プロローグ
《天海聖暦770年》
どっくん! どっくん!!
客の鋭い視線を感じながら、麺を手揉みしてお湯が沸騰している寸胴の中に入れた。
どっくん! どっくん!! どっくん!!!
あれっ!
茹であがった麺を網ですくいお湯を切り、スープを張った器に入れる。何万回とやってきた動作なのに緊張から手も足も震えそうになり、心臓の鼓動で脳みそが破裂しそうな感覚に陥った。客の尋常ではない威圧感と冷徹な視線が料理人を緊張させていた。
今日は、料理人ゴウがこの異世界でラーメン屋を開店する記念すべき日である。小さな店だが苦労してやっとこの日を迎えることが出来た。店先に開店を示す木札を提げ、「さぁー 『ゴウラーメン べんけい』の開店だ!」と意気込んだ。この世界の住人は美味しいという感覚が鋭い。美味しいと感じたら喜びを身体全体で表現する。自分が作るラーメンに、お客がどんな反応してくれるかとても楽しみだった…
ところが、開店初の客、銀髪の男性がカウンターの椅子に座ってから急に不安が襲ってきた。空気が淀み重く感じる。スタッフもかなり動揺している様子だ。店内が薄暗くなり冷気が漂っているような感覚。
…何かがおかしい...
ゴウは自分に言い聞かせた。
師匠の言葉を思い出せ…
それは、師匠の前で緊張しながら初めてラーメンを作った時に言われたことだ。
『プロになるなら、常に堂々としなさい
自信の無さや不安な気持ちを表情や動作に出してはいけないよ
少しでも出したら客は不味いと感じる、自分に負けるな!』
息を止め、静かに吐いた。
……よし、なんとか気持ちを立て直せた…大丈夫だ、勝負だ!
器に入れた麺を綺麗に整え、手早くバランス良く具材を並べラーメンを完成させ、カウンター越しに明るい声を出して客に提供した。
「お待たせしました! ゴウラーメンです」
客とは調理中も食べている最中も何度も目が合った。その都度笑顔を返し合ったが微妙な空気が漂ってしまった。この味をどう思うか知りたかったが、質問をする雰囲気すら与えてくれない威圧感があった。表情からも何も読めない。
客は、まずスープを口にした。
…絶対に美味いはずだ。焼いた大イノシシの骨と天日干しした魚の骨などを使用した俺の渾身作のスープだ。どうですか? 感想が欲しいです…
―――沈黙―――
次に客は、麺をすすった。
…多加水に仕上げた特注の麺を茹でる前に手揉みした自信作だ。口の中でブルブルッと弾けて麺の美味さとスープの旨味が一緒に拡がる。これはどうだ? 感想を…
―――沈黙―――
その次は、具材を食べた。
…具材はシンプルにチャーシューと食用花のみだ。チューシューは2種類だ。1つは、巨大豚のモモ肉を焼いてから大鍋で煮込み極薄にスライスしたのでスープが染み込み旨さが倍増するはずだ。もう一つは、大熊豚のバラ肉を厚切りにして、野菜と一緒にトロトロになるまで煮込んだ一品だ。どちらも驚くはずだ。どうだ? どうだ!…
―――沈黙―――
客はスープまで飲み干したが、何の反応も示さず店を出て行った。
▫▫▫▫▫▫
開店したばかりの店から出てきた客は、路上でうずくまり身体を震わせていた。絞り出すような小さな声で呟いた
「ふぅ― 衝撃だ! あの味は何だ! どうなっている? 奴は何者だ?」
その客は食文化堅固協会長で美食評論家のカルロ・マルタン公爵だ。彼から氷の視線を浴びた料理人の多くはパニック状態に陥り実力を発揮できない。[料理人潰しのカルロ]の異名を持つ人物だ。料理人からは恐れられているが、嘘は書かないので批評文の内容は大衆に受け入れられている。それも料理人にとっては大きなプレッシャーになっている。
カルロ公爵は、尊敬していた亡きアントーニ公爵夫人が考案した〔神レシピ〕を無視したラーメン屋が開店するとの情報を聞きつけ、開店日に合わせて真っ先に店に乗り込んだ。どうせ不味いに決まっている。それなら氷の視線で料理人を混乱させ、一口食べて「マズイ、不味い!」と言い放ち店を出るつもりだった。不遜な店はそれで終わりだ…
ところが…である......。
念力を込めた氷の視線を調理人に向けても、一瞬動きが止まっただけで堂々と調理をしていた。それどころか笑顔でカウンター越しにラーメンを出してきた。自分でもやり過ぎと思うほどの念力を込めた氷の視線が効かなかった
レンゲでスープを一口味わうと脳に衝撃が走った。美味いと叫びそうになった。常に冷静なこの私が震えそうになっている。料理人と目が合い、とっさに氷の微笑を作った。しかし微笑を返された。自分の視線が反射してきたのだ。「どうだ、美味いか! 参ったか!」と言われているようだ。
麺をすすると、口の中で縮れた麺がブルブルと踊り美味さを爆発させた。スープの味が染み込んだ薄切り肉とトロトロに軟らかい肉のそれぞれ違う美味さに意識が飛びそうになった。彩り用かと思った食用花まで美味いとは驚いた。また麺をすすり、またスープを飲む……。あっ! 気が付くとスープの一滴も残さず完食していた。衝撃の美味さに我を忘れて食べてしまった。限界だ、身体の震えをもう抑えられない。カウンターに代金を叩きつけるように置き、急いで店を出た。
カルロ公爵の混乱は、店から出てかなりの時間が経っても続き、呟きは間を置きながら続いていた。
「神レシピよりも美味しいラーメンがある筈がない。そんなことがあってはならない」
「麺を手で潰してチリチリにするなど神レシピの冒涜だ」
「禁忌の魔道法の類で不正をしているのか調べてやる!」
▫▫▫▫▫▫
公爵が出て行った後の店内はざわついていた。スタッフのルーシーとカミラは、料理人潰しのカルロが来たと大騒ぎだ。
「ゴウさんは凄いわ」
「私たちは恐怖で身動き一つ出来ずにいたのに、とても堂々とされていましたわ」
「どうしてこんな小さい店にあのカルロ公爵が来たのかしらね」
「でも、これでお店が潰れなくて済んだわね」
「そうね、完食ですもの」
「ほっとしたわね」
ゴウはこの時、その最初の客が食文化堅固協会長のカルロ公爵だと知らされた。




