第一話 婚約破棄されて隣国へ嫁ぐことになりました
「クラリス。今日をもって、お前とフェリクス第一王子の婚約は破棄された」
閑散とした執務室に、低い声がじんわりと広がる。
たった一言。それなのに、何を言っているのかわからなかった。
「婚約、破棄ですか……?」
聞いたことがないほどか細い声が、喉を震わせる。
婚約破棄を告げた声の主ーークロードお兄様は、それを聞いて眉間にしわを寄せた。
「エーディン王国とソルフレア王国の同盟強化のために、隣国の王女を妻に迎えたいそうだ」
「そんなっ……! 納得できません! 公爵家との婚約を、こんな時期になって破談にするなんてあまりに非常識です!」
お兄様の隣に控えているソフィお義姉様が、大きな声にびくりと肩を揺らす。
……いけない、少し感情的になりすぎたわ。
深く息を吸って、私はそのまま自身の額に手をつく。
留学してから一枚も手紙をよこして来ない時点で嫌な予感はしていた。だけどまさか、婚約破棄だなんて。
留学前はあんなに『君しかいない』『僕と婚約してくれ』と言っていたのに。王子に限ってそんなことはないと、そう思いたかった。
だがそんな望みをかきけすように、お兄様は大きくため息をついた。
「うるさい。もう決まったことだ。……そもそもお前がちゃんと王子を繋ぎ止めておかないのか悪いんだろう」
「他国に留学したフェリクス王子をどう繋ぎ止めろと? だから私も共に留学をと申し上げたのです」
元々は私も王子と共にソルフレア王立学園に進学する予定だった。それを『女に学はいらない。金の無駄だ』と切り捨てたのはお兄様だ。
「女のくせに俺に口答えするのか? そんな風に生意気だから捨てられるんだ!」
お兄様が執務机を叩くと、悲鳴をあげるように木が軋む音が聞こえた。
何が金の無駄よ。そもそも出せるお金を全部使い込んだのはお兄様のくせに……!
私はじろりと部屋を見渡す。まばらな本棚、古びた絨毯。なのにお義姉様とお兄様の服だけは、ドレスコードを間違えたのではないかと思うほど煌びやかだった。
「ふん、相変わらず可愛げのないやつだ。少しはソフィを見習ったらどうだ?」
お兄様はソフィお義姉様を抱き寄せ、にやりと品のない笑みを浮かべた。
見習ったら、ねぇ? ただ威圧して、反抗できないようにしてるだけじゃない!
そんな言葉が喉まででかかる。だがその先の言葉は、お兄様の言葉にかき消された。
「だが、そんな女らしさのかけらもない行き遅れのお前に、新たな婚約の話が来た。相手は隣国のジルベール侯爵家の当主だ」
「ジルベール侯爵家……!?」
ジルベール侯爵家。
ここ15年で急に財を築いた、ソルフレア王国の家だ。
たった15年で数々の功績を残し、有力貴族と子供を結婚させ今の地位までジルベール家を押し上げた男。
確か妻に先立たれているとは聞いたけれど、まさかその人と婚約だなんて……!
「18で婚約破棄された傷物にはもったいないぐらいの相手だ。俺に感謝するんだな」
お兄様の言葉に、私はぐっと言葉を飲み込む。
貴族において、18歳は一つのライン。ここで一気に結婚が難しくなるのは事実だ。
「……わかりました。その縁談、お受けします」
「クラリスちゃん……!?」
目を見開くお義姉様。それと対照的に、お兄様はにいっと人の悪い笑みを浮かべた。
「はっ、当然だな。せいぜい返品されないように淑女らしく振る舞え。くれぐれも、うちにいた時みたいに政治や事業のことに首を突っ込むなよ」
その言葉に、ぴくりと目の端がけいれんする。
黙って聞いてれば好き勝手言ってくれるじゃない……!
「えぇ、ジルベール侯爵は優秀な方でしょうからね」
私は一段低い声でそう言った。だがお兄様は私の言葉の真意に気がついてもいないようで、『これ以上家名に泥を塗るなよ』と満足げに言い返してきた。
……流石、たった2代で家を傾かせたお兄様やお父様とは違う。
この国は長男が家督を継ぐのが伝統だ。
どれだけ私が努力をしても、結果を出そうとしても、最終的に家を継いだのはお兄様だった。
私を軽んじるお兄様。
長年の婚約を破棄して、私を捨てた王子。
ーーこの国に、私の未来はない。
ジルベール侯爵がどんな人か、ソルフレア王国がどんなところかはなんとなくしか知らない。
それでも私は、今度こそ自分の力で、一人で幸せを掴みたい。
『私は、私のために生きているんだ』
子供の頃から私を動かすその言葉を、一人胸に抱いて前を見た。
* *
と、そう、思っていたのだけれど。
「ほんとに、大丈夫なのかな……」
隣国に移動する質素な馬車の中、声は冷たい空気に吸い込まれていった。
国境を越え、転移門を抜けた後の見慣れない景色が、私の心をさらにざわつかせた。
部屋を出て行って数日後のことだ。ソフィお義姉様が、真っ青な顔で私に謝ってきたのは。
『申し訳ございません、クロード様にあんな酷いことを言われているのに、私は何もできなくて……』
お義姉様はそう言って、私に手編みのストールを渡してくれた。
『私なりに、色々と話を聞いてきたのです。当主様は奥様が亡くなってから、国教である女神教にのめり込んでいるそうですの。今お屋敷にいる子供は18になる三男お一人で、どうやら縁談も全て断っているそうですわ。全く笑わない、彫刻のようなお人らしくて……。こんなことしかできなくて、本当に、本当にごめんなさい』
震えたお義姉様の声が頭にこだます。
それを抑えるように、私は肩に羽織ったストールを強く掴んだ。
……噂はしょせん、噂。わかってるけど、やっぱり気が滅入るわね。
窓の外に見える古いがきちんと手入れされた立派な屋敷をみて、私はまた一つため息を重ねた。
私はぎゅっと、目を瞑る。
聞こえてくる馬の鳴き声と、体が前に引っ張られる感覚。
どうやら、着いてしまったらしい。
……そんなこと考えても仕方ない。やるしかないんだから。相手がどんな狂ったおじさんだろうが、義理の息子が実家暮らしの冷徹男だろうがなんとかしてみせるわ!
重いまぶたをおしあげて、私は一歩、馬車の外へと踏み出した。
「はじめまして、クラリス嬢」
「……え?」
聞こえてきたのは、穏やかで芯がある声だった。
視界に広がる、美しい赤い薔薇の花束。その向こう側に跪く、美しいコバルトブルーの髪が風に揺れ、その度に上品な香りが花をくすぐる。
「俺がジルベール家当主、エリオット・ジルベールだ」
声の主は私を見上げ、一瞬顔を強張らせてからにこりと優しく微笑んだ。想像とは違うシワ一つない若々しい肌。そのつややかな唇がゆっくりと動き出す。
「やっと会えたな。……これからは、ずっと一緒だ」
彼は固まった私の手を取ると、そっと手の甲に顔を寄せた。
「ジルベール家へようこそ、俺の花嫁」
そう言って微笑んだ彼の瞳は、吸い込まれていきそうなほど深い、深い夜空のような濃紺だった。




