6-7 閻魔様、顕現す
「…………何て?」
「何だ、那由多はキス知らないのか? 明日香が置いてった本に載ってた。恋人になったら、口と口を合わせてお菓子を分け合うんだそうだ。それをキスと呼ぶらしい」
……もしや、茉絢が貸した雑誌に掲載されてた『恋生き』の最新話のことかな?
だったら解釈が何もかも間違ってるよ。
あれは晴れて恋人同士になった二人が遊園地で初デート中に、ヒロインがあーんして食物繊維たっぷりゴボウつぶあんココアスティックパイを食べさせた後に、ヒーローが隙アリキスをかましたんだよ。
『こっちの方がうまい』って不敵に笑うヒーローには萌えたけど、不器用で照れ隠し三昧だった彼がいきなりあんな表情するなんて……これまでとの落差が大きすぎるでしょ!
恋人になった瞬間、中身が入れ替わったとでもいうの!? あんなの別人じゃない!
あんな電光石火な甘々急展開、私にはどうしても受け入れられない!!
「イヤだよ! しないよ! キスは簡単にしちゃいけないものなんだよ! キスはもっと大事にすべきなんだよ! 茉絢も城咲さんも有瀬くんも、皆何もわかっちゃいない!」
どこにもぶつけようがなかった最新話に対するモヤモヤを思い出すや、私は我に返った。
痺れた腕を最大限に駆使して有瀬くんを押し退けつつ、声を大にして心の叫びを吐き出す。
「何でだよ。漫画じゃ、お菓子がもっとうまくなるって言ってたぞ?」
しかし、全然歯が立たない。
それどころか有瀬くん、バカ力で私の後頭部に回した手まで引き寄せ始めたじゃないの!
「やっぱり『恋生き』情報だったかぁぁぁ! あんなの嘘だよ! 騙されたらダメだよ! 中身が誰かと入れ替わって別人になっちゃうかもしれないんだよ!? それに私、ファーストキスはレモン味って決めてるの! チョコつぶピー味は論外なの!」
首の筋がブチ切れそうになりながらも、私は必死に顔を背けて抵抗した。
「レモン味……なら確か」
と、ここで突然、有瀬くんの存在が目の前から消失した。
まさか、閻魔さんが連れ去った? 私がキスを拒んだから、恋人じゃないってバレたせいで!?
慌てて起き上がって、私は室内を見回した。そしてホッと安堵すると同時に、ゾッと背筋が凍った。
ホッとした理由は、有瀬くんが閻魔ランドに連れ去られてなくて、何故か壁際に瞬間移動していただけだったから。
ゾッとした理由は――――出入口に鎮座する有瀬くんのベッドの上に、見るからにカタギじゃなさそうな人が立っていたからだ!
マッシュショートに整えられた黒髪の下から覗く顔立ちは、恐らく美形、ではあるんだと思う。
けれど顔立ちの良し悪し以前に、その人が全身から発する凄まじい殺意と威圧感に飲まれてしまう。切れ上がった目尻から放たれる眼光は氷像化しそうなほど冷たくて、物理で痛みすら感じるほどだ。
「おい、留佳……俺の目の前で婦女暴行に及ぶたぁ、てめぇいい度胸してやがるなぁ? おまけに何だ、この床は……菓子を盗み食いすることは想定内だったが、こんなにとっ散らかしたのはどういうこった……? 説明しろ! 俺が納得いくようにな!」
地の底から響くような低い声音に、身動きどころか呼吸まで止められた気がした。
ひいい……超怖い。怖すぎて涙が止まらない!
こ、これが反社会とか裏社会とか闇社会とか呼ばれる世界に生きる人の迫力……!
この人に比べたら、凄み散らす城咲さんやブチ切れた志貴さんなんて全然可愛いもんだよ。怖いことは怖かったけど、人間レベルだったもん。でもこの人は違う。世間知らずな私にもわかる。あれは百人、ううん、千人は屠ってきた者の目だ!
どうしてこんなヤバかりしことこの上なしな闇深人が有瀬くんの部屋に降臨したの? 何が目的なの? というかこれ、本当に人なの? ……とまで考えて、私ははっとした。
もしや…………この存在こそ、閻魔様なのでは?
有瀬くんがあそこまでビビり散らすのは、閻魔様がこうして彼の前に度々顕現して、その恐ろしさを見せ付けていたからなのでは?
「ままま、待ってくださささい! あああ有瀬くんは、んなっななな何も悪いことなんかしてませんんぐ!」
思うが早いか、私は壁にもたれかかっている有瀬くんに這い寄って――腰が抜けて立てなかった――背後に庇うと、ヤバかりし人型の異形、恐らく閻魔様の化身と思われる存在に、死に物狂いで弁明した。
「あ、有瀬くんは私を助けようとしただけです! 有瀬くんのおかげで頭を打ってバカにならずに済みました! 有瀬くんは私の頭の恩人なんです!」
閻魔様の視線が私を突き刺す。
ぃいいやぁあああ……こっち見たぁぁああ無理無理無理! 恐ろしすぎて直視不可能! 涙で視界がぼやけてなかったら、とっくにショック死してるってば!
でもきちんと説明しなきゃ、有瀬くんの舌も命も奪われる。
私が約束したんだ、何が何でも守らなきゃ!
「そ、それと……このお菓子は、私が懸垂マシンから落ちた拍子にうっかり吐き出したんです。有瀬くんは食べてません。私に全部くれたんです。その……こ、恋人、だから?」
よ、よし、何とか恋人の話にまで繋げられた。
私達を本物の恋人だと心から信用してくれれば、閻魔様はきっと立ち去ってくれるはず。有瀬くんを連れていこうとするのをやめてくれるはず。
「さっきは揉めてたから誤解されたのかもしれませんが、あれは何というか……そ、そう、痴話喧嘩というやつです! ほら、有瀬くんって雑なとこあるじゃないですか? むしろ雑なとこしかないというか? でも女の子としてはムードってものを大切にしてほしい気持ちもあってですね、恋人同士でもノリが合う時と合わない時があるでしょ? まあそういうことです!」
「俺は雑なとこなんかねぇぞ」
有瀬くんが背後からぼそりと呟く。
ウソでしょ、自覚なかったの!? ああっ、でも今は閻魔退散活動に忙しくて突っ込んでる暇なんかないのよ!
「…………わかった」
閻魔様が低く唸るように言う。
良かった! とてつもなく言い訳がましさ全開だったけど、説得できたよ!
「この床を汚したのは、お前なんだな? つまりお前が責任を取る、と……そういうことだな?」
が、閻魔様は諦めてくれたわけじゃなかった。より一層強い殺気を漲らせて、身代わりを要求してきた。
うひぃぇえええ、そうくるか!
そ、そうよね……閻魔様だって多忙の合間を縫って現世に顕現なされているのだから、そう簡単には引き下がれませんよね……。
ぐっと拳を握り、私は生まれたての子鹿のような状態でガクガク震えながら立ち上がった。
「はい……! 私が、責任を取ります……!」
答えてから、有瀬くんに身を寄せてそっと囁いた。
「有瀬くん、私が閻魔様を引き付けるからその間に窓から逃げて。有瀬くんの筋力なら、二階から落ちたくらいじゃ死なないでしょ? 無事脱出できたら、私の家で匿ってもらうんだよ、いいね?」
「え、閻魔……?」
有瀬くんから離れ、私は閻魔様の元へと踏み出した。
恐怖で涙がどばどば溢れてたし、膝から全身まで隈なく震えていたけれど、己の責務を全うするために頑張った。




