ある大人の帰還
登場人物
〈漢〉
桓帝…………漢の帝。
唐衡…………漢の小黄門史。桓帝に仕える宦官のひとり。
梁冀…………漢の大将軍。桓帝により死に追い込まれる。
張奐…………漢の歴戦の将軍。故郷の涼州で隠棲していたが、涼州武威郡の太守に復帰する。
公孫延…………玄菟郡の官吏。漢からの独立を目論む。
段熲…………漢の歴戦の将軍。
公孫度…………公孫延の子息。漢の都、洛陽で遊学する。
〈鮮卑〉
檀石槐…………鮮卑の部族の大人。各部族の大人を束ねる鮮卑の魁。
素利…………鮮卑の部族の大人。鮮卑の軍師的存在。
慕容…………鮮卑の部族の大人。万夫不当の豪傑。
宴茘游…………鮮卑の部族の大人。鮮卑随一の狙撃手。
趙娥…………檀石槐の妻。漢人。
和連…………檀石槐と趙娥の子。
如羅…………檀石槐の母。妖しの雷獣により檀石槐を身籠る。
破多羅…………檀石槐の祖母。如羅の母。巫者のような特性を持つ。
弥加…………鮮卑の部族の女大人。剣術の手練者。
厥機…………鮮卑の部族の大人。素利の兄的存在。諸民族との盟約に奔走する。
置鞬落羅…………鮮卑の部族の大人。宴茘游の副官。年長の歴戦の戦士。
成律帰…………素利の弟。
陳正…………漢からの亡命者。捕虜となった漢人を収容する施設の監督者。
李平…………檀石槐に仕える漢人の使用人。
槐頭…………鮮卑の部族の大人。成長株の大人。
日律推演…………烏孫の捕虜となっていた鮮卑の部族の大人。
〈南匈奴〉
居車児…………南匈奴の単于。鮮卑の部族の大人、闕居を討った過去を持つ。
屠特…………居車児の子息。次代の単于と目される。
〈夫餘〉
蓋蘇武…………牛加と呼ばれる夫餘の大将軍。
〈丁零〉
頡斤…………丁零の第二太子。盟約により鮮卑に合流する。
〈烏孫〉
昆弥…………烏孫の君主。
果敢だった。弥加と競い合うように、漢兵の中に踊り込んでいる。
大人になったばかりの、弱冠を幾つか過ぎた丈夫だった。切れ長の眼で、右の頬に傷痕がある。短刀を巧みに操った。名は、槐頭と云った。
檀石槐が侵攻したのは、遼東属国だった。公孫延から不可侵を課された遼東郡の西側に位置している。漢人と烏丸族が同居するような土地柄だったが、檀石槐は、侵攻が許される最東部の地を選択していた。
それは、張奐の復職を祝っているようにも、誘っているようにも見えた。
率いていたのは、千余騎だった。
「槐頭、深追いは禁物だよ!」
「わかってるよ!」
口許に手を添えて大声を張り上げた素利に、槐頭は荒々しく返答した。
既に弥加は、略奪した物資の搬送に入っている。
「有望な大人が出てきたのは良いけど、槐頭には、少し無鉄砲なところがあるんだよなあ」
心配げな面持ちで云った素利に、黒雷に身を預けた檀石槐が轡を並べた。
「それくらいの粗があった方が良い。槐頭もこれからの大人だ。厥機の(けつき)抜けた穴を埋めるには充分だ」
笑みを浮かべた檀石槐は、漆黒の胡服を纏っていた。戦場では、目立ちすぎる。故に、檀石槐は中軍を駈けた。代わって、一群を率いるように駈けたのが、弥加と槐頭だった。
「丁零とも交易が始まったし、今は、南匈奴と烏孫を往ったり来たりしているようだよ。折を見て、堅昆にも足を運んでいるみたい。厥機も忙しいね」
「丁零との盟約も大きかったな。安心して北の収容地の拡大に専念できる。趙娥が取り仕切るようになったが、捕虜の監督者たちとも上手くやっているようだ。その捕虜の投降も増えている」
「頡斤もなかなかの人材だしね」
「ああ。慕容には打って付けの副官だ」
渋渋と物資を運び出す槐頭の姿が見えた。乾いた風が、撫でるように吹いていた。
穹廬の中で、ひとり、胡床に腰掛けている。疲労の抜けない日が続いていた。
南匈奴の居車児の許には、何年にも渡って厥機が頻繁に訪れていた。
張奐の失職により、南匈奴はその束縛から逃れていた。最初に厥機が現れたのは、漢に対する反骨の炎が、再び胸中に燈った折だった。
鮮卑の大人をひとり、葬った筈だった。しかし、代償もあった。右肩の傷は癒えたが、弓は引けなくなった。先年の争闘を水に流し、互いの発展のための盟約――。交易も視野に入れているという。鮮卑との盟約は、魅力的な話に聞こえた。
漢の属国、その物云いが気に入らなかった。対等ではない。腐りきった国から見下されている。人ではないものを見るような漢人の眼に、居車児は嫌気が差していた。
だが、決断に迷った。
「此処に居られましたか、父上」
穹廬に入ってきた若者は、漢服を纏っている。居車児の子息、齢十八の屠特だった。屠特は、疲労を浮かせた居車児を見遣ると、優しげな笑みを浮かせた。
「まだ、迷っておられるのですか? 異民族などとは縁を切り、漢のために尽力してこそ利がありますぞ」
居車児の迷いの一端は、屠特にあった。次期、南匈奴の単于の発言だった。居車児は、溜息を吐いた。
「屠特よ、我らは生まれながらに遊牧騎馬民族だ。漢とは相容れぬ。奴等の眼を見てわかるだろう。我等を見下し、蔑んでいる。漢に縋っても我等に利はない。漢に逆らってこそ南匈奴。抗ってこそ本懐」
「いつまでそんなことを云っておられるのです――⁉」
屠特の眼と声の色が、変わったようだった。
「塞外の異民族どものせいで、いつまでも漢に南匈奴が受け入れられないのです‼」
屠特は、居車児を睨み付けると、踵を返した。荒々しい振る舞いで穹廬を後にしていた。
疲労感が増した居車児は、再び溜息を吐いた。胸中の炎が、勢いを増しているのがわかった。
髯が、乾いた風に揺れている。
荒涼とした広大な西の原野で、捕虜の帰還を待ち侘びていたのは、騎乗の宴茘游と置鞬落羅だった。置鞬落羅は、一頭の空馬を牽いている。
烏孫の君主、昆弥との交渉は長引いた。数年を要した交渉だった。
厥機は、何度も昆弥と面会し、鮮卑との盟約、その利を説いた。
その間、烏孫は、更に西の康居という国との軋轢が生じた。それを契機に、昆弥は東に位置する鮮卑との盟約に前向きとなった。
盟約が成ると、烏孫に捕えられた鮮卑の捕虜たちが開放されることになった。百人ほどが捕虜になっている筈だった。捕虜たちは、烏孫で奴隷として扱われていた。
荒涼とした原野に、点のようなものが見えた。騎馬ではない。次第にそれは、人であることがわかった。
宴茘游は、馬腹を蹴った。置鞬落羅も空馬を牽きながら、それに続いた。
百人ほどが解き放たれると思っていた。しかし、現れたのはひとりだった。
宴茘游は、疑念を抱きながら、原野を独歩する者の許へ急いだ。見えてきた。その姿が明確になる距離まで近付くと、宴茘游は息を飲んだ。
人相が変貌していた。額から目蓋を通り、頬から耳朶の下まで、幅一寸ほどの青い痣のようなものが左右に走っている。顔に黥を入れられていた。
その男は、駈け寄って来たのが宴茘游だと気付くと、顔に張り付いた別の生き物のような刺青を歪めて大きく手を振った。
「日律推演……なのか?」
馬足を緩めた宴茘游が、躊躇して尋ねた。
「久し振りだな、宴茘游。遅れて駈けて来るのは、置鞬落羅だな? 二人とも元気そうで良かった」
笑みを浮かべているようだったが、顔に入れられた墨が表情をわからなくさせていた。日律推演は、それを気にも留めていないようだった。
宴茘游が、大人に推戴されて間もなくの頃だった。
鮮卑の西の部族に、烏孫族が侵攻した。部族の戦士たちは、漢の侵攻から帰還の途にあった。戦える者は少なかった。戦士たちが到着したのは、捕えられた部族の二百人ほどが、烏孫まで連行される寸前だった。
帰還した大人の日律推演は、その光景に愕然となった。戦おうとはしなかった。戦えば、烏孫の手の内にある二百人の命に危険が及ぶことはわかっていた。
日律推演は、捕えられた民の開放を条件に、捕虜となることを申し出た。百人だけ開放された。
それから、十年ほどの歳月が流れ、三十も半ばとなっていた。
頭髪は、剃られている。纏っている襤褸の隙間から見える隆々とした筋骨には、幾つもの傷痕が見えた。大きな皮袋を背負っている。中には、水が入っているようだった。腰には、古びた剣を佩いていた。
烏孫は、日律推演を開放する際に、水と剣を与えたようだった。しかし、鮮卑への帰路は、馬ではなく徒歩、糧食は自ら調達することを強いている。
「……他の者たちは、如何した?」
下馬した宴茘游は、日律推演の姿をまじまじと見遣ると、心を痛めた。まるで、別人だった。以前のような、颯爽とした日律推演ではなかった。
「死んだよ。生き延びたのは、俺だけだ。奴隷は人として扱われない。俺も生きているのが不思議なくらいだ」
「逃げようとはしなかったのか?」
「奴隷となった民を烏孫に残し、大人の俺だけ逃げることはできなかった。お前も同じことをしていた筈だ、宴茘游。しかし、皆の死は見届けることができた。それだけが、せめてもの救いだ」
「日律推演――‼」
遅れて駈けてきた置鞬落羅が、馬から飛び降りた。日律推演の許まで走り寄ると、その躰を強く抱き締めた。
「良くぞ、良くぞ生きておった! 見た眼が変わろうとも、生きてさえいれば良い!」
「相変わらずだな、置鞬落羅。そうだな。生きてさえいれば、志は紡げる」
「日律推演、お前……」
宴茘游は、日律推演に眼を細めた。
「何度も生きることを諦めかけた。その度に、鮮卑が目指す志を思い出した。俺もお前たちと一緒に駈けたかった。失ったものは確かにある。だが、その想いがあったから生きて来られた。もう、踏み出しているのだろう? 俺の居場所は、まだ残されているか、宴茘游?」
日律推演は、真摯な眼差しを宴茘游に向けた。澄んだ瞳は、以前のままだった。
それに宴茘游は、鼻で笑った。
「当たり前だ。お前の帰還を、首を長くして待っていた。これから忙しくなる。覚悟しておけ」
宴茘游は破顔した。日律推演の痣のような顔の黥が、奇妙に動いた。笑みを返していた。




