英傑の片鱗
登場人物
元緒…………異国の方士。
如羅…………鮮卑の部族の娘子。
投鹿侯…………鮮卑の部族の大人(部族長)。如羅の夫。
李平…………如羅の父が連れて来た漢人の使用人。
破多羅…………如羅の母。
檀石槐…………如羅が産んだ男児。鮮卑の部族の少年。
陳正…………北の湖畔で暮らす李平の知人。漢からの亡命者。捕虜となった漢人を収容する施設の監督者。
其至鞬…………破多羅の夫。如羅の父。生前は鮮卑の部族の大人。
素利…………鮮卑の部族の少年。
慕容…………鮮卑の部族の少年。
宴茘游…………鮮卑の部族の少年。
卜賁邑…………鮮卑の部族の大人。
「孫どの、陳正どのから預かり物をして参りましたぞ」
「預かり物?」
北の湖畔から戻ったばかりの李平は、黒々と輝く拳大の円盤のようなものを檀石槐に手渡した。
躍動する龍があしらわれていた。それも細部にまで拘った繊細な作りだった。
檀石槐が受け取ったのは、胡服の上から帯革を締める尾錠だった。ベルトで云えば、バックルのようなものである。
「おお! これは、格好良い!」
黒龍の尾錠に瞳を輝かせながら、檀石槐は喜びの声を上げた。
「漢において龍は、縁起の良い伝説の生き物であるばかりか、権力と強さの象徴でもあります。是非、孫どのに使ってほしいと申しておりました」
髪と髭が白んだ李平は、満面の笑みに皺を浮かせた。
「……このようなものを、陳正は作れるのか?」
李平の表情が、笑みから怪訝なそれへと変わった。
「云っておりませなんだか? 陳正どのは、漢で宮中の意匠を生業としていた者。この程度の物であれば、湖畔の工房でも作れるのでしょう。彼処には、曾て漢で鍛冶師だった者、青銅器職人だった者も居た筈ですが……」
今度は、檀石槐が李平に満面の笑みを返した。
数日後、檀石槐は北へ向かった。向かった先は、湖畔の陳正の処だった。
既に十五歳を迎えていた檀石槐は、小さな穹廬と僅かな干し肉を荷に纏めると、馬具の一式を備えた馬で飛び出していた。
数日を掛けた旅だった。
精悍な面構えに波打つような黒髪を靡かせ、胡服を纏っている。滅魂の剣を背負い、腹にあてがった龍の尾錠が黒く輝いた。腰の左右に胡禄と弓嚢を引っ提げて草原を疾駈する姿は、戦場を駈ける鮮卑の戦士を髣髴とさせた。
「陳正! 陳正は居るか!」
まだ暗いうちから穹廬を畳み、日の出と共に駈け出した檀石槐は、湖畔の集落が近付くと叫んだ。
何度か叫んでいると、一棟の石積みの建物から姿を現した者が在った。頭髪は寂しくなっていたが、眠い眼を擦りながら手を振り返している。陳正だった。
檀石槐は、陳正の姿を認めると、其方へ駈けながら叫んだ。
「お前に、どうしても拵えて欲しいものがあるんだ! 頼まれてくれないか?」
陳正は、口許に両手を添えて叫び返した。
「いつでも力になると云っておった筈ですぞ!」
陳正は満面の笑みとなると、独語を漏らした。
「あの小さかった御子が、何とまあ、勇ましくなったことか。こりゃあ、忙しくなるぞ」
檀石槐は、以前から思案していたものの製作を陳正に依頼すると、二、三日掛けて漢人の捕虜の収容地と、漢からの投降者の集落を巡察した。湖畔周辺で行われる開墾の様子や生産物の収穫量なども、陳正や集落の者と膝を交え聞き取った。
檀石槐は、漠然としていた志の片鱗が、確かな形を成していくような手応えを覚えながら帰路へ着いた。
陽が、傾き掛けていた。
檀石槐は、遠くの大きな穹廬を視界に捉えた。破多羅と如羅、李平にも土産話をしてやろうと思いながら、前方に眼を凝らした。
すると、である。
家畜の牛や羊の様子が、いつもと違って見えた。
騎馬が一騎、牛と羊の群れを追い遣っている。連れ去ろうとしているようにも見える。
檀石槐は、妙な胸騒ぎを覚えた。
刹那、一目散に駈け出していた。馬速を上げると、牛と羊の群れが穹廬から離れるように、どんどん遠くへ駈け去るのが見えた。
穹廬の前で膝を折り、駈け往く家畜を眼で追っている者が居た。李平だった。
「李平! 如何かしたのか?」
檀石槐は、駈けながら叫んだ。
馳せ寄る檀石槐に、はっとした李平は、そのまま檀石槐に向き直ると土下座した。
「も、申し訳ございませぬ! 申し訳ございませぬ……」
檀石槐は、疾駈する馬から跳躍すると、地に頭を着けて、只管、謝罪する李平に駈け寄った。肩を持ち上げるようにして半身を起こしてやった。鞭にでも打たれたのか、貌は帯び状に腫れ上がり、胡服も破れた箇所があった。
檀石槐は息を飲むと、反射的に穹廬へ向かって扉を開けた。
如羅が頬を押さえて崩れ落ちている。
「母さま!」
身を屈めた檀石槐は、如羅の両肩を強く揺すった。
貌を上げた如羅の左頬は、赤く腫れ上がっていた。
「卜賁邑の仕業じゃ」
奥の胡床に腰を下ろした破多羅が、渋面を晒していた。
「ぼ、卜賁邑……? 婆さま、それはこの部族の大人ではないか?」
檀石槐の部族、その大人である卜賁邑は、頗る評判の悪い男だった。戦の戦果が少なければ、部族の者から牛や羊を略奪する。部族の者の意見は聞き入れず、気に入らなければ、何事も暴力で解決しようとする荒くれ者だった。
腕っ節の強さを買われ大人に推戴されていたが、部族の者は、卜賁邑が早く戦で命を落とすことと、災禍が降り掛からないことを陰で祈っていた。
「……大人であれば、猶更やってはならぬことではないのか、婆さま?」
檀石槐は、如羅の肩に手を添えたまま、静かに破多羅を見遣った。
「追ってはならぬぞ、檀石槐。此処は我慢じゃ。家畜ならば、またすぐ手に入る」
破多羅は、檀石槐を睨み付けた。
そんな筈はなかった。漢の北辺に侵攻し、略奪しなければ手に入る代物ではなかった。家畜が居なければ、生活がままならないことも知っていた。
「……何故、鮮卑の者に虐げられねばならない? 何故、権力を笠に着た者に平伏さねばならない?」
檀石槐は、如羅を見遣った。頬を腫らせた如羅の眼に、涙が浮いていた。
「追ってはなりません。部族で大人は絶対。逆らうようなことがあってはなりません。耐えるのです、檀石槐」
如羅は、悔しげな表情を浮かべると、一筋の涙がすうっと腫れた頬を伝った。
気丈な母の筈だった。それが、息子を前に涙していた。
「あれほど強い李平が、……手を出さなかったのも頷ける」
檀石槐は、すっくと立ち上がった。
「母さまを殴られ、李平は鞭打たれ、家畜は連れ去られる。それを、黙って見ているような男に、貴方がたは私を育てたのですか?」
檀石槐は、穹廬の天井を見上げるようにして云った。瞑目して、ひとつ、深呼吸すると刮目した。眼には怒りの色が浮いていた。
「この部族の悪習は、鮮卑のためになりません! 俺の志を妨げる弊害でしかない!」
檀石槐は、旋風の如く穹廬を飛び出すと馬に飛び乗った。
「……ま、孫さま!」
項垂れていた李平が、慌てた様子で檀石槐に声を掛けた。
「辛い思いをさせたな、李平。その辛い思いは、俺が必ず返す」
檀石槐は、李平を振り返らずに馬を繰り出した。絶対に許せなかった。許す訳にはいかなかった。無我夢中で卜賁邑を追った。
途中、幾つかの穹廬があった。騒然とした足音に、住民は何事かと外に出ると、牛馬が駈け去るのを呆然と眺めていた。
その側を、檀石槐は脇目も振らず疾駈した。
見えてきた。馬上から牛馬を鞭打っている。幘を被り、胡服の腰には短刀を佩び、胡禄と弓嚢を引っ提げている。
「大人ともあろう者が、部族の民から家畜を奪うとは、どういう了見だ!」
檀石槐は、怒声を発した。
その声に振り返った胸板の厚い男の貌には、額の左から右頬にかけて大きな傷痕があった。紛れもない卜賁邑だった。
卜賁邑は、馬脚を緩めて馬首を巡らせると、檀石槐を待ち構えた。
「おい、餓鬼。手前は誰人にもの云ってんだ? 俺は大人の卜賁邑さまだぞ! 俺のやることに何か文句でもあるのか? ええ?」
馬上から檀石槐を見下すようにして、卜賁邑は声を荒げた。
喧騒に誘われたように、近くの穹廬の扉から、住民が恐る恐る貌を出した。
檀石槐に速度を緩める気配はなかった。卜賁邑を睨み据えた眼には、怒りの色が浮いたままだった。檀石槐は背から滅魂の剣を引き抜いた。黒く冴えた光を放っていた。
「――――⁉」
突風の如く眼前に迫る檀石槐に、卜賁邑は咄嗟に撓る鞭を走らせた。
檀石槐は、襲いくる蛇のような鞭の軌道に、黒い閃光を三回走らせた。怯えた貌を晒した卜賁邑を右に捉えて馳せ去った。ぶつ切りとなった鞭が地に落ちた。
馬脚を止めた檀石槐は、馬を棹立たせて馬首を翻すと、再び卜賁邑に向かって駈けた。
「く、糞ッ!」
卜賁邑は、慌てて弓嚢から弓を取り出して矢を番えると、迫る檀石槐に放った。
檀石槐は避けようともしなかった。威勢が良いだけで、能力の乏しい大人としか思えなかった。弓矢の使い方から、矢が当らないことが瞬時にわかった。
「お前は、漢人と一緒だ!」
怒鳴った檀石槐は、戦慄する卜賁邑の横を馳せた。黒い一条の閃光を首に放っていた。
恐怖の色が浮いた卜賁邑の首が、虚空に血の虹を描いた。どっと地に落ちると転がった。首のない躰は、血飛沫を上げながら馬上から頽れた。
「大人たるもの、部族の民には公平でなければならぬ。それを己の利に走り、家畜を奪うのみならず、我が一族にまで手を上げた。俺は、貴様を大人と認めない!」
檀石槐は、滅魂の剣を鞘へ収めながら、地に転がる卜賁邑の首へ冷めた視線を投げた。それには興味をなくしたように、檀石槐は静かに馬首を返すと、再び牛馬を追った。
檀石槐――。その名が鮮卑の諸部族に轟いたのは、この一件が契機だった。




