足の親指がしびれて病院へ行ったら、なぜか向精神薬が処方された件
診察の終わり際、先生が何気ない口調で言った。
「あと、向精神薬も出しておきますね」
「……え?」
一瞬、頭が止まった。
当時の私にとって、向精神薬は精神科で処方される特別な薬というイメージだった。
いや待って。
今日の主訴、しびれなんだけど?
頭じゃない、心でもない。親指である。
しびれで受診した結果、向精神薬が処方される世界線なんて、誰が予想できるだろう。
その日の夜。
食卓に並べた薬を、しばらく眺めていた。
血の巡りを良くする薬、メコバラミン。
そして、向精神薬。薬の名前は忘れた。「向精神薬」という単語のインパクトが強すぎて、それしか記憶に残らなかった。
……飲みたくない。
しばらく悩む。まあ、でも。
先生が一週間飲んでみてと言うのだから、一度も飲まずに拒否するのも違う気がする。
「ええい!南無三!」
飲んでみなきゃ分からない。
後は野となれ山となれ、である。
ごくん。
……一時間後。
「あれ?」
身体は普通に動く。手も足も、何の問題もない。
でも、頭だけが朝起きて五分後みたいだった。
その寝ぼけた思考を、もう一人の私が冷静に眺めている。
頭の中だけ、自分が二人になったようだった。
「うわっ。キモッ!」
正直、この一時間で飲むのをやめたくなった。
でも、これは副作用なのか、それとも効き始めなのか。素人の私には分からない。
「……まあ、一時間で医者に反旗を翻すのもな」
そう思い直した。
処方されたのは一週間分。だったら、一週間は付き合ってみよう。
どうせ人生、ネタになる。
翌日。
律儀に薬を飲んで出勤する。
当時の私は、介護職一年目の新米だった。
一般系の大学を卒業し、大学の先生に勧められるまま就職した介護施設。
配属先は、認知症専門棟。
ざっくり言うと、魔境だった。
ご利用者とは会話が噛み合わない。
廊下を四つ這いで進む人がいる。
部屋から顔面血まみれで出てくる人がいる。
一日中、「私のカバン知らない?」と職員に尋ね続ける人がいる。
いつの間にか椅子の座面を食べている人がいる。
杖を振り回しながら職員を追いかける人がいる。
そして、先輩職員の嫌味。
社会人一年目だった。
目の前で起きることは、全部受け止めるものだと思っていた。
利用者さんのことも。先輩の言葉も。現場の空気も。
それが、誠実に働くということだと信じていた。
ところが、その日は違った。
全部、認識はしている。
でも、いつもより気にならない。
薄いフィルターを一枚挟んで世界を見ているような感覚。
すべてが、ほんの少しだけ遠かった。
「……あれ?」
いつもなら気になって仕方がないものが、今日は妙に遠い。
利用者さんの声も。先輩の嫌味も。
ちゃんと認識はしている。でも、心まで突き刺さってこない。
今までは、全部まともに受け止めていたのだ。
だから、ようやく腑に落ちた。
私は、いつも必要以上に周囲を受け止めていたのか。
その気付きだけは、不思議と頭から離れなかった。
そんなことを考えながら、一週間薬を飲み続けた。
足の親指のしびれも、少しだけ改善した。
薬はそれっきり。でも、一つだけ大きな収穫があった。
必要以上に、周囲へ神経を張り巡らせながら生きていた。
少しくらい肩の力を抜いたところで、案外誰も困らない。
そんなことに、初めて気付けた。
今でも意識して、一歩引いて景色を見るようにしている。
そのおかげか、なんやかんや十数年経った今も、私は介護の現場にいる。
楽しいこともある。
大変なこともある。
それでも。
「まあ、いっか」
あの一週間は、案外悪くなかったのかもしれない。
ちなみに、これは後日知った話である。
私が配属された認知症専門棟。
実は、周辺施設で受け入れが難しくなったような、認知症の周辺症状(徘徊、異食、暴力、不安など)が特に強い利用者さんが集まる棟だったらしい。
もちろん、利用者さんが悪いわけではない。
でも、新人にはなかなかの洗礼だった。
……通りでね!
「なんか皆さん、アクが強いなぁ」とは思ってたんだよ!
いや、人事の人!
なんで介護一年目の新卒を、そんな魔境に配置したんだコンチクショー!
6/22追記。
本日の出勤時。トイレ床一面、水浸し事件が発生した。
犯人は、男性の利用者さん。
頻尿と認知症の合わせ技で、リハビリパンツをトイレへ流し、そのまま力技でレバーを十回ほど引いたらしい。
結果。
六個ある個室の床全面が水浸し。
職員二人がかりで三十分かけて掃除することになった。
しかも掃除の最中、五分おきくらいに下手人ご本人が現れる。
「トイレ空いてますか?」
「あちらのトイレをご利用くださいね〜」
笑顔でご案内しながら、心の中では。
(やりやがったな)
……そんなこんなで。
介護の現場は、今日も私の予想を軽々と飛び越えてくる。
案外、この「次は何が起こるか分からない」が、十数年働き続けても飽きない理由なのかもしれない。




