ブレーメンの邂逅
気がつくと、ルゼットは薄靄が漂う地面に倒れていた。
横向きの頬の下はひんやりとしていて硬く、ごつごつした感触の石畳のようだ。
手をついて起き上がろうとし、左腕が動かしにくいことに気づく。
「………?」
そちらに目をやると、肘と手首のちょうど真ん中あたりに、深々とした二つの穴が空いているのが見えた。
(うわ……)
餓狼に噛まれた跡だ。
血はすでに止まり、感覚が麻痺しているのか痛みもない。しかし体の一部であるという実感もまたない。
ふと横を見ると、うつ伏せのフィルスが肘をつき、頭を振っているところだった。
「あ、ルゼット!」
こちらに気がついたフィルスはすぐに上体を起こし、手をついたままのルゼットを見て息を飲んだ。
「左の腕が……」
優しげな顔が悲痛に歪む。ルゼットは慌てて起き上がった。
「大丈夫だ。すぐ治る」
片膝を立てて座ると、フィルスはホッとしたように肩から力を抜いた。しかしルゼットはいつもと感覚が違うことを自覚していた。
ルゼットの体は、たとえ電脳をオフにした状態でも、怪我をした瞬間、自動的に稼働して回復モードになる。他のエネルギー消費を抑え、細胞を活性化させて通常の何倍もの早さで損傷部を治癒させるのだ。しかし今、痛みこそないものの穴の塞がる気配はなく、電脳はスリープ状態にある。どんなにエネルギーが少なくても、この状態で電脳が稼働してないのはおかしい。
(これはやっぱり、あの獣型アンドロイドの仕業ってことか)
翼を震わせて調子を探っていると、気遣わしげに寄り添ったフィルスが、靄の漂う周囲を見回した。
「ここは、どこなんでしょう」
おそらくは連邦軍の持つ基地のどこかだ。
ルゼットは顔をしかめてフィルスに言った。
「なんで離れなかった。おまえは王の義務を放棄する気か!」
「も、申し訳ありません。でも」
フィルスは上目使いながらも言葉を続けた。
「あの場面で手を離したら、僕は自分に誇りが持てなくなります」
「………っ」
その気持ちを汲めないほど無情には慣れない。
ルゼットは頭をひとつ振って気持ちを切り替えた。
「それで? 餓狼に連れ去られた兵士はどうなった。助けられたのか」
「はい。鎌鼬でなんとか」
「ならいい。とにかくフィルティアに連絡だ」
片手でポケットを探り、通信端末を操作する。しかしこれも反応がない。
「僕の呼びかけも届きません。何か重い壁を感じます」
フィルスの心話の力はあまり強くない。連邦軍基地のバリアを破ることは無理だろう。
じわじわと焦燥を募らせながら、ルゼットは乳白色に霞む石畳の先に目を凝らした。
もし自分の予想が当たっていたら、それは恐ろしい結果を生むことになる。
三年前、寿命も力も十分にありながら、急速に衰えて死んだというフェロデ王。
金の狼に噛まれて気を失ったキレート。
力を吸いとられたまま回復できない自分。そしてあの言葉。
《検索データ一致。ターゲット発見》
まさか。この一連の事件はすへて。
揺れる思いで目を凝らしていると、徐々に薄れゆく靄の向こうに、見たくもない情景が映し出された。
前方七、八メートルほど先の、広場らしき石畳の空間に立ち並ぶ銃を構えた男たち。
その中央で腕を組む、見覚えのある立ち姿。
靄で霞む広場の奥には大勢の兵士の気配がある。さらに遥か後ろには、うっすらと建物のシルエットが浮かんでいた。
「あ、あれは……?」
隣のフィルスが驚きの声を上げる。すると真ん中の男がニヤリと口の端を吊り上げた。
「ようこそブレーメンへ。RUZZT-1」
「………!」
黒地に金の刺繍が施された美麗な軍服。かっちりと後ろに撫でつけられた短い金髪。七年前と寸分も変わらない、大きな琥珀色の瞳、酷薄そうな口元。見紛うはずもない、それはユリウス・カトー大佐の姿……!
「元気そうで何よりだ」
尊大に言い放つユリウスの足元には、あの狼の姿をしたアンドロイドがいる。この貧弱なエネルギー状況を把握されているのは間違いなかった。
ルゼットはなけなしの力を振り絞り、ゆっくりと立ち上がった。
「あんたもな。カトー大佐」
言いながら、隣に立ち並んだフィルスの前に少し体をずらす。
「……おれを捕まえに来たのか」
フィルスがハッとこちらを見上げ、ユリウスの顔に笑みが浮かんだ。
「そのとおりだ。たとえ何十年経とうとも、おまえは連邦の財産。その体は羽の一本に至るまで軍の所有物だ。取り戻すのは当たり前だろう」
足かけ五年もかかったがなと続けられ、思わず彼を凝視した。
ルゼットが妖獣退治に加勢し始めたのも、世継ぎのフェリシア王女が亡くなった五年前からだ。
「その転送装置を備えたアンドロイドを開発していたからか」
「そうだ。どこかの誰かがデータを破棄してくれたお陰でいちいち手間がかかる」
「おれが妖獣狩りを手伝い始めたことを調べ上げて、わざわざ餓狼に似せたものを作ったのか」
「もちろん。情報収集は軍務の基本だ。餓狼は犬科の習性を持つので操りやすいのだ」
予想通りの答えに体が震える。ルゼットはごくりと生唾を飲み込むと、もっとも怖れる予想を口にした。
「……まさかフェロデ王の急死にも、あんたが絡んでいるのか」
フィルスが息を飲む気配がする。ユリウスは酷薄な笑みを浮かべた。
「フィルティアの血を引く小娘か。あれはまあ、偶発的な事故だった。試作機第一号を送り込んだら偶然、鉢合わせたようだな」
「……っ」
足元が崩れるような感覚に襲われる。ユリウスは得意げに続けた。
「すぐに攻撃されたが、新装備のエネルギー吸収装置で対抗した。試作機にしては上出来だった」
「エネルギー吸収装置……」
それがフェロデ王の生命力を奪ったのだろうと推測された。
「ところが死にかけの小娘に試作機を壊されてしまってな。一からやり直しだ。まったく誤算だった」
心底口惜しげにこぼされ、背筋に震えが走る。しかしそれが怒りに変わる前に重大なことに気がついた。
(もしここでフィルスが殺されたら、リンドフェンリルは終わりだ!)
ルゼットは必死に感情を鎮め、思考をフル回転させた。
「……連邦は、クレシドの私有地に手を出してはならないはずだ。あんたのしたことは重大な協定違反だぞ」
ユリウスは若干、苦い顔をした。
「ガレイルが正式な交渉を拒む以上、仕方なかろう」
「軍人は連邦の定めた規定に従う義務があるはずだ。一将校が破っていいはずがない」
「協定だかなんだか知らんが、政治家に任せていても埒が明かない」
「なっ……!」
「この際、やつらの思惑なんぞ構うものか」
その言い草にはさすがに憤りを覚えた。
「ふざけるなっ! 国の取り決めをなんだと思ってるんだ。そのせいでリンドフェンリルは今、大変な事態に陥ってるんだぞ……っ!」
後ろの部下の銃口がルゼットに向けて動く。しかしユリウスは片手で部下を制してから口の端で笑った。
「試験国の運営など知ったことか。先に違法な手続きでおまえを奪ったのはウェジニールとガレイルだ。私が真似をして何が悪い」
「……っ」
「そもそも七年前、おまえだけでも引き渡されていれば、まだしも納得できたのだ」
その言葉はルゼットの一番弱いところを直撃した。
(おれが、あのとき残れば)
そうしたらフェロデ王は失われず、フィルティアを悩ませることはなかった。フィルスも重荷を背負わなくて済んだのだ……。
「これ以上、厄介の種になりたくなければ元の鞘に収まれ。自ら私のもとに来るがいい」
「………」
ルゼットが俯くと、フィルスがグイと横から身を乗り出した。
「あなたのほうこそが厄介の種でしょう! この方はクレシド総主たるガレイル様のご養子。連邦軍に行かねばならない理由などありません!」
「最下層の民も劣る被験体の分際で領族にものを申すか。身の程知らずな」
ユリウスの気配が険しさを増し、気圧されたようにフィルスは顎を引いた。しかし抗議はやめなかった。
「下層といえど私も一国を預かる身。我が国に下された恩寵を奪われるわけにはまいりません。全力で阻止してみせます」
「ほう。おまえが跡継ぎか。確か小娘の孫だったな。遠くはフェリオルの子孫というわけだ。私が奴と同じ部隊にいたと知ってもなお向かってくるか」
言葉に詰まるフィルスにユリウスはニヤリと笑いかけた。
「無知ゆえの度胸に免じて教えてやろう。このアンドロイドに持たせた機能は、私の力を参考にして開発したものだ」
「えっ……?」
「私の力は特異能力の無力化。接触した相手の力を吸収する。結界も効かないのだよ」
「……っ!」
「だから何度退治しても餓狼が入り込んできたのか……!」
ルゼットは我知らず身震いした。
この高慢な男が、己の力を実験道具として提供し、アンドロイドに応用させたというのだ。
もはや彼はルゼットを取り返すためならどんな手段も厭わないだろう。〈ウェジニールの翼〉とは、かくも深い業としてこの男に刻まれたのだ。
絶望にとらわれたルゼットの横で、けれどフィルスはなおも退かなかった。
「では、あなたには近寄らないようにして戦うまでです」
両手が攻撃の構えをとる。
「待っ……!」
ルゼットが庇う間もなくユリウスの両側から閃光が飛んだ。
「……っ!」
咄嗟に顔を庇ったフィルスの服のあちこちがジュッと音をたてる。
「諦めろ、小僧。貴様の力など我々の装備の前では取るに足らん」
兵士たちが銃を構え、ユリウスが余裕顔で笑う。フィルスの力では防御しきれないのだ。
「よせフィルス! 前に立つな!」
血を滲ませたフィルスは首を振って拒んだ。
「いいえ渡さない。僕は絶対に諦めません!」
寸分の迷いもなく発された声に、ルゼットの喉が詰まり、胸が熱くなった。
必死に役目を果たすフィルスを助けられることが嬉しかった。
笑顔で感謝されれば、出来る限りのことをしてやりたくなった。
けれども翼の軛が苦しくて、異形と嫌われるのが怖くて、どんなに歓迎されても素直に受け取ることができなかった。
それなのに、彼はどこまでもまっすぐに心を捧げてくるのだ。
(一体どうしたらいいんだ!)
絶望と焦燥で思考が止まりかけたそのとき、ふいにルゼットの脳裏に閃きが走った。
(そうだ、父さんの置き土産!)
「やめろ! わかったから」
顔を上げ、ふらつく足で一歩前に出ると、フィルスが慌てて肩をつかんできた。
「ルゼット!」
「ようやく自分の立場を理解したか」
ユリウスが満足そうに口角を上げる。ルゼットはフィルスの手を外しながらユリウスに告げた。
「条件がある。彼に手を出さないことだ。それをあんたの名にかけて約束してくれるなら、おとなしく従う」
ユリウスは腕を組んで頷いた。
「いいだろう。おまえが自ら私のところに来るのなら、試験国の跡継ぎなどいらん。リンレークに返してやる」
ルゼットは首を横に振った。それを鵜呑みにするのは危険だ。最悪、陰で始末されて終わりになる。
「おれが離れたらアルバータ基地に連絡しろ。フィルティアが応答し次第、そばに行く」
彼女ならここに瞬間移動できる。基地のバリアも突破可能だ。
「部下からの報告で今頃は必死にフィルスを探しているはずだ。通信が行けばすぐにここへ瞬間移動してくるだろう。誤魔化しはきかないぞ」
彼は渋面を浮かべながらも条件を飲んだ。
「……まあいい。承知した」
ルゼットはフィルスに向き直った。
「おれが離れたら後ろへ下がれ。フィルティアが来るまでは気を抜くなよ」
フィルスは激しく首を横に振った。
「あなたも一緒でなければ嫌です!」
「聞いただろう。おれはおまえに……おまえの国に災いをもたらした。だからけじめをつけに行く。おまえは王の義務を果たせ」
「……っ」
「ただでさえおまえの張る結界は弱い。今は何を優先すべきなのかを考えるんだ」
あえて痛いところを突くと、フィルスは顔を強張らせた。心で詫びながら言葉を重ねる。
「おれも、おれにできることをするから」
それはルゼットに残された最後の手段。
かつて〈ウェジニールの翼〉には、ウェジンだけが命令できる自爆コードがあった。
翼が制御不能に陥ったとき、電脳が最後の手段と判断して受け入れる。
彼が十体の〈翼〉たちを連れて消えた最大の理由。それは責任をもって暴走を止めることだったのではないか。
その推測の根拠が声紋による自爆命令だ。
ルゼットのそれはウェジンの死とともにガレイルに委ねられた。が、彼は新たな命令者にはならなかった。
『私の養子に自爆コードなど必要ない。この暗号で電脳が処理できるはずだから、設定を解除するように』
それがガレイルの意志。しかしルゼットは己の暴走に備えて解除はせず、自分の声紋を新たに書き加えておいたのだ。
まさに今、電脳は制御する力を失っている。
目を閉じ、エネルギーの残量を読み取る。ユリウスを連れていくには十分だろう。
「じゃあな」
「………」
ルゼットは立ち尽くすフィルスから離れ、ユリウスに向かって歩き出した。
彼との距離はおよそ七メートル。
だいぶ靄が晴れた石畳の上、二人の中間の辺りでルゼットは一旦、足を止めた。
「今度はそっちの番だ。連絡しろよ」
「よかろう。おい、アルバータ基地に通信だ」
ユリウスの呼びかけに右後ろの兵士が銃を下ろし、腕の端末を操作し始める。端末が音を発し、兵士が応対しだした。
ルゼットはゆっくりと前に進み、ユリウスの目の前に立った。
「ようやく手に入れた」
満足げなユリウスの手が肩に触れたとき、ルゼットはその言葉を口にした。
「Φπα―……」
直後、体の奥深いところで何かのスイッチが入った気がした。
――あ。
背に納まっていた翼が静かに縮みを解き、下へと垂れていく。
ああ。これですべてが終わるんだ――。
「今のはなんだ」
ユリウスの不審げな表情に心を擽られ、顔を近づけたルゼットは秘密を明かすようにささやいた。
「あんたの終わりさ」
「終わり?」
「おれの終わりでもある」
「何だと?」
「おれと一緒なら、あんたも本望だろう?」
「何を言っている」
不穏な気配を感じたか、ユリウスが身を固くしたとき。
「だめです!」
いきなり叫び様に駆け寄ってくる足音がした。
(なにっ!)
ルゼットが振り向くのと、フィルスが腕に飛びついたのが同時だった。
「離せっ! 来るんじゃない!」
「嫌です! あなたこそやめてください!」
「……っ!」
胸の奥が捩れるような感覚にとらわれる。
(なんでおまえがわかっちまうんだ!)
振り切りたくてもすでに力が入らない。
「離せ! 早く離れろ!」
「嫌です!」
フィルスが激しく首を振る。
「一体、何のまねだ」
ユリウスが割って入ろうとしたとき、ルゼットの体内で音声が響いた。
〈セーフティーロック解除〉
もはや止めるすべはない。このままではフィルスを巻き込んでしまう。
「離せぇ――っ!」
焦燥に叫びながら体を捻ったそのとき。
「Ёχγμβ――…」
どこかで聞いたような声が響き、ふいに体が硬直した。
パァ―――ンッ!
破裂音が耳を打ち、衝撃と白光に襲われる。
「うわぁっ!」
瞬時に目を瞑るも、衝撃と風と光の奔流に煽られて膝が崩れていく。
止める力もなくルゼットはうつ伏せに倒れた。石畳に頬が当たったが、痛みはまったく感じない。
――おれは、今の一撃で死んだんだ。
不思議な安堵感を覚え、同時に悲しみが生まれる。
フィルスを巻き添えにしてしまった。
どこまでも迷惑にしかならなかった自分の存在を、もはや何と言って詫びればいいのかわからない。
けれど薄れ行く意識の中、最後に脳裏が映したのは、懐かしいオアシスの青と、兄たちの墓標を囲む青い空。
その空と同じ色の瞳をした、優しげな少年の笑顔だった――。