょうがない。
リロイはベッドから降りて、金縁の大きな窓の前に立った。ガラス戸は外に向かって開けられていて、外から流れてくるそよ風がリロイの頬を優しくなでる。エイセル湖の水気を含んでいるため、ひんやりとしてとても心地よい。
「今日もいい天気ね」
窓の下枠に手を乗せて、眼下に広がるエイセル湖をながめる。湖はいつもと変わらずに、奥から手前に向かってゆるやかに流れている。波を茫然とながめながら、シャムシールが折れてしまったことをレオンハルトに謝らなきゃと、リロイは思った。