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   10.


 父なるリーバよ、その子たるヤンガよ、そして彼らに従いしガリバスの神々よ、この国のために死せる者たちのためにその寵愛を授け、天国へとその魂を導き給え。彼らに魂の安らぎを与え給え。そしてこの地に暮らすガリバスの民に幸福を。この地を汚す異教徒には死の刃を。

 ヤンガ像の目が冷ややかに見えるのは気温のせいなのか願いのせいなのか、少しの引け目を感じつつサンリは祈祷する。「リーバ神よ、我らを慈しみ給え」ガリバスの古語で発声すると周りの信徒たちも合掌し、目を伏せて唱和する。続いて川底の泥のように沈黙が滞留し、まるで写真に切り取られたような教会の中、サンリはもう一度拝礼し、ヤンガ像の前から北向きに作られた教会の奥へ続く扉まで移動し、信徒たちに振り返り一礼して奥へ続く扉に消える。信徒たちの弛緩しきったがやがやを扉で断ち、陽と陰のコントラストのきつい回廊を歩くと囀る鳥の声が聞こえ、遠くに犬の吠声がする。どこか卑俗な、しかし通奏低音のように絶え間ない聖性が回廊に囲われた庭にはある。ガリバスの、自然の端々に宿る神々が、サンリの挙げた祈祷に反応してざわついているように感じる。

 いったい、他者の死を願うことが、許されることなのだろうか。とサンリは思う。異教徒を廃絶せよとはヤンガの得た戒律通りで、だからリーバ神の御心に叶う行いに違いない、だが、異教徒だからといって、ミールとガリバスとスヴェミと違い宗教を共有していないからといって、あるいはもっと露骨に、侵略者だからといって、ロンダリ人の死を願うのは、常々慈悲による救済を説いてきたヤンガ教の真理と相反するのではないか。

 それはロンダリの脅威を身近に感じていない、ガリバス王国西端の町サヴェリに住む者だからこその悠長な思考なのかもしれないが、それにしても、と考える間に教会奥の居住域に達し、ドアを開けて廊下を進むと右手から話し声と肉の脂肪分が焼ける、美味そうでありながら胃にもたれる過剰さを感じさせる匂いが漂ってくる。

「どうもどうも」

 と微笑みながら食堂に入ると、小綺麗な服を着たタヒヌが、こちらに気づいて手を振る。「やあ、どうも」

 お互いに握手する。「こちらへは、どうやって?」「汽車を乗り継いで。昨日はスヴェミのノータリに宿泊しました」「それは、大変だったでしょう。疲れてはいませんか」「なに、いくらか腰が痛いですがね、それは歳のせいですよ」「今年でおいくつでしたっけ?」「55歳です」「そうでしたそうでした、私と5歳差だった」「50になるとまた景色が変わるでしょう?」「私も、じゃないか、私はだいぶ、名詞が出てこなくなりましたね」「ははは、それは三十代の頃から悩んでましたよ」「そんなもんですか?」「そんなもんです。個人差がありますからね」「まま、立ち話も、ご老体の我々にはこたえますから、ひとまず座りましょう」と食卓に案内する。タヒヌと向かい合って座ると間もなく妻のキジャが豚肉の腸詰を食卓に供し、振り返った先には若い、女の子と女性の端境期にいる愛想のよい笑顔の女性がおり、焼けた黒パンを持ってきて、彼女はタヒヌの横に座り、キジャはサンリの横に座る。

「リーバ神の、お恵みに感謝して」

 唱えて軽く頭を下げ、腸詰に手を出す。手を出すそばからキジャがサンリの袖を引っ張り、「あなた、こういう時は客人が手を付けるまでこちらは遠慮するものでしょう」と言う。

「いやいや」タヒヌは顔の前で小さく手を振る。「私らの仲で、今更」

「そんな」と申し訳なさそうに、というより恥じらいからキジャは眉をひそめる。「私たちは他人の仲じゃないんだから」とサンリが腸詰を齧ると、豚肉の旨味が口中に溢れ返りちょっとした幸せを感じる。お恵みに感謝だ。瞑目する。

 フォークに腸詰を突き刺して折り取るように食べタヒヌは、ノータリでの講演について語る。ガリバス特有の、土着の多神教とヤンガ教の合体した独特の宗教観、それを熱心に聞くスヴェミ人。「ま、極論すれば学問なんてものは余技に過ぎないのだから、ガリバス人の宗教観を知ったところで何の益にもなりません、いくらか人生を豊かにするかもしれませんが知っているからといって畑の果実が多く実るわけではありません。ではなんでそんな無駄をわざわざ聞きに来るかと言えば」軽く上体を揺らし咳払いして前のめりになる。「純粋に、興味深いからです。他人の生活を窺い知る時の奇妙な高揚、そして優越感。ああいう感覚が欲しくて人は外国を学ぶんだと思います。突き詰めれば下世話な興味です。私だって、自らの感情を玉ねぎみたいにむしっていけば中心に残るのはあまり褒められたものではない好奇心です。あるいは何も残らなかったりするかもしれませんね」

「仕事だから、なのでは?」と、冗談交じりに訊くとタヒヌは肩をすくめる。

「いやいや、まあ、金のため、生活のためと言えばそうなるのかもしれませんが、ただ気になる、知りたい、という欲求が肥大した結果でしかないと思うんです。それでわざわざミール王国からスヴェミを跨いでガリバス王国まで研究に出張って来るんだから、人は恐ろしい。案外、あなた方の言うところのリーバ神が我々人間に与えたのは、生存本能そのものではなく、厚かましいまでの好奇心だったのかもしれませんね。それが人を生かす」

 理屈臭い、しかし、構えない人だな、と思うと思わず微笑してしまう。ヤンガ教を基礎とするミール王国もスヴェミ王国も、ガリバスの、土着の神々と交じり合ったヤンガ教を異端と見做し、貶すことのほうが多いのだがこのミール人は、ヤンガ教発祥地モルーのサソシ大学で教鞭を振るうタヒヌ氏は、足跡一つない雪原を前にした子供のように濁りなき興味でサンリらガリバス人に接する。本場の人間からお墨付きを与えられている、と考えるのは少し違うと思うが彼の肯定に、確かにサンリはいい気分になっている。

「ガリバスの多神教は、魔術をいまだ用いる文化的背景にも支えられているんじゃないかな」とタヒヌが持論を述べ始める。「我々の、ミール人の生活が鉄と石炭に置き換えられるにつれ、何というか、敬虔さ、と言えばいいのかな、が、消長していっているように思うんです。神秘に頼らずとも生活できる、となると人は、信じることをやめるんだと思います。木は家を建てるもので水は啜るもの、麦は食べるもので鉄は加工するもの。ただ物質になってしまって、そこには何の属性もつかない、何の神秘もあり得ない。神に頼まずとも人の力で操作できてしまうものなのだから。木の神も水の神も麦の神も鉄の神も存在するガリバスとは大違いでしょう? 技術が発展すると棄教するのではなく、人が神を必要としなくなる、だから道徳的神以外は力を失っていくのではないでしょうか。あるいは……」少し目を伏せ、沈んだ調子となる。「死、みたいな、まだ人の力の及ばないところなどは、神頼みと言えるかもしれませんね」

 死。人の魂が身体を抜ける瞬間。虚無なようで神秘でもある刹那と悠久。

「実は、ですね」言おうか言うまいか悩み、それでもフォークを置いて姿勢を正し、話す。「最近、週末はほぼどの教会でも、ロンダリとの戦闘で亡くなったガリバス人の慰霊、主に兵士たちを慰霊する会が行われて、私もさっき済ませて来たばかりなのですが」「だそうですね」「そうなんです。国家主導で慰霊会を開いているんですがね、あ、もちろん国家主導でという部分は『善意で』『自ら進んで』開いていることに公ではなっているのですが、しかし……」

「しかし?」とタヒヌも手を止めて聞き入る。

「……宗教とは、何なんでしょうね?」ふいに、尿意を感じてトイレに立つ時のように何気なく舞い降りた考えを口にしてみる、と、タヒヌは「難しい質問ですね」と顎に手を添え渋面で考え込む顔となる。「いや、そんな深い話ではなくて」と声をかけるとタヒヌは少し弛緩して頬を緩める。

「つまり私は」とサンリは言う。「本来、他人に優しくふるまえと教えるヤンガ教が、突然ではないけれど、どこかと戦争するとなると異教徒を殺せと声高に、敵意剥き出しで叫ぶ。しかも慰霊会という形で戦意高揚、敵に対する憎悪を引き立てるような役割を果たしてしまう。それはやはり宗教の本来的な意味から脱してしまっているような気がして……」

「例えロンダリ人がヒサナ11世を神の末裔と祭り上げようとも、ヒサナ一族が神を僭称しようとも、それがヤンガ教の教理とどれだけ対立しようとも、排撃してはならない?」

「それは……微妙、と言いますか、確かにガリバスの、土着の神々を混交したヤンガ教ならば、新たに一人ぐらい神が増えても問題はない。ただ」ふう、と上向いて苦しい息を吐く。「神の息子はやはりヤンガだけで、ヒサナ11世が全てを超越する神であるとは受け入れられない。だから嫌悪感は確かにあります」

「でしょうね」タヒヌは悪意のない微笑を浮かべている。「だって、宗教とは他人と自らを区切るものなのだから。宗教というものは開かれたようでいて、実はすごく閉鎖的なのだと私は思いますよ。宗教は飲み食いするし、そのために略奪するんです。だから寛容を説く宗教が、教義に反して争いの種になることも多い」

「しかし」

「しかし?」

 まるで大学でタヒヌの授業を受けているみたいな気分になる。「私が神父を志したのは、純粋に、争いをなくしたいからで、他人に優しくすることを説きたいからで、葬式に明け暮れるためではないし、ましてや争いの片棒を担ぐことでは、なかったはずなんですが……」

「至極もっともな意見です」タヒヌは穏やかに頷く。「あなたが闘争的でないことは若い頃、巡礼で出会った時からよく知っています。立派な志だと理解しています。そんなあなたが現状に疑問を持つのは当然でしょう。しかし、まあ」黒パンをつかみ上げ、目を細める。「大丈夫ですよ。結局人間は、孤独に耐えられない生き物ですから。他人に優しくせざるを得ない瞬間が必ず訪れます。性みたいなもんです。私は大学教授をやっているわけですが、時々尖った学生がいますよ。けれど、彼らの行き着く先は結局、他人です。その手助けとして宗教がある」黒パンに噛り付く。「うん、香ばしい」

 分かるような分からないような、獣に化かされている気分で隣に座るキジャを見ると、キジャは初めから理解しようとする気がないのかパンを含んで口をいっぱいに膨らせている。その姿を見るに高ぶっていた心が水を頭からかけられたように平静になり、せっかくの客人、愚痴を言っていないで歓待しよう、むしろ自分も楽しんでしまおうという気になる。妻と自分は実に絶妙の配合のように思う。

「ところで、あなたはタヒヌの、学生さん?」と、タヒヌの隣に座りサンリとの会話を興味深げに聞いていた女性に声をかけると彼女ははにかんだように微笑み、遅ればせながら自己紹介を、と言う。

 女性の名はビウヤ、21歳の学生で、タヒヌの研究室に配属されているのはやはり多神教化したガリバスのヤンガ教に興味を抱いているかららしい。将来は研究者になるの?という問いに、小首を傾げて分からないとはにかむ彼女は可愛らしく、その弁術から利発とは言えないが持ち前の愛嬌で世を渡っていくのだろうなと推察され、後でタヒヌに、気に入っているのだろう、と直截的に問うてやろうと悪意がもたげるのを意識しながら、この女学生の前では紳士然、神父然とふるまおうとしてしまうのは自分も彼女に魅せられているからかもしれない、と、少し苦い気分になる。隣の妻の様子が気になるが、こういう時の妻は別段興味もなさそうに伏し目がちに食事するけれど、後でちくりと意趣返しのごとき行動を取るので今から覚悟せねばと思う。そして、たった一人の出現で均衡の崩れる家庭の脆弱さを思い、男女のはかなさを思い、最後には、子供がいないからな、という考えに行き着く。結婚した年から逆算して、自分たちにはビウヤと同じくらいの年齢の子供がいたかもしれない。しかし結局授からなかった。だから。

 だから自分は、誰かの子供が犠牲になる可能性に憤っているのか。ロンダリを憎むより、自国を憂うのか。それとも自分の、味方の慰霊と敵への焚火という役割と、自分に子供がいるいないという話は別の根っこを持つ物事なのか。分からない。

 ビウヤとタヒヌが仲良く話している。キジャもいつもの倍愛想よく相づちを打っている。

 ふいに、ヤンガの彫像が脳内に浮かぶ。自分勝手すぎるかもしれないが、ビウヤやタヒヌが死ぬことも、キジャが死ぬことも、神々の力で防いでくれないかと思う。サンリ自ら彼女らの葬式を挙げることがないことを祈る。さっきまでの慰霊と命の重みがまるで違うかのように、サンリは強く祈った。


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