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心地よい波音だな、とマエルは思う。港の、岸壁に打ち寄せる波は弱々しく静かで、何者をも受け入れるかのような寛容さを感じる。あるいはこの音は昔母体の中で聞いた心音なのだろうか。
マエルが船の舳先から港の護岸に向かって雑魚を投げると、腹を空かせた猫たちが、どこに住んでいたのかという数の猫たちが、雑魚に駆け寄り、我先にと食いつく。勝者は魚をくわえて尻尾をピンと立て、またどこへやら漠然とした方角に去っていく。魚にありつけない猫は目を真ん丸に開いてマエルの次の雑魚投入を待っている。マエルの気まぐれを信じて疑わぬ姿勢で、しかし別の何かを投げられた場合は瞬時に避けられるよう常に警戒を怠らず。こんな時は野良猫の悲哀、というものを感じずにはいられない。我が辞書に安心の二文字はなし、か。その様は漁師に似ている、とマエルは思う。今は静かに波打つ波の、大しけに見せる野生の顔よ。
過去に、海に呑まれた漁師仲間を何人か見聞きしている。技術が発達し、市街地から死が遠ざかって行っている中でも、海は濃厚な死の香りに満ちている。お隣さんと顔を合わせるぐらいに何でもないことのように、死が蟠っている。
舳先に跨るようにして座り、もう一丁、と魚を投げ込むと同時に二匹が陸地へと飛んだ。二匹。横の船に、いつの間にやらヴヴハの姿があり、彼もまたゴミでも投げるような調子で今日獲れた、買い手のつかない雑魚を猫へと放り投げている。
「よう」とヴヴハが片手を上げたのでマエルも片手を上げて応える。漁師仲間と顔を合わせる、なんてことはよくあることだがヴヴハとかち合うのはあまりないことだ、年上の、頬髭と顎髭が繋がったたいそう立派な面構えに少し気後れしてしまう。
「獲れた?」とヴヴハが簡略に訊く。
「ニシンがね、それなりに」と答える。「タラはだめだった。あとは、御覧の通り、雑魚ばっかりだよ」
ヴヴハは彫りの深い、奥まった瞳を細くして微笑む。「うちも、今日は雑魚ばっかりだ。猫の生活を支えるために船出してるようなもんだね」
猫の生活を支えるため、という物言いがおかしく、しかし言い得て妙であり思わず笑ってしまうと、陸地の猫が何事かと緊張した顔つきとなる。
「オレも猫を養うために出漁したようなもんだよ。面白くない」と言いつつ顔は笑顔だ。「そら!」と投げた雑魚にまた猫が群がり、奪い合いを制した猫が一匹脱兎のごとく走り去る。
舳先に波の上下を感じながら、ひたすらに静謐で律儀な波音を聞いていると得も言われぬ快感があり、随分と日が短くなったがまだ昼時、降り注ぐ温かな陽光に動く気もなくなってしまう。手やら腰やら痛いところはいっぱいあるけれど今の自分は満ち足りていると言って良いのではないか、決して言い過ぎということはない、と思う。それに少しの猫がいれば、もはや立派な幸福だ。
「ったく、俺も漁師に世話されたいね」とヴヴハは頭の後ろに手を組んで、「食うものに困らず、帰る家があればもう、それだけで。ま、猫たちは路上生活だろうが。あるいはイースヴァ人みたいに暢気に観光してる、かっ!」わざと雑魚を力いっぱい遠くに投げると猫たちはそれをまっしぐらに追い、盛んにわめいている。
「でも、誰かのお世話になるというと、こういう気まぐれにも耐えなきゃならない」と言うと、ヴヴハは苦笑して、
「ロイイの奴も今頃気まぐれに耐えているのかねえ」と舳先に跨り、後ろ手をついている。
ロイイは観光客向けお土産屋さんの店主だ。今頃押し寄せる観光客にてんやわんやになっているだろう、が、それらはすべて金に換算されるのだからいっそ晴れ晴れしい心地かもしれない。それを思うと買い手のつかない雑魚が憎くて、というほど憎いわけでもないが、八つ当たりで一匹雑魚を遠くに放る。跳躍してキャッチしようとした猫が、しかし取り落としてしまい他の猫に魚をかっさらわれてしまう。
「観光客ってのも考え物だね」とマエルは言う。「要するに自由人なんだから、放埓で手に負えない。文化の違いってものを理解していない奴もいっぱいいるからね」
「俺たちが真面目に生活してる横でどんちゃん騒ぎさ」ヴヴハも冗談めかして憎々しげに語る。
「オレたちが手や腰を痛めながらも刻苦呻吟働いてるってのに、昼間から酔っ払って」
「ロイイが、店内でゲロ吐いた奴がいて往生したよって嘆いてたな前」
「ほんと、何でオレたちゃ真面目に働いてんだか、分かんなくなるね」
「まったくだ。ま、ロンダリ人は、額に汗なんかしてないかもしれないが、休まずに働いてたりするんじゃないかね」
ヴヴハがドアに耳を付ける所作をする。信憑性は低いがロンダリのスパイが、観光客を装ってマルモの港からスヴェミ王国内に侵入しているとの噂がある。イースヴァ人の、あるいはミール人や同盟関係にあるにもかかわらずガリバス人のスパイもここから入国していると、まことしやかに囁かれている。
「スパイだかなんだか知らないが、昼間からわいわい酒を飲んでる奴らよりかはたとえ汗してなかろうと働いてる奴らのほうが、信頼できる気がするね」
「まったくだ」と笑い、ヴヴハは舳先に立ち上がって慎重に目測を付け、えいや、と陸地へと飛び移った。それまで餌をくれる人間だったヴヴハが急に自分たちを害する生き物となったかのように猫たちが打ち水の飛沫のごとく一斉に駆け散っていく、その騒ぎの後の閑静。
マエルも波による上下を見極め、えいや、と陸地に飛び乗り、自らの船をもやった綱の締まり具合を確認してから、海岸沿いを歩き始めたヴヴハに同行する。ヴヴハはマエルに気さくに話しかけ、今まで抱えていた苦手意識の氷解する音を聞きながらマエルは歩き、やがて内陸へ、海岸段丘により作られた小高い市街地へ続く階段に足をかけたところで、思わず、あ、とこぼした。
何か動物の糞が落ちていた。
「これは、何だろう? 何の糞だ?」
異様に臭いそれには蠅がたかっていた。顔を近づけるのも嫌悪に感じるそれを無意識に睨んでいると、今度はヴヴハが、ああ、と納得した声を出した。
「これはロバだよ。ロバの糞だよ」
耳慣れない動物名に顔をしかめるも、二瞬間遅れてようやく頭の中でロバが像を結び、馬に似た、しかし一段階収縮させた姿が尻から黄土色の糞を落とす様を思い浮かべる。
「ロバ。ロバの糞?」
「ああ、おそらくそれで間違いないだろう」ヴヴハが悪臭の素を、高い背で真上から覗き込むように見つめ、「草食動物のくせして猫より臭えな」と顔をしかめて鼻をつまんでみせる。マエルはあれだけ港にいるはずなのに猫の糞を見たことがなかった。
鼻をつまむヴヴハを見て、それから悪臭の素をまじまじと見つめ、そして思う。「なぜに、ロバがここに?」
ヴヴハはしかめ面のまま「知らないのかい?」と、まるで憎しみから顔をしかめているような顔つきとなり、マエルが知らないと首を振ると、得意げになると思いきややはり忌々しそうに顔に皺を刻んで「フィリコだよ」と言う。
「フィリコ?」
「フィリコさ。ほら、ロイイの店に若いボンダミ人がいたろ?」
ちょっと考えてから「ああー」と思い出す。頑健な体つきの、真面目そうな兄ちゃんだ。
「あいつがな、ロバ屋さんを始めたんだよ」
「ロバ屋さん?」
理解が追い付かず訊き返すとヴヴハは少し下世話な顔をして、「ちょっと前からロイイの店に顔出さなくなったと思ったらあいつ、どっかからロバを三匹買い付けてきてさ、そいつら使って金を稼ぎ始めたんだよ」
「金を稼ぐ? って、どうやって? フィリコはロイイの店を辞めたの?」
「ああ辞めた。いきなり辞めるっつって困惑してたらロバで一稼ぎするなんて言い出して、ほら、この町は海岸から山の斜面に、へばりつくように競り上がってるだろ? 階段の上り下りが大変だろ、特に観光客や爺婆には。そこでロバさ。ロバにそいつらを乗せて、住宅街を上がったり下がったりする。運搬するわけだ。そして代金を取る」
分かるか? とヴヴハがにやける。なるほど、と頷くとヴヴハは、いかにも牧畜まみれのボンダミ人が考えそうなことだろ? と同意を求めてくるので、だな、と浅く同意する。
「自分は楽してロバの上前をはねるってわけさ」ヴヴハは肩をすくめて小さく舌を出してみせ、「ま、どうせ失敗するさ。楽して稼ごうなんて、そりゃだめだ、ヤンガ様だって、働かざる者に生きる糧なし、と仰ってる」ゆっくりと首を振る。
「まあ、ボンダミ人はヤンガ様を信じてないからね、そういう、恥じらいみたいなものはないんでしょうよ」同調するとどこかスカッと心晴れる思いがする。別に、ボンダミ人のことを他のスヴェミ人ほど嫌悪していないが、やはり誰か悪者を作ると共同体意識が高まり、端的に言えば爽快であるらしい。マエルは言う。「労せず甘い汁を啜ろうなんて、世の中そんなに甘かない。働く者にこそ幸あれ、だね。だからオレたちゃ幸せに違いない。乱痴気騒ぎの観光客たちよりも、ロバの上前はねるボンダミ人よりも、あるいは雑魚で生活を立てる港の猫たちよりも、他の誰よりもオレたちゃ幸福に近い」
はず、と付け加えるとヴヴハは「違いない」と呵々大笑し、「だってオレたちゃ、いつ死んでもおかしくない、一番神様に近い位置で仕事してるんだからね」と続けた言葉には強い皮肉が込められていて、ロバの糞みたいなもんさ、という付け足しの意味するところは不明だった。