第1話「押してダメなら、引いてみる彼」
まだ夏の暑さが続く、九月の中頃。
蒼嶺高校の1年A組の教室のドアが開かれ、A組の女子クラス委員長である櫻井美緒が教室へ入ってくる。
「……」
自席の机の横に鞄を引っかけながら、毎週の予定が記された手帳を取り出す。
手帳にはびっしりとその日の予定が書かれていた。
軽く目を通し、最初の項目に目を止める。
『黒板を綺麗にして、円滑にホームルームを始められるようにする』。
そのタスクを片付けるため、席を立ち上がったときだった。
「すー……すー……」
気持ちよさそうな寝息が、すぐ後ろから聞こえてくる。
振り返れば、そこには耳栓とアイマスクで外界を完全に遮断したまま眠りこけている“彼”の姿があった。
教室に入った瞬間から“彼”がいることには気づいていたが、いつもの光景なので意識から外していた。
だが、あまりにも気持ちよさそうに眠っているその様子に、美緒はわずかに眉をひそめると――その耳をつねった。
「……いだ、いだだだだだ」
突然の痛みに飛び起きた“彼”は、何が起こったのか理解できずに目を白黒させる。
だが、目の前に立つ美緒を認識するや否や、ぱっと表情を明るくした。
「なんだ美緒か! おはよう!」
「……“なんだ”じゃないわよ。あなた、毎日毎日、何をしに朝早くから学校に来ているの?」
「おいおい……そんなの、教室に入ってくる美緒を誰より早く出迎えるために決まってるだろ?」
「さも当たり前のことのように言わないでくれるかしら。高槻君」
高槻蒼真は、むっとした表情で美緒を見つめた。
「……なにかしら? なにか言いたげな様子だけど」
「俺は美緒のこと名前で呼んでるのに、なんで美緒は俺のこと名前で呼んでくれないんだ!」
「あなたが勝手に名前で呼んできているだけでしょう。私は許可した覚えもないし、あなたの呼び方に合わせる必要もないわ」
「そんなあ。俺と美緒の仲じゃないか~!」
「……あなたの中では、私たちはいったいどういう関係なのかしら。知るのも怖いわ」
美緒はため息をつきながら、教室の黒板を綺麗にする作業に入った。
黒板を綺麗にし終えた頃、何人かの生徒が登校してきて、挨拶を交わしていく。
その一つ一つに丁寧に応じる美緒の様子を、蒼真はどこか柔らかな視線で眺めていた。
「おっはよー! みおち!」
明るい声とともに、教室に入るや否や美緒に抱きついてくる女子生徒――朝倉咲希。
「ちょっと、咲希……!」
美緒は少し困った様子で、急に抱きついてきた咲希の頭を「はいはい」とあしらうように撫でた。
「おい、朝倉」
じゃれあう二人の様子を見て、蒼真が声をかける。
「なにかな? たかっちゃん」
振り返った咲希は、悪びれもせずにそう返した。
「お前、俺の美緒に距離近すぎないか? 百合百合しいんだよ」
「おっとー、それは聞き捨てなりませんな。みおちはたかっちゃんのものじゃないよ? 私のものだよ?」
「な、なにを……! よし朝倉、お前表出ろ!」
「よっしゃー、受けて立つぞたかっちゃん!」
「……待ちなさい、二人とも」
「「ほえ?」」
ぴたり、と動きを止める二人。
「高槻君。まず、私はあなたのものじゃないわ」
「はい、すみませんでした」
「次に咲希。私は咲希のものでもないわ。私は私よ」
「ううー、ごめんよ、みおち~」
「分かればよろしい」
そう言いながら、美緒は咲希の頭をやさしく撫でた。
そんな二人の様子を見て、蒼真はどこか羨ましそうな視線を送る。
「あれあれ、たかっちゃんどうしたのー? もしかして、たかっちゃんもみおちに頭なでなでしてもらいたいのかなー?」
「ばッ、お前、そんなわけッ」
「しないわよ」
「びえーん!」
蒼真はその場に泣き崩れた――ふりをしている。
いつものやり取りだ。
「……またやってるよ、高槻君」
少し離れた席で、女子生徒たちが小声で笑い合う。
「ほんと懲りないよね。あれで成績いいんだから意味わかんない」
「運動も普通にできるしね、普通にイケメンだし。無駄にスペック高いのが余計に……」
呆れ半分、面白がり半分といった声が続く。
「しかもさ、生徒会長の弟なんでしょ?」
「そうそう。それであれっていうのがまたね……」
くすり、と笑いが漏れる。
「結局、櫻井さん一筋ってやつでしょ?」
「まあねー。でも付き合ってるわけじゃないんだよね、あれ」
「らしいね。ずっとあの距離感のままっていうのもすごいけど」
どこか慣れた調子の会話が、教室の一角で交わされる。
――当の本人は、そんな視線など気にも留めず。
相変わらず、目の前のやり取りにだけ夢中になっていた。
ガラリ、と教室の扉が開いた。
「はい、おはよー」
気の抜けた声とともに入ってきたのは、担任の相原先生だった。
「ほらほら席つけー。出欠取るぞー」
どこか締まりのない号令に、教室の空気がゆるく整っていく。
名前を呼ばれ、それぞれが返事をする中で、蒼真もまた気のない声で「はい」とだけ答えた。
やがて出欠が終わり、そのまま流れるように授業が始まる。
「じゃあ前回の続きなー」
黒板にさらさらと数式が書かれていく。
まだ完全に授業モードに入りきっていない教室の中で、不意に――
「じゃあここを――蒼真。答えは?」
名前を呼ばれた。
「え、俺すか?」
間の抜けた声を上げながらも、蒼真は黒板へと視線を向ける。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、式を追う。
「……あー、これすか」
次の瞬間には、答えが口から出ていた。
「○○です」
「おー、正解。でも話聞いてないのバレバレだったからな?どうせなら、もう少しうまくやれよ」
「はーい、すんません」
相原先生は軽く頷くと、そのまま次に進んだ。
教室も、さして大きな反応はない。
「またか」とでも言いたげな、いつもの空気。
――ただ一人を除いて。
「(……今の)」
美緒は、ほんのわずかに目を細めていた。
問題を見てから答えるまで、ほとんど間がなかった。
計算用紙も使っていない。
「(じゃあ、暗算……? いえ、それにしても)」
視線の先で、蒼真はもう退屈そうに頬杖をついている。
さっきまでの軽薄なやり取りと、今の正確な解答。
その落差に、ほんのわずかな違和感が残った。
その日の授業も終わり、帰りのホームルーム。
わずか十五分。
だが、その短い時間の中で――文化祭に向けたクラス会議が始まろうとしていた。
「それでは、文化祭クラス会議を始めます。本日は、“クラスの出し物”について話し合っていければと思います」
美緒の挨拶から始まるものの、教室の空気はどこか温い。
文化祭に強い関心を示す様子は、あまり見られなかった。
とくに、美緒と同じクラス委員の三浦はというと、席に座ったまま友人と目配せを交わし、へらへらと笑っている。
「……三浦くん、もう少し真面目に参加してもらえるかしら」
「え?あ、あぁ。悪い悪い」
美緒ははあ、とため息をこぼしながらも、気を取り直した。
その様子を、蒼真は特に口を挟むでもなく、ぼんやりと眺めていた。
「……それでは、文化祭の出し物について意見を出してください」
美緒の言葉に、しばらく沈黙が流れる。
その空気を破ったのは、三浦だった。
「はいはい! じゃあさ、教室でゲーム大会とかどう? ス〇ブラとか持ち込みでさ」
数人の男子がすぐに乗る。
「それいいじゃん!」
「普通に盛り上がるやつ」
女子の方でも笑いが混ざり始める。
「えー、それ文化祭でやる意味ある?」
「でも楽そうじゃん」
空気が一気に“遊び寄り”へ傾く。
美緒は一度、黒板を見てから静かに声を出した。
「ゲーム大会は許可が下りない可能性が高いわ。それに、クラスの出し物としては少し弱いと思う」
「えー、堅くない?」
「真面目すぎじゃね?」
笑い混じりの声が返ってくる。
「文化祭なんだからさ、もっと適当でよくない?」
その言葉に、美緒の手が一瞬止まる。
「適当、というのは……」
「いやほら、そんなガチでやらなくてもさ」
空気が軽くなるにつれて、三浦も調子に乗り始める。
「じゃあさ、休憩所でよくね? 椅子置いといてダラダラできるやつ」
「あー、それいい」
「準備も楽だし」
クラスの半分以上がその流れに乗りかける。
美緒は小さく息を吐いた。
「休憩所は、他クラスとの差別化が難しいわ。それに――」
「いやでもさ」
女子の一人が笑いながら口を挟む。
「そんな真面目にやらなくてもよくない? 櫻井さんだけ熱くなりすぎじゃない?」
くすくす、と周囲が笑う。
「空気読みなよってやつ」
その一言で、教室の温度が少しだけ変わる。
「おいお前、お前は何がしたいんだ?」
「えっ?」
「何でわざわざやる気ない方向に持っていこうとするんだ?」
「な、何を……」
「美緒は真剣に取り組んでる。同じくらいの熱量を持てとは言わんが、せめて邪魔をするのはやめ――」
「高槻君」
美緒が蒼真をじっと見つめる。
「……あなたこそ、どういうつもりなの?」
少し間を置いてから続ける。
「別に擁護してなんて頼んでないわ。そうやってクラスの空気を乱すのはやめてくれるかしら」
蒼真は一瞬だけ黙る。
「あちゃー……」
咲希は二人の様子を見て頭を抱えている。
「……いや、そういうつもりじゃなかった」
小さく息を吐いて、肩を落とす。
「……わかった。もう黙るよ。邪魔して悪かった」
それだけ言うと、机に肘をついて視線を落としたまま、会話から外れた。
「まあまあ、お前らちょっと落ち着け。櫻井も、な?」
「……すみませんでした」
一度、教室に静かな間が落ちる。
やがて、三浦が気まずそうに手を上げた。
「……じゃあさ、さっきのフォトスポット案でいいんじゃね? 背景いくつか作って、写真撮れるやつ」
「それなら準備もそこまで重くないし、文化祭っぽくはなるかもね」
女子の一人が小さく頷く。
「おお、それならアリじゃね?」
「休憩所よりはマシかも」
ぽつぽつと賛同が広がり、空気が少しだけ現実的な方向に戻っていく。
美緒は黒板を一度見てから、小さく頷いた。
「……それなら、形としては成立するわね」
「じゃあ、フォトスポットで決定ってことでいいか?」
三浦の言葉に、特に反対は出なかった。
こうして、1年A組の文化祭の出し物は“フォトスポット”に決まった。
背景をいくつか制作し、来場者が自由に撮影できる形にする案だ。
蒼真は、最後まで口を挟まなかった。
ただ頬杖をついたまま、どこか興味の薄い視線でその流れを眺めていた。
その日の会議は、それ以上大きな揉め事もなく終了した。
文化祭の出し物は“フォトスポット”に決まり、各自の担当も大まかに割り振られていく。
「じゃあ今日はここまで。解散でいいぞー」
担任の気の抜けた一声で、教室が一気に緩む。
椅子が鳴り、鞄が持ち上がり、ざわめきが広がっていく。
放課後特有の、まとまりのない空気。
美緒も手帳を閉じ、静かに席を立った。
――いつもなら。
ふと、視線が横にずれる。
そこにあるはずの気配が、なかった。
「……」
蒼真の席はすでに空だった。
机の上も整えられていて、忘れ物の一つもない。
もう帰ったのか、と理解するまでに少し間があく。
「(……今日は、早いのね)」
いつもなら、何かしら絡んでくる。
一緒に帰ろうとするか、あるいはくだらないことを言いながら待っているか。
それがないだけで、妙に静かに感じられた。
「……少し、言い過ぎたかしら」
小さく息を吐いた美緒の横で、咲希が机に鞄を引っかけながらその様子を見ていた。
「みおち、たかっちゃんのこと気にしてるの?」
「別に、そういうわけじゃ……」
言いかけて、言葉が止まる。
咲希は少しだけ肩をすくめるようにして、軽い調子で続けた。
「んー。そんなに気にしなくていいと思うよー」
「……そういうものかしら」
「うんうん。あいつ、ああ見えて切り替え早いからさ」
咲希は窓の外に視線をやりながら、なんでもないことのように言う。
「明日にはケロッと元通りだと思うよー。たぶん、朝になったら普通に“おはよう美緒!”って言ってくるって」
「……」
美緒は少しだけ黙る。
「だからさ、みおちが変に気にする方が、あいつは逆に調子乗るかもよ?」
「……それは、否定できないわね」
小さくため息をつきながら、手帳を鞄にしまった。
翌日。
教室の窓はすでに少し開けられていて、ゆるく風が入ってくる。
黒板には前日の消し跡がうっすら残っていた。
美緒はいつも通り、少し早めに教室へ入る。
鞄を机にかけ、手帳を開きながら軽く予定を確認する。
そのとき、ふと視線が後ろに向いた。
蒼真の席。
そこには、すでに彼がいた。
ただし、いつものように騒がしくも、眠っているわけでもない。
椅子に座り、窓の外を見ているだけだった。
耳栓もアイマスクもない。
それだけが、やけに目についた。
美緒の中で、説明のつかない違和感がひとつだけ落ちる。
「……」
視線を外し、黒板へ向かう。
チョークを手に取り、軽く黒板を整えながら、何気なく声をかけた。
「……おはよう、高槻君」
一拍。
蒼真はすぐには振り向かない。ほんのわずか遅れて、視線だけがこちらへ向く。
「ああ、おはよう……櫻井」
そのあとに続くはずだった言葉が、一瞬だけ喉元まで出かかり――飲み込まれた。
蒼真は何事もなかったように視線を逸らす。
「……ええ、おはよう」
それだけ返して、黒板へ視線を戻す。
言葉はそこで途切れた。
その事実だけが、美緒の中で妙に引っかかった。
「……」
蒼真は一度だけ口を開きかけて、やめる。
そして視線だけを、美緒の背中に残したまま――すぐに逸らした。
まるで、何かを確かめるように一度だけ視線を置き、すぐに外した。
【あとがき】
どうも、替玉です。
諸々の更新滞ってて申し訳ない。
という状況なのはわかっていつつも・・・
性懲りもなくまた新作連載を始めてしまいました。
お前は一体、何作品並行して書くつもりなんだって話ですね。
これ以上は増やさない。
多分、きっと、おそらく、Maybe。
今回は、いわゆる両片思いラブコメ作品……なのかなあ。
ぶっちゃけ、どこかで見たことのある展開かもしれないですが、
僕なりの味(?)を出せるように頑張りますので、応援していただけたら嬉しいです。




