第726話 『フィア』を守る旅立ちと見送る者達の戦い
目を覚ますと、伸び放題になっている髪がくしゃりと寝癖になっているのが分かった。湿っている日はこんな感じだなと思いながら、ベッドから降りる。窓を開ける時に若干の軋みを感じた。湿気を吸って膨らんだのかなと思いながら外を眺めると、湿った涼しい風が部屋の中の体温に温められた淀んだ空気を浚っていく。空を見上げると、風が早いのか、薄雲が散り散りに形を変えながら、大河のように流れていく。八月二十七日は薄曇りくらいかな。太陽はまだ姿を現さず、ほのかな光だけが地平線の彼方から射している。
ふむ、寝癖を直すのに態々お風呂に入るのもなぁと唸っていると、二匹が目を覚まして、近付いてくる。
『珍しいね。ご飯、欲しいの?』
『むじゅむじゅなの!!』
『きょうか!!』
ふむ……。気圧の変化が顕著になってきたのか、鼻の辺りを体に擦り付けたり、爪を出さずに前脚で掻いたりしている。昨日はお風呂に入っていないから、気晴らしに入れてあげようかな。まだ朝早いので、食事前にちゃっちゃと済ますかと、リズを起こして聞いてみると晩に入ったから良いらしい。猫の集会分、遅くまで起きていたので、まだ眠そうだ。そのまま寝入ったリズを置いて、二匹と一緒に朝風呂を楽しむ。部屋に戻る際に、厨房に寄って二匹の朝ご飯も受け取る。二匹に餌の場所を知られると困るので、食堂前でお座りして待っててもらった。部屋に戻って、朝ご飯を美味しそうに頬張るタロとヒメ。朝湯に食事とご機嫌だ。
「ふわぁぁ。おはよう……。むー、いつもより少し早い?」
「食事までに頭をはっきりさせておきたかったから」
「そっか。起こしてくれたのに、ごめん。眠かったよ……」
ぐいっと前屈したリズが、ぱたりと転がり、うーんと伸びをして、ベッドを下りる。ご飯を食べてご機嫌な二匹のちょっと湿った艶やかな様子を見て、リズが口を開く。
「あ、結局お風呂入ったんだ。んー。眠気を覚ますなら一緒に入った方が良かったのかな」
「眠そうだったし、朦朧としてたからね」
話している内に眠気が飛んだリズが身繕いをしている二匹を構っていると、侍女から声がかかる。食事の時間だ。
食堂に向かうと、皆揃っている。仲間達は若干緊張した面持ちで座っているが、リラックスするように笑顔で促す。
「取り敢えず、食事にしようか」
そう告げて、席に着き、昨日のレシピを料理人が試して、出汁で伸ばしたカレーうどんモドキを口に運ぶ。とろみがついていないので、跳ねたらアウトだなと思い、注意点を告げるが、どれだけ被害を食い止められるか……。
「で、何か詳しい話は分かりましたか?」
ロットが苦心しながらフォークでくるくるうどんを巻き取り、問いかけてくる。
「大体の日程は分かった。『リザティア』到着は二日から三日後みたい。進行速度にもよるけど、『フィア』は今日には影響範囲に入るだろうし、明日には確実に上陸すると考えられるかな」
「となると……。やはり……」
ドルが、ブリューの方を見つめると、こくりと頷きが返る。
「少々の風でも、魔術で飛ぶので問題は無いです。ただ、風魔術の殻ごと揺れるので、乗り心地は期待しないで下さい」
ブリューの言葉に皆が頷く。ただ、高所恐怖症はいないのかなとちょっと心配になる。あれって、上がってみないと分からないし、テストはきちんとしてもらおう。
「残りの時間は無いから、明確な避難の呼びかけを領主の名において、実施してもらうのが一番の目的になる。仕事をほっぽり出してでも、逃げろというのが趣旨だから、文書で渡す。村長と調整してくれれば良いよ」
そう告げると、カビアが問題無いという顔をしているので、既に草案はまとめているのだろう。
「人間は避難で。人魚さん達はどないしますか?」
この場合のどないは、妊婦と人間、人魚の子供を持っている場合を指すんだろうな。
「出来れば、家族単位で陸地に避難かな。海辺の集会所だと、ちょっと海に近すぎる。高波が来ても、問題が無い設計にはしているけど、家財道具は別だから。それだけでも移動させて欲しいかな。最悪、布団関係だけでも良いよ。逆に人魚さんの方が慣れているだろうし、向こうの方針は人魚さんに任せてしまって良い。私の名において、それを許可するから」
「と言う事は、大きな問題は製塩設備ですか……」
ロッサの言葉に、若干表情が暗くなるのはしょうがないだろう。
「枝条架は風に弱いから。予備の材料は確保しているし、下手に抵抗になる物がかかっていると、組み木の方が痛むから撤去して欲しいかな。そこまでやる暇があるならだけど。その場合は、設備よりも避難を優先する方針で」
「現場の判断で御座るな……」
リナの言葉を完全に肯定する。
「それに関しては、私は皆に任せる。領主の名は軽くないからね。自分の身を守りつつ、出来る限りの被害を食い止める辺りで良い。最優先は人命。設備は二の次で」
明確に伝えると、皆の表情に理解と、闘志が浮かぶのが分かる。
「もう……。本当に無茶しないでよね……。で、責任者はロット、サブはティ」
そこまで告げると、ティアナが口を開く。
「私はカビアと『リザティア』に残るわ。領民はまだしも、歓楽街の方の調整は難航しているようだもの。経験者の人手は幾らあっても足りないわ」
凛々しく宣言したティアナを眩しく思いながら、じゃあ、どうするかなと。
「分かった。じゃあ、サブはリナで。兵も皆の顔は憶えているだろうし、手足に使って良いよ。絶対に怪我の無いように」
そう伝えると、おうと言葉が返る。食事が終わると、皆はもう荷物をまとめていたのか、さっさと旅立ちの準備を始める。風の影響を考慮して、輸送するのは仲間達だけ。竜さん達もブリューとアーシーネを残し、残りの九人は全員向かってもらう。若干の食料も持っていってもらうためだ。
「じゃあ、皆、頼んだよ」
領主館の中庭で、旅立つ皆を送る。気楽な顔でフィアが行ってきまーすとロットの後ろで叫んで、先頭で飛び立つ。後に続き、皆が編隊に組み込まれていく。それを見送りながら高所恐怖症はいなかったかと、安心し、カビア達の方に向き直る。
「さぁ、私達はもっと多人数を相手にしないといけない。何もなければそれで良い。何かあったら、私達の負けだ。天災ごときに負けてられない。動くよ」
静かに告げると、皆が一斉に頷き、銘々に自分の持ち場に走り出した。さぁ、防災の始まりだ。




