秋野先輩の家にお泊りです
ぼくはふと外が真っ暗闇なのに気づいて時計を見る。
短い時計の針はすでに7時を指し示している。
部室内ではカタカタとキーボードを叩く音だけが木霊する。
秋野先輩の表情は集中そのもの。真摯に自分の世界に入り浸り、新聞と向き合っていた。
この調子だと恐らく、夜なのに気づいていないんでしょうね。
ぼくは背もたれに身を任せる。
こういう時何もできないんですよね、と少し無力感に苛まれながらぼくは天井を見上げた。
推敲はできる。読んでみて感想を言うこともできる。
けどその程度。いざパソコンに向かい合ってみれば、何から書けばいいのか全然分からなくて。
指は一向に進まなくて、そして何もできずに秋野先輩と交代する。
その分の負担がすべて秋野先輩に降りかかる。
質も大事だけど、どちらかといえば量を大切にしている秋野先輩。
そんな先輩なら、多分多少なりと仕事が多くても喜んでやるのでしょう。
お先真っ暗闇の中、ぼくは頭の中を空っぽにする。
何も考えていない方が、何かを考えられるような気がして。
けれど、この感情だけは油汚れのように拭いきれない。
ぼくはこのままで。新聞部の一員なのにこのままでいいんでしょうか。
「……」
ぼくは一度目を閉じる。
色々問題はあるし、どれに手を付ければいいのか分からない。
だから今は――、ぼくは重い腰を上げて椅子から立ち上がる。
とりあえず、出来ることをやりましょう。何事も諦めずに突き進むことしか、ぼくにはできませんから。
にやけた顔でパソコンに向かい合っている秋野先輩の肩を、ぼくは左右に揺らして声を掛ける。
「帰りますよ」
「……」
それでも秋野先輩はパソコンに向かい続ける。
カタカタと、ぼくに触られているのも気づいていない様子で。
……むぅ。画面の中の文字が綺麗に羅列していく。
余計になりそうな言葉は書かない。難しい言葉もきちんと分かりやすい言葉に置き換えられている。
いったいどこからこんな言葉が出てくるのか、どこから文章が出てくるのか、どこから簡潔な言い回しが出てくるのか。
一度頭蓋骨を斬り裂いて見て見たいものです。
ぼくは微笑み顔で秋野先輩の作業を見守っていると、いきなり身体に異変を感じる。
――ッ!
ドクンと鼓動が鳴ったような気がして、ぼくは胸部を力強く押さえつける。
肺に空気が届かない。空気を吸い込もうにも、喉が締め付けられるかのように苦しくて仕方がない。
えずく。えずく。えずく。
寝ている時に感じる、体をぐちゃぐちゃに溶かされる感覚。
けれど快楽にも似た心地よさと違い、今のぼくにあるのは想像を絶する痛みと不快感のみ。
地獄の窯で茹でられるかの如き熱。熱くて熱くて意識が朦朧としてくる。
これは正しく、先祖と一戦を終えた時と同じ感覚。
なんで今という疑問を掘り出す前に、ぼくは転んでしまう。
ふらふらとした足取りだったから、パイプ椅子を蹴飛ばしてしまったようです。
ガチャンとパイプ椅子が床にぶつかる音。それが部室内で響く。
「氷濃? 氷濃!」
ようやく気付いた秋野先輩がぼくに駆け寄ってきた。
耳がやられているんですかね?
秋野先輩は口をパクパクとしているだけで、何を言っているのか聞き取れません。
けれど、ぼくのおでこに置かれた秋野先輩の手はひんやりとしていて気持ちいい。
ずっと触っていてほしいくらいに。極上の冷たさ。
一瞬だけだけど、不快感を忘れてしまうくらいに。
けど、秋野先輩はすぐに手を放してしまう。
途端にぼくは地獄の釜茹でへとまっさかま。もう……嫌になりそうです。
……少し寂しいですね。……少し……空しいですね。
視界が霞む。耳ももう聞こえない。
そこからは覚えていない。多分ぼくは気絶してしまったんだろう。
代わりにぼくは阿鼻叫喚地獄の夢を見た。
視界は前見た時と変わらない、無力な人々が一方的に斬り殺される地獄絵図。
聴覚は何度も何度も、人々の断末魔を拾ってくる。
果汁百%のオレンジジュースのように……芳醇で濃厚な血のにおい。
「俺の生涯に……意味はあったのか」
ぼくの口が勝手に動いて言葉を紡ぐ。
確かに自分の声だった。
無意識に出た言葉だった。
けれどとても……ぼくらしくない。
平和で平穏で、まだ生涯を語るのに相応しくない年齢なのに。
地獄絵図は晴れない。
まるでお前の心はこれほど残酷なんだと無意識が訴えかけてくるかのように。
けれど万物には必ず終焉が訪れるように。
ぼくは段々迫りくる痛みと不快感に慣れてきて。
ふとぼくは重い瞼を開くと、涙声でスマホ片手に電話している秋野先輩が見えた。
「氷濃!」
秋野先輩に力強く抱きしめられる。
ぼくはここがどこだろうと周辺を見渡す。
「部室……」
窓の外に映る空は暗い。
電気のない暗闇部屋の中。異次元へと繋がる扉のようにパソコンの画面だけが光を放つ。
秋野先輩が息も絶え絶えといった様子で言う。
「急に倒れたから心配して!」
「……もう大丈夫ですよ。ほらっ、元気元気」
そう言ってぼくは秋野先輩の前で軽く腕を振り回してみせる。
……前よりも肩が軽い。
握り拳を作ってみると、前よりも力が入る。
あの地獄絵図がトリガーになって、ぼくの力を底上げしている?
まさかそんな、ゲームのように?
秋野先輩が慌てた調子を崩さず、ぼくから離れた。
「でもすっごい熱だった。鉄板って感じで。焼き肉ができそうだった」
「そんなに熱かったんですか?」
ぼくは小首を傾げて秋野先輩に返事する。それから自分自身の手を触ってみる。
――冷たい。
うん、ぼくは低体温ですのでいつも通りってことですね。
けれどお肉を焼けそうなほど熱が出ているとは思いませんでした。
今更ながらにぼくの体、どうなっているんでしょう。
この体の異常、高校生になった辺りからですよね。
小学、中学の頃はいつもは先祖との一戦を終えた後に起きていましたし。
体が動かなくなるほど激しい動きをしていたからだと考えていたのですが……。
ともかくぼくは秋野先輩に土下座する。
「心配かけて申し訳ありませんでした」
「顔を上げて! 助手の体系で土下座されると勘違いされるから!」
秋野先輩はぼくの身体を掴み、上げさせようとしてくる。
ぼくはお言葉に甘えて土下座を解除する。
秋野先輩の優しさでしょう。ここで続ける方が、失礼というものです。
ぼくはもう一度時計の針に目を向ける。
「そろそろ9時になりそうですね」
跳びあがった秋野先輩は自分のスマホを確認する。
そこにはデジタル数字がそろそろ9時へと切り替わりそうになっていた。
電車の終電に関しては大丈夫そうですね。
けれど、親には連絡を入れていないので心配されていそうですね。
今のうちに送っておこうと、ぼくはスマホをポチポチっと操作してメールを送信する。
秋野先輩は「……やばっ!?」と、ノートパソコンの電源を付けたまま閉じて、帰りの支度を始めた。
「ごめん! 修行の時間を」
「……まぁ一日くらいなら大丈夫でしょう。三日会わざれば刮目してみよと言いますし」
ぼくは秋野先輩に人差し指を掲げて解説する。
すると秋野先輩からはジトッとした目を返される。
「女子だよね?」
……まっ、士ではありますので。
思えばずっと修行漬けだったような気もしますし。一日くらいはチートデーという奴です。
熱を出したぼくにも非がありますからね。……おのれ先祖。
ぼくは秋野先輩に会えて正面からがっしりと見据える。
「たまの休暇あってこそ、心身ともに打ち込めるものです」
「……やっぱ心配。今日泊まりに来て」
秋野先輩は返事も待たずにぼくの腕を掴んでくる。
それは秋野先輩の両親に失礼ではないか。いきなりアポもなしに。
申し訳なく思ったぼくは秋野先輩に聞き返す。
「しかしご両親の方に」
「大丈夫! それに今からだと満員電車に直撃でしょ?」
「まぁ、そうですね」
「なので、さっきまで熱を出していた助手兼後輩を行かせることはできません! ダメでーす!」
秋野先輩は胸元でばってんを作って見せた。
いつも通り強引な秋野先輩にぼくは少し驚いていた。
まさか秋野先輩、人の心配をしてくれるほど器が広かったんだなと。
深夜にいつも眠いぼくを起こしてきて、怪異を取りに行くよって無茶ぶりしてくる秋野先輩が。
人の意見大抵ガン無視な秋野先輩が。
いつもであれば断るところですけど、また熱が来るかもしれないと思うと少し怖いですね。
ここはお言葉に甘えておきましょう。
ぼくは目を閉じて、降参としますと両手を上げて見せる。
「分かりました。ですがいきなり尋ねるのは失礼なので」
「オケ」
学校から出ると、秋野先輩はすぐにスマホを弄りだした。
何も持って行かないのは失礼なので、途中で茶葉と茶菓子になりそうなのを買っておきましょうか。
そうだ、ぼくも連絡入れておかないと。スマホスマホ。
* * *
ぼくと秋野先輩は普段使わないバスに乗り込んだ。
疲れが溜まる体にとって、適度に訪れる揺れは何とも心地よい。
気づけばぼくは微睡みに墜ちていた。
すぅすぅと寝息を立てて30分くらいしたでしょうか。
秋野先輩に肩を叩かれてぼくは目を覚ます。
ポーンと電子の音を出してバスは次の目的地を告げる。
秋野先輩が降りる場所だ。
その景色は秋野先輩を送っていくこともあるのでもう見慣れている。
ぼくは秋野先輩に腕を引かれてバスから降りる。
それから適度に会話を挟みつつ、15分ほど歩いたような気がする。
ぼくは秋野先輩の家にやってくる。
特にこれといった特徴のない一軒家。
「ただいまぁ!」
秋野先輩が勢いよく玄関を開ける。
それから靴を脱ぎ散らし、一足早く上がっていく秋野先輩。
ぼくはまだ、家主の許可が取れていないので玄関の外で待っていた。
しばらくすると秋野先輩が再びドアを開ける。
顔を半分出して手を振ってくる。それから「いいって!」とぼくを招き入れてくれる。
家に入る途中、ぼくは思った。
そういえば初めてですね。秋野先輩の家に泊まるのは。
ぼくは脱いだ靴を揃える。ついでに秋野先輩の脱ぎ散らかした靴も整えてから、秋野先輩についていった。
それからぼくはリビングにいる秋野先輩の家族に深々と頭を下げる。
「今日一日、お世話になります。ぼくにできることがありましたら、何なりと申してください」
秋野先輩が慌てて後から入ってくる。
「ちょちょ! さっきまで熱出してたんだから。それにそんなかしこまんなくて大丈夫!」
「連絡も入れずいきなり泊まりに来るのは無礼なんですよ。これくらい当然です」
例え病人であろうと、今が無事なら関係ありません。
一宿一飯の恩義という奴です。
それに、動いていた方がぼくとしては楽ですからね。
寝ているだけじゃないんです。メリハリです。
秋野先輩の母上は机から離れ、床に正座しました。
どういうことなのでしょうと、ぼくは両手を振って少し慌てだす。
秋野先輩の母上はぴしゃりと秋野先輩に向けて言い放ちます。
「ほんと、アンタにはもったいない」
もったいないとは?
秋野先輩の父上も床に正座して、わざとらしく腕を回している。
あれは肩もみの合図でしょうか?
「では僭越ながら」
「もう! 部屋行くよ!!」
秋野先輩はぼくの手首を掴む。それからバタバタと足音を立てて、二階へと続く階段を駆け上がる。
秋野先輩の表情は目に見えて気が立っている、なぜでしょうか?
階段を登って左の壁から二つ目にある部屋。
放り投げる様に秋野先輩はぼくへと入れてくれる。
中は整理整頓をきちんとできない、秋野先輩らしい部屋だった。
一面に広がる青い壁。机の上には本が雑に敷き詰められていた。
本棚にはオカルトと文章の書き方講座が多数埋められている。
巻数等といったものはどれもこれもバラバラで、三の次に五がきているといった感じです。
ベッドの上には脱ぎ捨てられたパジャマ。皴とかすごいことになっていますね。
秋野先輩はグルグルと肩を回す。
「ふぅ……よし、やるか!」
秋野先輩は押し入れから組み立て式の小さな机を取り出し、部屋の中央へと鎮座させた。
次に机の引き出しを開け、中から漫画本とじゃがいも菓子の袋を取り出した。
「夕飯前ですよ」
ぼくの小言を無視して、秋野先輩はごちゃっとした机からリモコンを発掘。
ポチっと冷房のスイッチを押す。
途端にクーラーから涼しい空気と稼働音が流れ込む。
秋野先輩は床に仰向けで寝っ転がり、漫画を開いた。
作業をする気だけ見せる姿勢ですね。ぼくは秋野先輩の隣に正座する。
「やるんじゃないですか?」
「えー! 少しは――」
「ダメです。それに栄養というのは体の動力源なんですよ」
ですのでぼくは秋野先輩からお菓子の袋を没収します。
袋を取られて、若干不貞腐れた表情をする秋野先輩。
横暴だと腕を上げて抗議してきます。
ミシミシ。
ぼくはお菓子の袋を押しつぶさんと力を籠める。
中の空気が弾けてお菓子の袋がパーンと破裂音をたてて弾ける。
それでもぼくはお菓子の破片が部屋に飛び散らないよう、袋を口を押えて外側から圧力を加えて行く。
若干引いた表情で秋野先輩が勢いよく上半身を上げた。
「はい分かりました! 今すぐやらせていただきます!」
「それでいいんです。さて、ゴミ箱はっと」
ぼくは立ち上がる。
ゴミ箱へとぐちゃぐちゃに丸まったお菓子の袋を捨てようとして思いとどまる。
そういえば中のお菓子は燃えますよね? 分別するにしてもお菓子の破片丸ごと捨てるのも、虫が集る原因となりますし。
秋野先輩が震えあがりながら言う。
「やっぱり一番怖い怪異は助手だった件について」
「そうですか?」
「自覚なしなのがもっと怖い」
秋野先輩は鞄からノートパソコンと充電コードを取り出して机の上に置く。
それからUSBを差し込み、作業を再び開始する前にぼくへと視線を向けてくる。
「氷濃は寝てて。起こすから」
「しかし」
「何度も言うけど。あんな高熱を出した助手を働かせるわけにはいきません。寝ないならあたしも作業をボイコットします」
秋野先輩は再び胸の前でバツを作り出してみせた。
その瞳は頑固として動かない信念を感じられた。
秋野先輩はベッドをバンバンと叩いて、ここで寝る様に指示してくる。
きっとぼくが寝ない限り、作業を絶対に開始しないんでしょうね。
ならばお言葉に甘えましょうか。
「……分かりました」
正直、まだ少し気分が悪かったんですよね。
ぼくは秋野先輩のベッドに入り込む。
秋野先輩のベッドに染みついたにおいがぼくの鼻を刺激して。
鼻を摘まむのは失礼なので聞くことにします。
「昨日お風呂入りました?」
「さぁて、作業作業」
秋野先輩から小刻みにキーボードを叩く音が聞こえてくる。
誤魔化しましたね。ぼくはその一心で少し呆れた顔をしてみる。
キーボードの音はいつも聞いているか、心地よくてすごく安心できて。
ぼくは目を閉じたその瞬間には、布団の暖かさもあいまり意識を手放していった。




