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人生、だいたい想定外。~創作・育児・日常エッセイ集~

足の親指がしびれて病院へ行ったら、なぜか向精神薬が処方された件

作者: 白鐘
掲載日:2026/06/21


診察の終わり際、先生が何気ない口調で言った。


「あと、向精神薬も出しておきますね」


「……え?」


一瞬、頭が止まった。


当時の私にとって、向精神薬は精神科で処方される特別な薬というイメージだった。


いや待って。

今日の主訴、しびれなんだけど?


頭じゃない、心でもない。親指である。


しびれで受診した結果、向精神薬が処方される世界線なんて、誰が予想できるだろう。



その日の夜。

食卓に並べた薬を、しばらく眺めていた。


血の巡りを良くする薬、メコバラミン。

そして、向精神薬。薬の名前は忘れた。「向精神薬」という単語のインパクトが強すぎて、それしか記憶に残らなかった。


……飲みたくない。


しばらく悩む。まあ、でも。

先生が一週間飲んでみてと言うのだから、一度も飲まずに拒否するのも違う気がする。


「ええい!南無三!」


飲んでみなきゃ分からない。

後は野となれ山となれ、である。


ごくん。


……一時間後。


「あれ?」


身体は普通に動く。手も足も、何の問題もない。


でも、頭だけが朝起きて五分後みたいだった。

その寝ぼけた思考を、もう一人の私が冷静に眺めている。


頭の中だけ、自分が二人になったようだった。


「うわっ。キモッ!」


正直、この一時間で飲むのをやめたくなった。

でも、これは副作用なのか、それとも効き始めなのか。素人の私には分からない。


「……まあ、一時間で医者に反旗を翻すのもな」


そう思い直した。


処方されたのは一週間分。だったら、一週間は付き合ってみよう。


どうせ人生、ネタになる。



翌日。

律儀に薬を飲んで出勤する。


当時の私は、介護職一年目の新米だった。


一般系の大学を卒業し、大学の先生に勧められるまま就職した介護施設。


配属先は、認知症専門棟。


ざっくり言うと、魔境だった。


ご利用者とは会話が噛み合わない。

廊下を四つ這いで進む人がいる。

部屋から顔面血まみれで出てくる人がいる。

一日中、「私のカバン知らない?」と職員に尋ね続ける人がいる。

いつの間にか椅子の座面を食べている人がいる。

杖を振り回しながら職員を追いかける人がいる。


そして、先輩職員の嫌味。


社会人一年目だった。

目の前で起きることは、全部受け止めるものだと思っていた。


利用者さんのことも。先輩の言葉も。現場の空気も。

それが、誠実に働くということだと信じていた。


ところが、その日は違った。

全部、認識はしている。

でも、いつもより気にならない。


薄いフィルターを一枚挟んで世界を見ているような感覚。

すべてが、ほんの少しだけ遠かった。


「……あれ?」


いつもなら気になって仕方がないものが、今日は妙に遠い。


利用者さんの声も。先輩の嫌味も。


ちゃんと認識はしている。でも、心まで突き刺さってこない。

今までは、全部まともに受け止めていたのだ。


だから、ようやく腑に落ちた。

私は、いつも必要以上に周囲を受け止めていたのか。


その気付きだけは、不思議と頭から離れなかった。



そんなことを考えながら、一週間薬を飲み続けた。

足の親指のしびれも、少しだけ改善した。

薬はそれっきり。でも、一つだけ大きな収穫があった。


必要以上に、周囲へ神経を張り巡らせながら生きていた。

少しくらい肩の力を抜いたところで、案外誰も困らない。


そんなことに、初めて気付けた。


今でも意識して、一歩引いて景色を見るようにしている。


そのおかげか、なんやかんや十数年経った今も、私は介護の現場にいる。


楽しいこともある。

大変なこともある。


それでも。


「まあ、いっか」


あの一週間は、案外悪くなかったのかもしれない。


ちなみに、これは後日知った話である。


私が配属された認知症専門棟。


実は、周辺施設で受け入れが難しくなったような、認知症の周辺症状(徘徊、異食、暴力、不安など)が特に強い利用者さんが集まる棟だったらしい。


もちろん、利用者さんが悪いわけではない。

でも、新人にはなかなかの洗礼だった。


……通りでね!

「なんか皆さん、アクが強いなぁ」とは思ってたんだよ!


いや、人事の人!


なんで介護一年目の新卒を、そんな魔境に配置したんだコンチクショー!



6/22追記。


本日の出勤時。トイレ床一面、水浸し事件が発生した。


犯人は、男性の利用者さん。


頻尿と認知症の合わせ技で、リハビリパンツをトイレへ流し、そのまま力技でレバーを十回ほど引いたらしい。


結果。


六個ある個室の床全面が水浸し。


職員二人がかりで三十分かけて掃除することになった。

しかも掃除の最中、五分おきくらいに下手人ご本人が現れる。


「トイレ空いてますか?」


「あちらのトイレをご利用くださいね〜」


笑顔でご案内しながら、心の中では。


(やりやがったな)



……そんなこんなで。

介護の現場は、今日も私の予想を軽々と飛び越えてくる。


案外、この「次は何が起こるか分からない」が、十数年働き続けても飽きない理由なのかもしれない。

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― 新着の感想 ―
介護士さんって、本当に尊敬します。 いろんな患者さんがいるし精神的に強くないとできない仕事だと思います。 うちの娘が務めてた施設にはゴリラに憑依された高齢者とか妄想が激しくて手が触れただけで「セクハラ…
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