第728話 故郷に田んぼが多かったので、水門の勉強をしておいて良かった
取り敢えず、水利に関わる事は領主の仕事なので、先に水門の方に向かう。経路ごとに石組で補強した鉄のスルースゲートを確認していく。川に直結した一番大きな水門は堤防を作って新規に設計したローラーゲートになっている。ただ、台風の影響で増水した際に、開閉が出来るかは専門家ではないので分からない。現在用意出来る最もましな材料と技術を使って作ったと言っても、プルーフがある訳ではないので、神頼みかな……。
「あれ?」
「どうしたの?」
こういう時に答えが来そうだけど、返事は無いか……。まぁ、水門に関しては人事を尽くして天命を待つ状態と。
「いや、こっちの話。リズ、あんまり先の方に行くと落ちるよ」
「うん。でも、凄いね。人間はこんな装置を作る事が出来るんだね」
リズが巻上塔の中の機構を見て、はしゃいでいる。構造は単純で、鉄扉の両端に大きなギアを設置して、塔の中のキャプスタンを回す形になっている。牛馬でも引けるようにはしているけど、今より水圧がかかるとどうなるかは分からない。
「用水路としての役割もあるけど、歓楽街は下水としても使っているから、ぎりぎりまで閉じられないね」
水門自体は、一時間もあれば全て閉める事は出来るが、若干影響が出る。もう少し、はっきりと風が出てからかなと思いながら、そのまま川に沿って、排水側も確認する。
「んー。大分落差を作っているから、問題無いと思うけど……。どこまで水位が上がるか分からないからこっちも閉めた方が良いかな……」
「下水の水が溜まるのは大丈夫なの?」
「沈殿槽には余裕があるから、一日、二日は大丈夫だろうけど、雨水が流入すると計算が狂うかも。でも、ここまで上がると、川が決壊するしなぁ……。ノーウェ様を信じない訳じゃないけど、ここを閉める事態になるなら、田畑が全滅しそうな気もする」
知識として、水の管理をこうしなければいけないというのは分かるのだが、どこまでのケースを想定して災害対策をすれば良いかは分からない。最悪、風で結界でも作って、私一人で閉じても良いか……。『剛力』があれば、ちょっとずつでも回せるだろうし。
「でも、穏やかなものだね……。台風が来るなんて思えない……」
リズが、川辺で空を見ながらふと呟く。
「三日後の台風なんて、殆ど影響は見えないよ。用意するにはぎりぎりだけど、実際に影響が出るのは明後日くらいじゃないのかな」
そんな事を話しながら、田畑の準備を確認し、領主館に戻る。農家の人も、来るか来ないか分からない嵐の為に余分な作業をしているにも関わらず、不平が出ないのはありがたい。取り敢えず、用水路はまだまだ作ったばかりと言う事で、詰まりの原因になる水草もほぼ生えていない。早い段階で、土石が混じった水を抑えられたら、浚渫の必要も無いだろう。
「井戸もあるし、水の心配はしていないけど、水が濁る可能性もあるし、貯水のお願いだけはしておこうか。せめて、二日は生活出来るくらいの水を溜めてもらおう」
「んー。野営準拠だよね。四人家族で樽二つくらいなのかな……。ある家と無い家は出ちゃうよ?」
「その場合は、私が給水に走るよ。こんな事なら、貯水池を作っておけば良かった。あんまり水利が良いと、そういうところ、気にしないんだよね」
「でも、その場所が必要になるし、難しいよね」
今後の災害対策も含めて、リズと話しながら部屋に戻る。そろそろ夕方と言う事もあって、徐々に空は茜に染まっている。タロとヒメは保育所で十分に遊んできたのか、艶々の毛並みで、むふぅと満足そうな表情を浮かべながらお昼寝をしている。
「掲示板で済むと思ったけど、緊急時の連絡はちょっと面倒くさいか……。町内会を作って、連絡が末端まで届くようにしないと、行政側が死にそうだな……」
机の上に置かれていた書類を眺めながら、どうしようもない愚痴みたいなものが零れる。
「町内会?」
「あぁ、都市を区画で割って、そこの中に責任者を決めて、その人が区画内の人に通達するという形かな。小さな規模の村長さんみたいなもの」
「ふーん。トルカ村だと、村長さんの所の人が何かあったら、伝えに来ていたから……」
「規模が小さいとそれでも良いんだけどね……」
色々注意はしていたが、抜け漏れは多いなと痛感する。運用は障害が発生してこそ対策が見える部分もある。まぁ、少しずつ潰して、次回につなげられれば良いかと、今回に関しては出来る限りくらいで対応策を模索する。
結局、三日の余裕なんて、無いも同然。八月二十九日の深夜には、徐々に風が強くなり始める。窓を叩く風の音に起こされ、窓を開くと、とんでもない勢いで、雲が流されるのが月明かりで何とか分かる。地上もそろそろ影響範囲に入るのだろう。思っていたより半日早いけど、きっと本体到達が今日の未明から明け方と考えれば、猫さん達の方が正しいか……。
騒音に目が覚めたのか、リズがベッドから降りる。
「うわぁ……。凄い風……」
「そろそろ台風の本体が来そうだ。私は、上流の水門を閉めてくる」
うーん、用水路の様子が気になって川を見てくるは台風で定番のフラグなんだけどな……。
「大丈夫?」
「魔術があるからね」
そう告げて、竜の人達が空を飛ぶ時に使っている殻状の噴射を纏い、一気に、風魔術でホバー移動を始める。か細いランタンの光に照らされながら、上流の水門まで到着する。暗い川辺は、風の影響でうねり、見た事も無い表情を曝け出す。通常時は大人で回すキャプスタンを一人で、ぎりぎりと回していく。徐々に閉まっていく水門。ただ、川の水に触れた瞬間から徐々に抵抗が強くなるのには閉口した。最終的には全力で回しきり、閉門は成った。まだ、雨が降る前で良かったと思っていると、ぽつりぽつりと黒い斑点が増えていく。
「うわ……。雨もか……。あー……雲が早い。もう真っ暗だな……」
そんな文句を零しながら、濡れないように風魔術で全身を殻に覆い、領主館に飛び込む。
「カビア、起きてる?」
執務室の中に入ると、寝起きでそのまま来ただろうティアナとカビアが椅子に座って、伝令の報告をまとめている。
「レイが出動しました。要所で小隊が宅内で展開していますが……」
「伝令もそろそろ出るのが難しくなってくる。心配だと思うけど、信じるしか無いか……。薬師ギルドの方は?」
「念の為、準備をさせていたのが幸いしたみたい。もう開く準備は出来ている」
「分かった。じゃあ、何かあったら薬師ギルドに搬送。手を施せないと判断したら、伝令を使って、私が出張る形かな……」
ティアナの報告に頷きを返す。
「また……ヒロに頼っちゃうね」
リズが、ぎゅっと手を握りしめながら言うと、残りの二人も悔しそうな表情を見せる。
「いやいや。適材適所。私は何かあった時に、悔しい思いをしたくないから、色々覚えただけだしね。手がかかる部分を代理でやってもらっているから、助かる。ここからは戦争と同じ。それも大昔の、英雄と英雄が、雌雄を決するような、士気が命の戦争の始まりだよ」
そう告げて、頭を撫でると、リズがそっと微笑む。そうやって、八月二十九日未明、慌ただしい一日が始まった。




