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押してダメなら引いてみる彼と、引いてダメなら押してみる彼女は今日も噛み合わない  作者: 替玉 針硬


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第2話「引いてみる彼の真意」

その日は、一人で帰った。


いつもなら、美緒と朝倉の三人で帰る。

朝倉がしょうもないことを言ったり、俺が余計なことを言ったりして、美緒がそれに呆れ顔でため息をこぼす、そんな日々。


俺はそんな時間が嫌いじゃないが、今日はとてもそんな気分にはなれなかった。


別に、美緒に怒られて気まずかったからとか、そういう理由じゃない。

……百パーセントそうじゃないとは、言い切れないが。


それよりも、少し考えたかった。

『今後の在り方』について――なんて言うと少し大げさかもしれないが。


まあ要するに、俺は間違えたんだ。


どこまで踏み込んでいいのか。

どこから先が余計なお世話か。


その境目を、俺は見誤った。



最初は、たまたまだった。

美緒が一人で何かを抱えていて、俺がそれに気づいて、少し手を貸した。

なんてことはない、ただそれだけの話。


作業を終えた後、美緒は資料を揃えながら小さく息を吐いて、こう言った。


「……今日は助かったわ。ありがとう、高槻くん」


それは特別な言葉でもなんでもなくて。

ただ、作業を手伝った俺に対するお礼。


でも、俺はそれがとても嬉しかった。


誰かの役に立てた。

誰かに見てもらえた。

誰かに必要とされた。


そんなふうに感じてしまった。


……我ながら、単純な男だと思う。

一度礼を言われただけで舞い上がって、その後も美緒が何かを抱えているたび、勝手に手を出すようになった。


美緒の役に立ちたい。

美緒に必要とされたい。


ただそれだけだった。


美緒の力になれるのは悪くない気分だった。

自分に価値があると証明できたような気がした。


だから、次もその次も俺は美緒の役に立とうとした。

美緒が困っていそうだったら、率先して手を差し伸べた。

言いづらそうなことがあれば、勝手に口を挟んだ。


俺はそうやって美緒の役に立っているつもりだった。


けど、違った。

俺は美緒の役に立ってなんかいなかった。


少なくとも、美緒が望む形ではなかった。

それを今日、はっきりと思い知らされた。



そんなことを考えていると、いつの間にか自宅の前に着いていた。


俺は通学かばんから鍵を取り出して、ドアを開ける。


「あら蒼真、おかえり」

玄関近くの洗面所にいた母が、出迎えてくれる。


「ただいま、母さん」

「まだご飯が炊けてないから、もうちょっと待っててね」

母さんは笑顔でそう言ったので、俺は「わかった」とだけ返して、洗面所に向かった。


その後、洗濯機に汗をかいた制服を入れて、部屋に戻って着替えた。


着替えてからリビングに戻ると、父さんがタブレットを眺めながら、ソファでくつろいでいた。


「蒼真、いま帰りかい? おかえり」

「ただいま。父さんも、今日は早かったんだね」

「今日は帰り際に急な問い合わせもなかったからね。定時で帰れたよ」

「それは良かった」

そう返すと、父さんは笑みを浮かべた。


けれど、すぐにはタブレットへ視線を戻さなかった。


「……蒼真。学校は、どうだった?」

何気ない口調だった。

ただの雑談みたいに聞こえる声。


「別に普通。いつも通りだよ」

俺がそう答えると、父さんは少しだけ目を細めた。


「……そうか」

それ以上、父さんは何も聞かなかった。

聞かないことを選んだ、という方が近い気がした。


それから父さんは、またタブレットの世界に戻った。


母さんは台所で夕食の支度をしている。

鼻歌まじりに鍋をかき混ぜていて、俺の様子を特に気にしたふうもない。


父さんはタブレットでなにか読んでいる。

俺は父さんの横に座り、スマホを眺め始めた。


いつも通りだった。


母さんも、父さんも、俺も。

誰かが何かを深く聞くこともなく、いつもの場所で、いつものことをしている。


だから俺も、いつも通りでいればよかった。


それからしばらくして、玄関の鍵が開く音がした。

――姉さんが帰ってきたようだ。


「ただいまー」

姉さんの声が聞こえてきて、母さんが台所から廊下に顔を出す。


「おかえり、天音。今日は早かったわね」

「うん、生徒会の用事が早く片付いたから」

「そうなの。頑張っていて偉いわねえ」

リビングにやってきた姉さんは、制服姿。

その手には、生徒会の資料と思われるファイルがあった。


いかにも、できる生徒会長様の帰宅である。


「これはこれは。生徒会の権力者たる天音あまね様。お勤め、ご苦労様です」

「……あんたねえ。あたしのことなんだと思ってるのよ」

「え、そりゃ、学校の統治者でしょ」

「……言い方に悪意しかないんだけど」

姉さんは呆れたように笑いながら、持っていたファイルをテーブルの端に置いた。


「……?」

姉さんが、俺のことをじっと見つめてくる。

その視線は、やけに長く感じた。

さっきの父さんのそれとは、少し違う。

何か、勘付かれたかもしれない。


「なに、どうかした?」

「……後でいいわ。先にご飯食べたいから」

姉さんはそう言うと、台所のほうに向かっていった。



晩ご飯は、いつも通りだった。

母さんが姉さんの生徒会での話を聞いて、父さんが時折相槌を打つ。

俺は適当に茶々を入れて、姉さんに睨まれる。


本当にいつも通り。

少なくともその時の俺は、そう思っていた。


だが、そうではなかった。

それは、食器を片付けて部屋に戻ろうとした時のこと。


「蒼真。ちょっといい?」

姉さんの部屋の扉が開いて、そこから顔を出した姉さんに名前を呼ばれた。


「……なに?」

「ちょっと、話をしたいの」

「別にいいけど」

姉さんが手招きしてくるので、俺は姉さんの部屋に入った。


「……相変わらず人間味のない部屋」

「ほっときなさい。というか、アンタの部屋も同じようなものでしょ」

姉さんの部屋には娯楽らしい娯楽が一切ない。

推しのアイドルのグッズや、キャラクターのぬいぐるみなんてものはない。


あるのは、大量のファイル。

生徒会や学校行事に関連した資料が置かれているだけ。


俺の部屋にはこういうものはない。

あるのは着替えと、勉強用に持っている参考書だけだ。


要は俺も娯楽に興味がない。

……人のこと言える立場じゃなかったな。


「こういうのって、持って帰ってきていいの?」

なんとなく、気になったので姉さんに聞いてみた。


「杜撰な管理で失くさなきゃいいのよ」

そういうもんなのか?

あまりよくない気がするが……。

とはいえ、追及して睨まれるのも嫌だからこれ以上はやめておこう。


「それで、話って?」

「単刀直入に聞くけど、アンタ今日何かあったでしょ」

……だからこの姉は嫌なんだ。

家族の中で、俺の変化に一番敏感なのは姉さんだ。


「……だとしても、別にそんなに大したことじゃないよ」

「ふーん」

姉さんは俺のことをじろじろ見ている。

何かを探っているような眼差しに、思わず目を逸らしてしまった。


「今、目を逸らしたわね?」

「べ、別に逸らしてなんか」

「私相手に嘘つくなんて、いい度胸してるじゃない」

「……ね、姉さんが怖い顔で見てくるからだろ」

「アンタ、死にたいのかしら」

「嘘ですごめんなさいそんなことないです今日も姉さんは可愛いです」

姉さんは、必死に弁解する俺を見て鼻で笑った。


「それで、何があったわけ? ま、どうせアンタのことだからまた何か空回りして失敗したんでしょ」

ったく、本当に鋭いなこの人。


「まあ、そんなとこだよ」

「アンタ、高校生になっても変わらないわね。また自分のどこが問題かとか考えてたんでしょ」

”また”。

そう、こんなことは前にもあった。


「中学の頃もそんな顔してた時があったわね」

……中学の頃、か。

あの頃の俺は、今よりずっと真面目だった。

引くほどにクソ真面目だったと、今となっては思う。


生徒会の会議の資料は事前に読み込んだ。

会議の段取りも決めた。

周りの人間が気にしそうなポイントを予測して、想定問答まで用意した。


周りが思うように動かないなら、自分が先に全部埋めればいい。

あの頃の俺は、本気でそう思っていた。

そうすれば、自分の望む結果にたどり着ける。

結果を出せば、きっと評価してくれる。


あの頃の俺は、そんなふうに信じていた。


「中学の時の話は、もういいって」

俺がそう言うと、姉さんは少しだけ目を細めた。


「今もそんなに変わってないわよ、アンタ」

「……別にいいだろ」

「どうせまた、一人で結論出して、何かを諦めようとしてるんでしょ?」

「だったら、なんだよ」

「認めるのね。それで、何があったの?話してみなさい」

……こりゃ、話さないと解放してもらえなさそうだな。

とはいえ、好きな女子相手に空回った、なんて話は恥ずかしくて言えない。

だから断片的に事実を伝えることにした。


「……ちょっと、距離感を間違えた相手がいてさ」

「ふーん。相手って?」

「……クラスのヤツだよ」

「それってもしかして女の子?」

「……いや、それはまあ」

「へえ、否定しないんだ」

……本当にやりづらい。


「……その子が困っているように見えたから、フォローしたつもりだったんだ」

「うん」

「役に立ってるつもりだった。でも、相手からすれば全然そんなことなかったんだ」

「ふーん」

「余計なことはしないで、ってそう言われちゃった」

結局ほぼ全部話す羽目になってしまった。

……最悪だ。


「……で、アンタはこれからどうするつもりなの?」

「そりゃ、距離を取るだけさ」

「即答なのね」

「……相手が望んでいないなら、近づかない方がいいだろ」

「それは、相手のため?」

「……ほかに、何があるっていうんだよ」

「傷つきたくないから先に逃げる、って可能性かな」

「……そうだとして、ダメなのか?」

「別に、ダメだなんて言ってないわよ」

姉さんはあっさりとそう言った。


「逃げたくなることくらい、誰にだってあるわよ。傷つきたくないって思うのも、別に悪いことじゃないわ」

「……じゃあ、別にいいじゃん」

「でも、“相手のために”って正当化するのはダメよ」

「……」

何も、言い返すことができなかった。


相手が望んでいないなら、近づかない方がいい。

そう考えたのは本当の話。


でも、それだけじゃない。


もう一度拒絶されるのが嫌だった。

自分が必要ないと、はっきり突きつけられるのが怖いんだ。


そんなものを全部まとめて、俺は“相手のため”という言葉で片づけようとしていたのかもしれない。


自分が嫌になる。


「別に、距離を置くのはやめておいたら、なんて言わないわよ」

机の上に置かれたファイルを見ながら、姉さんはそう言った。


「アンタが近づきすぎたって思うなら、距離を取るのも必要なんじゃない?」

「……なら、別にいいじゃん」

「でも、見ることをやめちゃダメよ」

見ることをやめる。

その言い方が、妙に引っかかった。


「その子が本当に何を望んでるのか。アンタが何をしたいのか。そこから目を背けちゃだめよ」

言い返そうとして、言葉が出なかった。

姉さんは、こういう時だけ本当に容赦がない。


「……わかったよ」

「よろしい。じゃ、話は終わり。さっさと部屋から出ていきなさい」

「自分から呼んだくせになんて言いぐさだ」

「え?何?」

「いえなんでもありません失礼いたします」

慌てて姉さんの部屋を後にした。


「……目を背けちゃダメ、か」

俺は、その言葉の意味を考えながら、部屋に戻った。


それでも、明日からの答えは変わらない。

美緒とは、距離を取る。


ただし、それが逃げなのか、それとも本当に相手のためなのか。

その違いだけは、考え続ける必要があるんだろうな。



翌日。

俺は、始業十分前に教室へ入った。


いつもよりだいぶ遅い。

普段なら、美緒が来るより前に登校していたから。


俺はそこで、寝ているふりをしてみたり、たまに余計なことを言ったりしていたな。

……本当に寝ているときもあったのはここだけの話。


今思えば、あれも距離感を間違えまくっていたな。


だから今後は、そういう時間を避けるようにした。

まあ、朝起きる時間は変わらないので、家を出る時間を遅くしただけだ。


美緒と二人になる時間を作らない。

こちらから話しかけない。

必要以上に近づくことをしない。


……ただ一つ、問題が発生した。

教室に入ってきた俺のことを美緒がちらちらと見てきている。

そこそこ良心は痛むが、俺はそれに気づいていないふりを続ける。


「……おはよう、高槻くん」

美緒が、俺に挨拶してきた。

こんなこと、今の今まであっただろうか。


内心少し驚いてしまって、反応が少し遅れた。

それでも俺は、美緒のほうを向き、挨拶を返す。


「ああ、おはよう……櫻井」

美緒と、その隣にいる朝倉が呆然としている。


これまでなら“美緒”なんて呼んでいたところだが、これからは呼び方を変える。

二人には悪いが、こればかりは慣れてもらうしかない。


「……ええ、おはよう」

美緒はそう返すと、視線を黒板に戻した。


昨日の今日だから、美緒の様子が少しおかしい。

まあ、呼び方を変えたりしているからな。


そのうち、何も思わなくなるに違いない。

――この時の俺は、割と本気でそう思っていた。

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