凶刃の暗翼
街の東北部の外れには牧草地が広がり、酪農が盛んであるが、そこでバゥの生産を専門的に行う者はそう多くない。街と都を繋ぐ街道沿いの農作地区で農業の副業として発達しているのがバゥ産業であり、直接の需要を生み高く売れる街道と寄り添うことで、そこでほぼ完結している。
アルエは街の北西部で数件のバゥ生産業者の敷地を巡り、その厩舎を見つけた。
「人目につきにくく、開けた広い土地を持ち、小規模な厩舎……。もしも子供を秘密裏に育てて運動もさせることが出来るとすれば……こういう環境がいいのかな」
アルエは閉め切ってある柵の戸を開け、堂々と敷地に忍び込んだ。
厩舎の外壁に膝をあてると、すぐにそれに気づいた。
「あ、屋根裏が……もう当たりか、だとしたらついてるな」
暗闇の中、音もなく侵入し、道具が立て掛けてある角のあたりで膝を壁にあてる。そうして確かめた後、天井の板を、長い農具で押し開けた。道具を返し、そしてまた壁に膝をあてると、その天井の穴からひとりでにロープが垂れた。
「罠じゃないのが不思議なくらいだな……。私も、少しは一人前に近づいているのかな」
アルエはロープを上り、真っ暗な屋根裏で片膝をついた。マントの中から球体の白い瓶を取り出し、少し出っ張った、指が一本通るほどの小さな口を、唇でくわえた。
するとその球体は乳白色の光を灯し、あたりを淡く照らした。アルエはロープと板を戻すと、立ち上がり、その光を強めた。
「ねろほは……」
ささやくのは早々に諦め、寝床のように干し草が集まっている四カ所へそれぞれ近寄って光を当てていった。その瓶の光はアルエの意思に従って、細くなり、強くなり、動いていた。
一通り巡ったアルエは、仔細に調べるべく干し草の中に膝をついた。上体を屈め、やがて手袋で何か細かなものを引き抜くようにして摘み出した。そこで口からもう片方の手袋へ瓶を落とし、暗闇の中、その瓶の中に摘み出したものを入れる。
アルエは座って両膝を立てた姿勢で、その瓶を両膝の間に挟んだ。すると消えていた光がまた灯り、中に黒い線状の影が生まれた。
光量と方向を絞りつつ、アルエは瓶に入れた物体に目を凝らす。
「やっぱり……人間の、髪の毛だ」
アルエは静かにため息をつき、眉間にしわを寄せた。あたりの暗闇を見回し、
「世の中にこんな恐ろしい生活があるなんて……。精神操作か……」
憎々しげにつぶやいた。
アルエが自宅の近く、狭い四つ辻にさしかかった時だった。
突然、その全身を緊迫した気配が覆い、髪が膨れた。
ぴくりと足を止め、視線を鋭くする。硬質な息を吐き、上体を沈めてまたすぐに駆け出した。
「まさか、ソシェウが来ているのか……。あの嘘つき、家には戻らないって言ったくせに」
しかし、いざ裏口の扉に膝をつけた瞬間、今度は全身が固まった。
わずかに緩んでいたアルエの表情は、深刻なものへと一変した。
「ミグ……!」
扉を跳ね開けて中へ飛び込む。
光源は少なく、薄暗い。棚がぼんやりと光を放ち、その横、垂れ幕が上半分を覆う下から、暖炉の明かりが揺れながら足下を照らす。
垂れ幕をくぐり部屋に入ると、仮面の奥、ふたつの瞳がアルエを見上げた。床に転がったその頭部に、四肢が力無く繋がっている。砕けた両手に、折れた片脚。
部屋の奥では、暖炉の側にはミグが真っ直ぐに寝かされており、その手前、じゅうたんの中央で椅子に座った青年が大きく脚を組んでアルエに正対していた。
「お前……、この死体について今すぐ説明してもらおうか」
青年は目を伏せたままで、アルエにはまるで無関心な態度だった。長い手足をそれぞれに組み、顎の先に拳をあてている。
「運命、か……」
「なに? 何を言ってる? ロディ、こっちはこの死体について知ってることを話せと言っているんだ。すぐに答えろ」
炎が、青年の背の先で忙しく揺れている。
「俺はね、自己に制約を課していたんだ。聖者の精神には決して触れないと……だが今、それを破った。お前にどんな悪事をなされたかを知り、そして、お前の弱点を探るために……だがどうだ? まったく思いもよらないことばかりだ、魔女というのはどうあっても人を煙に巻く性質のものらしい」
それは、あまりにも超然とした話しぶりだった。目の前と自分の座る椅子の傍らに二人、異装の少女の死体が転がっているとは思えないような、どこまでも平然とした話し声だった。揺れず、震えず、魔女と遭遇した昨日の朝には一度も発さなかったような、それは日常の最も弛緩し寛いだ時に漂い出るであろう、静かでゆったりとした声色だった。
アルエは身じろぎすら叶わず、眼前に広がる異様な組み合わせの光景に魅入っていた。
「多彩な手で邪魔をしてくれるね、まったく恐ろしい敵だ。魔女、ミグを洗脳したのか? それをまず訊いてみたい。どうだ?」
ロディは視線をアルエの足下にまで持ち上げた。その這い寄るような視線の動きに、アルエは半歩後ずさった。
「それは、お前の領分じゃないか? 私にそんな魔力はないし、仮にあってもミグに使う理由がない」
気怠げに息をつき、ロディはまた平静な調子で語り出す。
「……やはりな。痕跡を隠したのかと疑ったが、それほど精神操作に長けているはずもないか。ではミグは、心からお前を慕っていたことになる……。逃げる機会は少なくとも二度あった、森へ素直に向かわず街の付近へ戻るか、森でお前が倒れた時だ。この時に至っては、ミグはお前を介抱さえしていた。逃げるという考えは一片もなかった。これで、お前に精神操作の力が一切ないこの場合は、むしろ俺には好ましくない結果と言えるな。ミグは、自発的にお前に従っていた……それが聖者の意志なんだ。俺は、俺のこれまでの全ては、もしかしたら何もかも見当違いだったのかも知れないということだ……」
ロディは独白の声をわずかに荒げ、暗い光を宿す双眸をゆるやかに上げた。
「いや、だが、これで良いはずだ。聖者は無私に過ぎる、それを俺が、歴史の表層にまで引き上げるんだ」
「……お前は、何をした? そのつくられた魔女たちは、お前が育てたのだろう? なぜ殺したんだ」
「殺した……、それは違うな。俺の中に移したんだよ。こんなことが出来るなんて自分でも意外だったな……そうか、魔女、お前のおかげでもあるな。こうして〝蛮族〟がひとり死にかけてくれたからこそ思いついた手なんだ。そう、こいつの持つ魔力を、全て移すことができた……この俺の身に、精神に」
「その代償に命を失うのか? まさに悪魔さながらだな、そもそも、お前は四人の子供を……! お前は! 口にも出来ないような悪行を重ねた。聖者のためだか何だか知らないが、何人を殺した? その手で、その魔力で! 街を狂わせたのもお前だろう、違うか?」
アルエは怒りよりも濃い悲哀に声を震わせ、ロディに言い募った。
「私は、自分が情けない……。なぜ気づけなかった? あの時、お前はやはり紙など書いていなかった。注意が、疑いが足りなかった。師が手配したのかとも思ったが、ああ、くそっ……」
「まあそう嘆くことはない、俺にも後悔はある、それは最初に、お前を買いかぶり過ぎたことだ。最初にお前の目を見て、常人なら充分に操れる強さの魔力を瞬間的に使った、がそれが全く通じなかった。その時、これでは完全な操作は難しいどころか、最悪の事態を招くかも知れないと思った。それは、俺の全力での魔力さえ通じず、しかも俺に魔力があるとお前に悟られてしまうという事態だ。そうなると、直接の格闘でお前と闘う事になり、それは是非とも避けたかった。今思うと消極的に過ぎる考えだったな、お前に俺の魔力が通じないなんて……どう思い違ったのか、いやいや、そうか、今はもう俺の力が増しているのか。そうだったな、確実に優位に立つため、その意図もあってこいつらをこうして使った……となると、魔女、お前がこいつらの命を消す一助となったわけだ」
アルエは激しく吸気し、歯を食いしばった。足の指が、床に爪を立てる。声も出ない彼女に対してロディは、澄みきって落ち着いた口調で続ける。
「戯れ言を言っている場合でもないな、魔女、お前の置かれている状況を把握しているか? まあ些末な事だが……」
身体を折り、その反動でゆっくりと立ち上がる。そしてロディは、透過するような眼差しをアルエに向けた。
「多くの犠牲があった。だが俺は、それがこの先の礎となるよう、力を尽くすつもりだ。いいか、ここまでの筋書きは俺によって作られた、そしてこれから聖者の復権と、その地位の確立を目指す。遠回りに見えるだろうが、俺という存在が消えた後も聖者が良い地位を保ったまま存続していくためには、この筋書きしかなかった。民衆の総意は、直接操るにはあまりにも大きすぎる存在だ。だから俺は、新たな歴史という強い記憶を植え付けることにした。聖者が、今日この街を、国中を包んでいる恐怖と混乱を拭う……古い伝承が現代に繰り返され、そして人々は改めて気づくだろう。聖者は人類にとって不可欠であると、人類よりも遥かに優れた存在であると。俺は、未来永劫に続く、世にあるべき価値を残すんだ。それは俺が俺のしたいようにするというのではなく、単に、聖者にあるべき世界を用意してやりたいんだ。それは、俺さえいれば、俺がいる間ならばまったく易いことだ、だが、俺は永遠ではない。だから俺には、簡単な、浅慮で短絡な手を講じることは許されなかった。それはこの力を自覚してすぐに思い当たったことだ。後発を育てるという意味もあり、各地で子供たちを育成した。彼女らは昨日から各街で働いているが、今日は邪魔が入っているな……まあそれはいい。その育成の環境は確かに端から見れば酷いものだろうが、本人には苦痛はいっさい無い。どんな安楽な暮らしをする貴族よりも幸せに生きているさ。俺は、聖者がしかるべき地位についた暁には、今度は人類全体に幸福を与えよう。もちろん、それは聖者がもたらしたものとしてまた人々の記憶に残り、聖者を讃える心理が根付くように……俺はもう人を殺めるようなことはしない、これからは償う、いや、創っていくんだ。あるべきものを、あるべき形のまま活かすんだ。聖者、彼らこそが俺たち人類の下らない営みの上に立ち、世界を照らす存在なんだ。世界は、聖者のためにこそあるべきだ」
徐々に高まっていく声に、アルエは視線を外せずにいた。その身体には異様に力が入り、ロディによる支配から逃れようとしていた。
やがて、アルエは引き剥がすように数歩後退し、荒い呼吸とともに声を発した。
「私を、見くびったことを後悔する時間だ、お前の魔力では、私は制圧できない」
ロディは軽く首を傾げ、片方だけ笑みをつくった。
「そうか、では、お前の意志を、お前自身の口から聞こう。俺と敵対するか、どうか」
アルエは息をつき、射抜くような視線を向けた。
「答えてやろう……言葉では足りないな」
その瞬間にロディへと跳び、不動のままの相手の至近まで一気に踏み込む。じゅうたんに素足を突き、それを軸に身体を回し、残る片足が、ロディの腹部に深々とめり込んだ。
瞬間的に空気を吐き、ロディは直立の姿勢を全く崩さないままに咳き込んだ。やがて口元から、血が滴り始める。だがその表情は、
「ふふ……ふふふふふはははは」
堪えきれないというように、笑っていた。
アルエはわずかに怯んだが、すぐに怒りも露に踵を振り回してロディの側頭部を蹴った。
「くっ……なんて固さだ。石頭め」
ロディは深呼吸をしながら、頭部をゆっくりと正面へ戻した。そして、服の硬化を解き、肩をすくめるように片手を開いて見せた。
「これが生体操作か、自身に対して使役できるのは楽だな。しかしなんら知力を必要としないなんて、低位な魔力と言えるだろう。それこそ、蛮族に相応しい」
腹部を軽く払うようにさすり、一切の熱のない表情でアルエを見る。
「他者に苦痛を与えるものは、悪だろう? 魔女、お前は俺を糾弾する資格を持たない」
「倫理の話をしに来たのか? 私は、私のしたいようにするだけだ。まずは、ミグを救う。そして次は、なんとかして聖者をこの街に戻す」
「は、なんだそれは。はは……はははっ、お前、何を考えているんだ? 聖者なら、もうすぐ冤罪も晴れて、復権を果たすさ。司祭は事故死だったという事実が明らかにされ、むしろ聖者はその身を呈して司祭を救おうとしたと、そのように、劇的な真実が伝えられることとなる。そして、聖者が街に戻ることによって蛮族の凶行もすぐにおさまる。そういう筋書きだと言っただろう?」
「それは聖者の意志を蔑ろにした、独りよがりな道筋じゃないか。なら私は、彼らの……ミグの望みを実現する手助けをする」
「声も、根拠も、全てが弱いな。まったく今思いついたような口ぶりだ……」
「そうだ、今決めたことだ」
ロディの表情に、初めて険しさが宿った。
「その挑発はなかなか上等だな、言葉では足りないというお前の意見を採ろうか。お前の魔力を真っ向から、同じ物体操作だけで受けてやろう。ふざける時間は終わりだ」
「私はずっと真剣だ。這いつくばってそれを知れ」
アルエは距離をとり、片足だけを乗せてじゅうたんに魔力を送り、勢いよく巻き取ろうとした、がしかし、全くその意思の通りにはならず、毛一本たりとも動かない。
「残念だが、力負けだな」
短く息を吸い、アルエは硬直した。視点も、全身も、一時に静止し、そしてその直後、今度は糸が切れた人形のように弛緩した立ち姿へと変じた。瞼が開かれたままで、炎を映す瞳がただそこに無機質に存在している。
「しかし、おかしな事だ、俺は物体操作など今日までほとんどできなかったんだが。こうなると、お前の魔力を得る必要性も疑わしくなってきたな。まあいい、茶番にもならないことはやめよう。さあ魔女、とりあえず座るといい」
アルエは、言われるまま真っ直ぐに椅子へ向かい、座った。ぎこちない動作で、その表情に意思は存在していない。ロディに睨まれた瞬間に、アルエの全ての自由は奪われていた。
ロディはその正面へ揺れるように立つと、細身の小さなナイフを取り出し、その切っ先をアルエの睫毛にあてて止めた。先端の位置だけを動かさないように、手首を返し、刃を回転させる。
それを止めると、次の瞬間強く振った。宙に曲線が閃き、アルエの頬に傷が生まれた。
その間中、一度もアルエが瞬きをしていないのを確認すると、ロディはつまらなそうに口を開いた。
「本当に、これが魔女か……こんな程度の相手に、臆していたなんてな」
ぶん――と風を切り、刃の先端がアルエの睫毛の間を通った。反応は何もない。
「これでは師とやらも期待できないな……」
その独り言に呼応するかのように、返答があった。
「それは期待の内容によるだろうね」




