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   20.


 初めて見る赤ちゃんは赤黒く皺くちゃで、率直に言って人間には見えなかったが人間から産まれたからには人間なのだろうという奇妙な納得があり、その納得こそが愛情のなせる業なのかもしれないな、とぼんやり思弁していると産婆のウェブガに「邪魔」と叱られた。

 シャブクは覗き込むように見ていた赤ちゃんから退き、遠巻きに見るような形で時に赤ちゃんを手に忙しげに立ち働くウェブガを眺め、ふと妻に一言もかけていないことに気づいて邪魔者扱いされぬようウェブガの動線を注意深く見極め妻へと進みその枕元に立った。

「リスリ、その、大丈夫?」

 我ながら気の利かない問いかけだなと思いつつもそう訊いてしまったのは妻の顔から秋だというのに大粒の汗が流れ疲弊の色が顕だったからで、妻リスリは大儀そうにシャブクを見つめながらかすれた弱々しい声で言った。

「じゃがいも掘りもしんどいけど」

「うん?」

「その百倍きつかった」

 比較対象がじゃがいも掘りなのがいかにも農家の嫁だなと感じ思わず鼻でくすり笑ってしまったがリスリに咎める様子はなかった。咎めたてるのさえしんどいのかもしれなかった。

 こんな時、昔付き合っていた彼女の言葉を思い出す。どうせ産むのは女だからね。男には赤ちゃん産めないから。そう不平を言った彼女のことが理解できなかったけれど、妻の消耗ぶりを眺めるに男性の、出産における無力さを痛感する。産婦が死ぬ可能性だってある、と経験者に聞かされ、今生の別れになるのは嫌だったし、ちょうど農閑期でもあったから出産に立ち会うことに決めたがいざその時になると痛みから獣のように吠える妻の手を握るだのさするだの、男にできることは微々たるもので、自分の励ましが妻に届いているかも不確かで、声の全く通らないガラスの部屋に幽閉されているような錯覚さえ覚え、その上大量の出血を目にして気分が悪くなってしまうのだから世話ないなと思う。ウェブガが初め立ち合いをそれとなく拒んだのも理解できる。結局、出産は女がやり切る行事なのだ。男が介在しない仕事なのだ。

 取り上げられへその緒を切られ、湯に洗われ産衣を着せられて今赤ちゃんは自分の存在を知らしめるように大音声で泣き叫んでいて、その姿に感動があると言えばあるが未だこの異形の者の新生を呑み込めていない自分もいて、なんて、異形なんて言ってる時点でだめだ、と首を振って、そうだ、名前、と思う。妻と二人で熟慮熟考した、シャナク、という名。

「シャナク」と唱える。返事をするように赤ちゃんが泣いている、ような気がしてくる。

「シャナク。男の子」とリスリが虚脱した声を出す。いっぱいいっぱいだったのだろう、利発な彼女にしては意味の薄い、おうむ返しのような言葉だった。笑う、なんて余裕もないようで、まだ目はとろんと潤んでいる。

「うん、そう。シャナク」もう一度名を繰り返すと、今度は、パズルのピースが噛み合ったような、それ以外にはない正しさのようなものを感じる。シャナク。ずっと前から、シャブクが産まれる前から決められていたような、シャナクと呼ばれ続けて今に至ったかのような、正統性と的確さ。もう一度心でシャナクを呼ぶ。すると赤ちゃんの泣き声が、単なる泣き声から自分への訴求のように思えるようになる、そう、まるで夜から昼に一瞬で切り替わったように。

 急に触れてみたくなり一歩踏み出し赤ちゃんに近づくと途端にウェブガから再びの「邪魔」が入り、シャナクはウェブガの物じゃないのに、なんて勃然と興った所有欲に戸惑いながらも、素人が手を出して死を招くわけにはいかない、手出しせず許可が出るまで我慢しようと直立不動に戻ると、リスリが「シャブク」と呼ぶ。

「何?」

「呪文、済ませて来て」と言う。

「呪文、て?」と訊き返すと、常識が通用しない人を見るような、当たり前でしょう? と咎めるような目で睨まれ、「花火、打ち上げて来て」とやや強い調子で迫られた。

 あ、そうだ、そうだった、なんて、気が回らないにもほどがある、やはり自分は誕生に面食らって平常心でないのだ、と、苦笑してしまう。リスリに「行ってくる」と言うと、リスリは頷くだけで声は出さず伏し目がちに大きく息を吐いた。少しの呆れと、疲れが大半だろう。

 ガリバス北方の都市、ヴァミロはかつて独立国だったが1600年にガリバス王国に併合されたため、基本的にはガリバス王国と同じ言語や文化となっているがしかしヴァミロ独特の風習もまだ根強く残っていて、赤ちゃんが生まれると家から魔法の花火を打ち上げ、近隣の人々に新しい命の誕生を告げる、という習いもその一つである。寒冷で土地の痩せた北方において新しい命は歓迎の対象であったから、皆で祝福しようという習慣が絶えることなく続いてきたのだ。

 妻に一時の別れを告げ部屋を出て短い廊下を突っ切り玄関から外に出た。刹那に吹き込んできた冷たい風に身体がきゅっと収縮する。出てきたシャブクに、たまたま外出していた近隣住民の目が注がれる。誕生の気配を歓迎するような、畏れるような不思議な視線を浴びて、シャブクは呪文を唱えた。

「サクタ・ウル・ロア!」

 詠唱に応えるように間近に炎の塊が現れ、しゅっと風切り音を残し宙空に上がり、パン。と存外軽い音で破裂した。そして煌きは一瞬で焼失した。

 学校で習って以来の魔法は、華々しく、少しだけさみしく成功して、何も残らなかった。余韻、と言えば不思議とシャナクの泣き声が耳に残響した。泣く我が子に破裂音。シャブクの心に、微々たる、しかし確たる不安が兆す。

 学校で習った魔法は出産祝いだけではなかった。他者を攻撃する魔法、炎の塊を宙でなく人間にぶつける想定の魔法も習っていた。要するに誰かを殺す魔法だった。

 戦い。戦争。赤子の泣き声。

 遠く北のここヴァミロに戦争の影はない。ガリバスは緊急に少年兵も導入しているらしいが徴集された幼子はまだ身近にない。であるなら安心、だろうか。

 それは分からない、とシャブクは思う。将来、ロンダリとの戦争が激化して、戦火がヴァミロまで到達するかもしれない。最悪、攻め滅ぼされる、なんてことだって、あり得なくはないのだ。では誰が、誰がシャナクの安全を保障してくれる? 誰も保障してはくれない、将来的にシャナクが悲惨な思いをする可能性は幾らでもある、少年兵として前線に動員される未来も、ロンダリ支配下で虐殺などされるのと比べたらまだマシなのかもしれない。

 マシ、だなんて変な言い方で、より真っ当に死ねるのかもしれない、と形容すべきかと考え、違うな、と首を振る。真っ当に死ねることが幸いであることのおかしさ。生命が蹂躙されること前提の未来予想図。そんな悲劇を誰が許そう。許さないし許せない。でも、シャブクには条理を覆すだけの力がない。人の運命を決定するような神通力なんて、持っていないのだ。

 人の生死を人は操ることができない。不意に病気で死んで、ということもあるだろう。けど、殺し合いで命を失うのは、悲しい。愛と熱狂の中に死んで、称賛と褒賞により報いられるのだろうけれど、本当は、人間は、好きな絵を描いて、好きな詩を読んで、苦しいけれど農耕して、過行く一年一年を尊く感じながら死ぬべきだと思う。それこそが正道なのではないだろうか。真っ当に生きる、とは、そういうことではないだろうか。

 シャブクの打ち上げた花火に反応して近隣住民がやおらお祝いのためにこちらへ向かってくる。正道を行く方法は分からないけれど、こうやって新しい命を祝福する態度は少なくとも、真っ当だ、とシャブクは思った。


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