復帰の智将
登場人物
〈漢〉
桓帝…………漢の帝。
唐衡…………漢の小黄門史。桓帝に仕える宦官のひとり。
梁冀…………漢の大将軍。桓帝により死に追い込まれる。
張奐…………漢の歴戦の将軍。故郷の涼州で隠棲していたが、涼州武威郡の太守に復帰する。
公孫延…………玄菟郡の官吏。漢からの独立を目論む。
段熲…………漢の歴戦の将軍。
公孫度…………公孫延の子息。漢の都、洛陽で遊学する。
〈鮮卑〉
檀石槐…………鮮卑の部族の大人。各部族の大人を束ねる鮮卑の魁。
素利…………鮮卑の部族の大人。鮮卑の軍師的存在。
慕容…………鮮卑の部族の大人。万夫不当の豪傑。
宴茘游…………鮮卑の部族の大人。鮮卑随一の狙撃手。
趙娥…………檀石槐の妻。漢人。
和連…………檀石槐と趙娥の子。
如羅…………檀石槐の母。妖しの雷獣により檀石槐を身籠る。
破多羅…………檀石槐の祖母。如羅の母。巫者のような特性を持つ。
弥加…………鮮卑の部族の女大人。剣術の手練者。
厥機…………鮮卑の部族の大人。素利の兄的存在。近隣諸国との外交を担当する。
置鞬落羅…………鮮卑の部族の大人。宴茘游の副官。年長の歴戦の戦士。
成律帰…………素利の弟。
〈南匈奴〉
居車児…………南匈奴の単于。鮮卑の部族の大人、闕居を討った過去を持つ。
〈夫餘〉
蓋蘇武…………牛加と呼ばれる夫餘の大将軍。
西暦一六三年――。
新緑が芽吹く季節だった。南の空には、遠方に黒雲が浮いている。
檀石槐と素利の前には、公孫延が立っていた。
幽州遼東郡の草原だった。普段、公孫延が居る玄菟郡の地と、素利の部族が本拠としている地から、ちょうど中間に位置する辺りだった。
何方から面会を求めたという訳でもなかった。檀石槐も、公孫延も、そろそろ会って話をするべき時だと踏んでいた。
面会の場は直ぐに設けられたが、互いに忙しい立場だった。加えて、何処に漢の間者が潜んでいるのかもわからない。草原の中で会談するのが無難だった。
「以前会った時より、更に猛猛しくなったね。玄菟郡にいても、鮮卑が着実に大きくなっているのがわかるよ、檀石槐」
公孫延は、檀石槐に眼を細めた。髪に白い物が見え始めたが、三十も半ばを過ぎた頃だった。玄菟郡の中でも、一、二を争う要職の座に在るらしい。公孫延も野望に向けて前進しているようだった。
「貴方からの情報が役に立っています。これには、感謝しかない」
檀石槐は、頭を垂れた。素利もそれに倣った。
「やめてくれ。情報は渡しているが、それを活かしているのは君たちだ。それに、礼を云うならば私の方だ。鮮卑と取引してから、遼東以東は戦禍を免れている。これは、私にとって大きなことだ。幸いにも、依然として漢は莫迦なことを繰り返している。これも私に味方しているようなものだ」
「それは、良かった。何か他にも力になれることがあれば、遠慮なく云ってください。俺たちも、鮮卑と接する諸民族と盟約の交渉を進めています」
檀石槐は、瞳を輝かせた。素利にも笑みが浮いていた。
「有り難いな。夫餘族とは、既に交易を始めているようだね」
「はい。今は、丁零族、烏孫族と折衝中ですが、必ず近いうちに盟約を交わします」
「後顧の憂いを絶ち、漢の侵攻に傾注する準備をしているということだね」
公孫延は、頼もしげに檀石槐を見遣ったが、すぐに難しい貌となった。
「君たちを急かすつもりはないが、伝えておかなければならないことがある」
檀石槐と素利は、互いに貌を見合わせた。
公孫延は、ひとつ頷くと、真剣な眼差しを二人に向けた。
「張奐が、復帰した」
「――――⁉」
檀石槐と素利は、眼を見張った。すぐには言葉が出なかった。
「復帰したと云っても、武威太守だ。此処からは遠い」
涼州武威郡――。漢の北西部に位置する郡だった。西の辺境と呼ばれ、漢人と羌族が共存している。王朝の支配が及ばず、情勢が不安定な土地柄だった。
「けど、いつか必ず戻ってくる」
素利は、冴えた眼差しを公孫延に返した。それに公孫延は頷くと、続けた。
「既に、羌族は、段熲に蹂躙されている。弱りきった羌族を平定することなど、張奐にとっては容易いだろう。并州、もしくは、幽州に派遣される日も、そう遠くはない筈だ」
段熲――。張奐と同じ涼州の出身であり、同年代の将軍だった。しかし、両者には水と火ほどの大きな違いがあった。張奐は、異民族を手玉に取り翻弄する。一方、段熲は、異民族を徹底的に殺戮する。特にも、羌族を眼の敵にしていた。
「…………」
檀石槐は、何も語らずにいた。手強い相手だったが、鮮卑も成長を遂げている。不安はない。只、近隣諸民族との盟約を早々に済ませたかった。張奐と手を組まれ、挟撃の形を取られるようなことだけは避けたかった。
「南匈奴との交渉は、如何なっている?」
尋ねた公孫延に、素利が応じた。
「盟約の使者は、何度か遣っています。単于の居車児には、何か迷いがあるようで……。まだ、時は掛かると思います」
「漢の属国とは云え、塞内に生き、歴史ある遊牧民の長、居車児。その立場は、難しいものなのかもしれないね」
公孫延は、南の空に眼を遣った。黒い雲が浮いていた。振り返った公孫延は、檀石槐に真摯な瞳を向けた。
「いつ、何処から張奐が出て来るかわからない。私も情報は提供し続ける。くれぐれも油断しないようにしてくれ、檀石槐」
「はい。公孫延さん」
檀石槐は、微笑み返した。
その微笑を見た公孫延は、遠くに居る従者に合図を送った。その従者が牽いて来たのは一頭の黒馬だった。
檀石槐は、黒馬が近付いて来るにつれ、その勇壮さに魅せられた。全身が黒光りしている。それも、通常の馬より一回りほど大きい巨馬だった。寄せる足並みは、威風堂々たるものだった。
「凄い馬だ。これは、間違いなく名馬だね」
素利は、眼を剥いて感嘆の声を漏らした。
その黒馬に見惚れている檀石槐を見遣って、公孫延は、にこと笑った。
「大宛から取り寄せた汗血馬だ。此奴を使ってほしい、檀石槐」
大宛は、烏孫より更に西にある国だった。
素利も満足気に頷いている。
「檀石槐、素利、そして、成律帰は、私にとって歳の離れた弟のようなものだ。素利と成律帰には、随分と書物を渡しているが、君には何も渡したことがない。受け取ってくれ」
「俺が、乗って良いのか? これに?」
「良いと思うよ。黒い胡服にすれば、全てが黒くなる。遠くからでも檀石槐だとすぐにわかるよ」
笑みを浮かべた素利は、悪ふざけを云ったつもりだった。
黒馬が、頷くように首を振っていた。
「……そうだな。……それ、良いな! 有り難う、公孫延」
「ん――⁉ じ、冗談だよ、檀石槐――⁉」
素利の言を聞くともなしに、檀石槐は黒馬に跨ると、駈け出した。
速い。頬に受ける風がいつもより強い。黒馬も全力で駈けていない筈だった。それでも、力強くしなやかな黒い風のように走った。南の空で、雷鳴が轟いた。黒雷――。檀石槐は、そう呼ぶことにした。
「あんなに燥いだ檀石槐を見るのは、久しぶりです」
素利は、額に手を添え、遠方の草原を黒雷で駈ける檀石槐を眺めた。
公孫延も嬉しそうに笑った。無邪気に駈ける檀石槐に眼を凝らした。
「よほど嬉しかったみたいだ。まるで、子どものような燥ぎようだね。不思議なことに、私の方が嬉しくなる。これも良い機会だ。私も次の段階に着手してみるとしよう」
間もなく公孫延は、息子を漢の都、洛陽へ遊学させるに至る。歳は十三、名を公孫度と云った。




