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【一話完結】「床を調べるだけの女」と追放された私。――戴冠式で王宮が崩れた日、無能と呼んだ建築総監はすべてを失った。

安全を守るための警告を無視され、王宮を追放された女性職人。

彼女の予言どおり戴冠式で大広間が崩落すると、権力者たちは初めて、誰にも評価されなかった彼女の技術と仕事の価値を思い知る。


「明日から、この王宮にお前の居場所はない」


 大広間のまん中で、私は解雇を言い渡された。言ったのは王室建築総監のグラハム侯爵。金糸入りの上着に、磨き上げた靴。その靴先で、彼は足元の測定用の木片を蹴り飛ばした。


「床を叩いて音を聞く。継ぎ目にしゃがみ込む。柱の根元をのぞき込む。そんなことに何の価値がある。床を調べるだけの女に、王宮の何がわかる」


「床の下に異常がないか、確認しているんです」


「その言い訳は聞き飽きた。明後日は王太子殿下の戴冠式だぞ。大陸中の貴族と使節、五千人が集まる大広間に、薄汚れた作業着の女がうろついているなど許されん」


「ですが、南側の床がおかしいんです」


「またそれか」


 グラハムは両腕を広げて、大広間を見回した。床は白い大理石で埋め尽くされ、金色の模様がシャンデリアの光を映している。十日前まで古い石板と木組みがむき出しだった場所を、彼は莫大な予算をかけて、わずか十日で作り替えさせたのだ。


「この美しさが見えんのか。きしみだの石の浮きだの、職人の言い訳だ」


「表面が美しくても、下の支えが安全とは限りません」


「黙れ。お前は床組師だ。床を組んで石を並べるのが仕事で、それ以上の判断をする権限はない。王宮の安全は私が責任を持つ」


 床組師、エレナ・ヴァイス。それが私だった。


 床は石を敷けば終わりというものではない。地盤、排水、木組みの梁、石の重さ、温度による伸び縮み、何千人が一斉に歩いたときの荷重。そのすべてを見て、建物が長く持つように整える。私は父を亡くしてからの十六年、その仕事だけをしてきた。この大広間の床も、十五年前の修繕記録を調べて梁の交換箇所を割り出し、排水の詰まりを取り除いて守ってきた。


 だから、わかる。今の床は美しいが、安全ではない。


「グラハム様、南側の地下には古い排水路があります。石を全面交換して床が重くなったうえに、点検口まで塞がれました。この状態で五千人を入れたら――」


「もういい」


 グラハムが衛兵を呼んだ。


「この女をつまみ出せ。工具も置いていけ」


 衛兵が私の手から木槌をもぎ取り、足元の工具箱も取り上げた。中には真鍮の水平器が入っている。木槌も水平器も、父の形見だった。


「それだけは返してください。父の形見なんです」


「私物だという証拠でもあるのか」


 グラハムは鼻で笑った。逆らえば、戴冠式の妨害で訴えられる。王宮に楯突いた職人を雇う貴族もいなくなる。私は唇を噛んで、道具をあきらめた。


 両腕をつかまれて扉へ引きずられていく途中、床の奥で音がした。


 ミシリ。


 大理石の下で、何かがきしんだ。


「今の音、聞こえましたか! お願いです、南側だけでも今すぐ閉鎖してください!」


「二度とこの女を入れるな」


 重い扉が閉まった。石段に立ち尽くす私の手には、何も残っていなかった。仕事も、道具も、十二年通った職場も。耳に残っているのは、あの音だけだった。


 もう一度あの音が鳴ったとき、今度は取り返しのつかない悲鳴が上がる。私はそう確信していた。


 ※


 父は王都で名の知れた床組師で、建物の傾きや床の沈みを誰よりも早く見抜く人だった。


「人は天井を見る。壁の飾りを見る。床の模様を見る。だが、建物を支えているのは、誰も見ようとしない場所なんだ」


 父は、私が十二歳のときに死んだ。修繕中の商館の床が崩れ、下敷きになったのだ。責任者は「父が警告を怠った」と発表したが、嘘だった。父は事故の三日前から梁の腐食を報告していて、修繕費を惜しんだ責任者がそれを突っぱねたのだ。


 父の死後、私は残された記録を読み、現場に通い、職人たちに頭を下げて技術を教わった。警告したのに無視されて人が死ぬ、そんなことのない仕事がしたかった。十六歳で王宮に採用されたとき、ようやくそこへ近づけたと思った。


 王宮の床は複雑だった。古い石造りの地下室の上に木組みの床があり、その上に石板が載る場所もある。地下には排水路と暖房用の通路が走り、何百年も前の基礎が残っているところもあった。見える部分だけ直しても意味がない。


 私は毎朝床を歩いた。足音の変化を聞き、石板の隙間を調べ、壁際のわずかな傾きを測る。異常があれば地下へ降りて原因を探した。沈む前に支えを直し、水が溜まる前に排水路を掃除し、腐る前に湿気を抜く。おかげで、王宮では十年以上、大きな床の事故が起きていない。


 ただ、事故が起きなければ、仕事の価値は誰にも見えない。記録に残っているのは、床を磨いた侍女や大理石を運んだ石工の名前ばかりで、私の名前はほとんどなかった。それでも構わなかった。床が沈まず、誰も怪我をしなければ、それで十分だった。


 おかしくなったのは半年前、グラハムが王室建築総監に就任してからだ。彼は古い王宮を「時代遅れ」と呼び、壁を塗り替え、柱に金箔を貼り、床を最新の大理石に替えようとした。見栄えを整えることが王国の威信を高めると、本気で信じていた。


 私は反対した。床を替えるなら、先に下の木組みを調べるべきだ。長年の湿気で梁が傷んでいるかもしれないし、排水路が詰まっていれば雨水が基礎に回り込む。


「工事費が倍になる」


「安全を確かめるために必要です」


「今まで何も起きていないだろう」


「何も起きないように、私が調べているからです」


 グラハムは笑った。


「つまり、自分がいなければ王宮が崩れると言いたいわけだ」


「そうではありません」


「なら、誰にでもできる仕事だな」


 それから彼は私の予算を削り始めた。点検用の木材は減らされ、地下の作業員も減らされ、私の修繕計画は何度も却下された。そのうえで戴冠式のための大改装が始まり、工期を縮めるために南側の排水路の点検口は床材で塞がれた。


「点検口がなければ、排水路の状態を確認できません。せめて蓋を付けてください」


「装飾の邪魔になる」


 工事責任者の返事はこれだけだった。


 古い設計図を調べると、南側の排水路は王宮裏手の斜面に抜けていた。春は雪解け水が集まる場所だ。途中には百年以上前の石の仕切りがあって、水の勢いを弱め、基礎の下へ回り込まないようにしている。その仕切りが、泥と落ち葉で詰まりかけていた。


 修繕を申請したが、却下された。もう一度出しても、却下された。最後はグラハムに直接説明したが、彼は資料に目も通さなかった。


「戴冠式の前に床を剥がすつもりか? 殿下の式を妨害したいのか」


「事故を防ぎたいだけです」


「なら、黙って仕事をしろ」


 それで私の立場は決まった。安全を求める職人は式典の邪魔者で、見栄えを優先する総監は威信を守る有能な管理者。そして私は解雇された。


 ※


 追い出された夜、私は安宿の狭い部屋で古い設計図を広げた。工具も仕事もないが、考えることはできる。


 問題は重さだけではなかった。新しい大理石は以前の床材より重く、その荷重が古い梁に集中している。床下に水が溜まれば、梁の腐食は一気に進む。排水路が詰まれば水圧が上がり、基礎の隙間へ水が入り込む。しかも大広間の中央は、舞台を置く関係でとりわけ荷重が大きい。


 最初に異常が出るのは、南側の柱列だろう。南側の梁は二本の古い石柱で支えられていて、片方の柱の基礎は排水路のすぐ近くにある。そこに水が回れば地盤が緩んで荷重が偏り、片側が沈めば隣の梁にも負担がかかる。最悪の場合、床の一部が落ちる。


 私は立ち上がった。今からでも王宮へ行くべきだ。けれど立ち入りは禁じられていて、無理に入れば拘束される。それでも、黙ってはいられなかった。


 私は警備隊長のローデンを訪ねた。以前、私が床を直した兵舎の隊長だ。


「エレナ? こんな時間にどうした」


「お願いがあります。戴冠式の前に、大広間の南側を閉鎖してください」


 排水路の詰まり、床材の重量増、古い梁の劣化、五千人が入った場合の危険。設計図を見せながら説明すると、ローデンは最後まで真剣に聞いてくれた。


「総監には報告したのか」


「何度も。それで解雇されました」


 隊長はしばらく黙り込んだ。


「俺に建築のことはわからん。だが、危険があると聞いた以上、知らん顔はできない」


 彼は副官に命じて、王宮の管理部門に報告書を届けさせた。翌朝返ってきた回答は短かった。


 大広間の安全性は王室建築総監が確認済み。式典の変更は認めない。


 末尾には、グラハムの署名があった。ローデンは悔しそうに拳を握った。


「俺たちにできるのは、警備を増やすことくらいだ」


「聞いてもらえただけで十分です。ありがとうございました」


 その日の夕方、私は王宮の裏手に回った。立ち入り禁止の柵の外からでも、南側の斜面は見られる。春の雨が降り続いて、地面はぬかるんでいた。斜面の下の小さな水路は、以前より流れが細い。しゃがんで泥を見ると、水が溜まっていた。排水路の出口が、ほとんど塞がっている。


 このまま降り続けば、床下に水が回る。戴冠式は明日の正午だ。


 最後にもう一度、と正門へ向かったが、衛兵は槍を横にして道をふさいだ。


「総監の命令だ。お前は入れない」


「あと一度だけ、総監に話をさせてください」


「駄目だ」


 閉ざされた門の向こうには、何百年も王国を支えてきた大広間がある。その床の下には、誰も見ようとしない危険が潜んでいる。私は門を離れた。警告はした。資料も出した。聞かなかったのは向こうだ。そう言い聞かせても、その夜は眠れなかった。


 ※


 翌朝の王宮は祝祭一色だった。正門には旗が並び、石畳には花びらが撒かれ、豪華な馬車から貴族たちが降りてくる。外国の使節は色鮮やかな衣装をまとっていた。大広間では、白大理石が朝日を照り返している。


 グラハムは満足そうにそれを眺めていた。


「見事だ。この大広間こそ、新しい時代の象徴だ。古い職人の小言に惑わされず、工事を進めた私の判断は正しかった」


 建築責任者のひとりが、おそるおそる口を開いた。


「南側の排水については、まだ確認が……」


「確認は済んでいる」


「ですが昨夜の雨で――」


「私の判断を疑うのか」


 責任者は口を閉じた。グラハムは上機嫌で続けた。


「式典が終われば、王宮全体の改装計画を発表する。古い木組みは廃止して、石材と金属の支持具で統一する。無駄な点検に時間をかける必要もなくなる」


 彼の頭の中では、成功はもう決まっていた。王太子に感謝され、国王から褒賞を受け、建築総監として歴史に名を残す。そのために予算を削り、工期を縮め、古い職人を追い出してきたのだ。床の下のことなど、考えもしなかった。


 午前十一時、最初の招待客が大広間に入った。靴音が磨かれた石に響き、貴婦人たちが笑い、騎士が挨拶を交わし、楽団が祝いの曲を奏でる。


 南側の柱の近くで、給仕係のひとりが足を止めた。


「……あれ?」


 床の継ぎ目から水が滲んでいた。布で拭いたが、数分後にはまた濡れている。上司に報告すると、上司は床を一瞥して眉をひそめた。


「清掃係を呼べ。客に気づかれる前に拭いておけ」


 十一時半には、三千人を超える客が集まっていた。その重さが床全体にかかる。地下では、排水路に溜まった水が古い石壁の隙間から染み出し、湿気を吸った梁がじわじわと歪み、南側の柱の基礎では地盤が緩み始めていた。それでも床の表面は、まだ美しいままだった。


 正午、純白の礼服を着た王太子が入場し、王冠を受けるために大広間の中央へ進んだ。演奏が高まり、客が一斉に頭を下げる。国王が王太子の前に立った。


「本日、我が国の未来を――」


 そのとき、南側で低い音が鳴った。


 ゴン。


 地下で巨大な鐘を叩いたような音だった。何人かが顔を上げ、グラハムも眉をひそめた。


「何の音だ」


 建築責任者が青ざめて南側を見る。床の継ぎ目がわずかに開き、黒い水が滲み出していた。


 ミシリ。


 床が、沈んだ。


 ※


 最初に声を上げたのは、南側の列にいた貴族だった。


「床が……!」


 白大理石の一部がはっきりと沈み、椅子が傾き、銀の燭台が倒れた。続いて床下から乾いた破裂音が響く。


 バキン!


 古い梁が荷重に耐えきれず折れた。南側の床が一気に数十センチ落ち、客が倒れ、楽団の楽器が床を滑っていく。近衛騎士が王太子と国王を囲んで退避を始めた。


「全員、出口へ!」ローデンが叫んだ。


「走るな! 中央通路を空けろ!」


 だが、数千人が一斉に動けば混乱は避けられない。南側では木組みが次々に折れていた。大理石の重みが弱った梁に集まり、排水路から回り込んだ水で緩んだ基礎の上で、柱が傾き始める。崩落は南から中央へ広がっていった。


 グラハムは立ち尽くしていた。目の前で、七億六千万ガルをかけた大理石が割れていく。金色の模様が裂け、床下から黒い泥水が噴き出した。


「建築責任者! 何とかしろ!」


「無理です、床の下が崩れているんです!」


「支えを入れろ、柱を立てろ!」


「床の上からではどうにもなりません!」


 周りを見ても、誰もが逃げていた。彼が誇った大広間は、崩れかけた石の塊になっている。


 ドォン!


 南側の柱が傾き、天井の装飾が揺れた。巨大なシャンデリアが、ゆっくりと振れ始める。


「逃げろ!」


 騎士たちは国王と王太子を回廊へ誘導し、客は中央通路から外へ出た。崩落の直後に避難が始まったおかげで、大勢が押し潰される事態は避けられた。それでも、割れた石で足を切った者、転んで腕を折った者、落ちてきた装飾に打たれた者が次々と運び出される。崩れた床の下には、給仕係と作業員が数人、取り残されていた。


 グラハムは、そこで初めて自分の判断が何を招いたかを悟った。


「……そんなはずはない」


 大理石を敷かせたのも、点検口を塞がせたのも、修繕予算を削ったのも、床組師を追い出したのも、自分だ。


 一昨日の光景が蘇る。木槌を持った女が、南側を閉鎖してくれと訴えていた。あの女は何と言っていた?


――この状態で五千人を入れたら。


 血の気が引いた。


「……エレナ」


 かすれた声で、その名がこぼれた。


 ※


 王宮の外にいた私にも、崩れる音は聞こえた。地面がかすかに揺れ、鳥が一斉に飛び立つ。正門のほうから悲鳴が上がった。


 私は走った。前庭には逃げ出した客があふれ、衛兵が誘導し、医師たちが怪我人を手当てしている。大広間の南側からは白い粉塵が立ち上っていた。


「何があったんですか!」


「床が崩れた! 大広間の南側だ!」


 恐れていたとおりだった。ローデンを探し出すと、彼は避難の指揮を執っていた。


「ローデン隊長、地下に入れる場所はありませんか」


「南側の床が崩れて、地下の通路も一部塞がっているらしい」


「排水路の出口は裏手の斜面につながっています。そこから入れるかもしれません」


 ローデンは一瞬ためらった。


「危険だぞ」


「わかっています。でも、床の下に人が残っているかもしれません」


 隊長は私の顔を見て、短くうなずいた。


「わかった。救助隊を出す。お前は中の構造を案内してくれ」


 裏手の斜面に回ると、水路は泥と落ち葉で詰まっていた。借りた鉄の棒で出口の枝をかき出すと、水が流れ出し、その奥に古い石の通路が見えた。


「ここから入れます!」


 救助隊と一緒に進みながら、壁の亀裂や床の傾きを見て道を指示する。


「右の通路は使わないでください。梁が腐っています。左なら柱の基礎を避けて大広間の下に出られます」


 やがて瓦礫の向こうから声がした。


「誰か! ここだ!」


 崩れた床の下にできた隙間に、給仕係と作業員が閉じ込められていた。瓦礫をどけ、ひとりずつ運び出していく。全員、生きていた。膝から力が抜けそうになったが、まだ終わりではない。


「南側の床には、これ以上入らないでください。中央の梁にも荷重が偏っています。外周から支えを入れないと、崩落が広がります」


 救助隊長はすぐに作業を切り替えた。私は石材置き場から支えに使える木材を集めさせた。以前、修繕で使っていた仮設の支持の方法だ。完全に安全とは言えないが、崩れた床の下へ無理に入らず、まず外周で荷重を受けて危険な範囲を囲う。そのうえで残った空間を確認する。慎重な作業が続いた。


 夕方には、取り残されていた人全員が救出された。死者はなし。負傷者は四十七人で、うち九人が骨折などの重傷だが、命に別状はない。報告を聞いて、私は深く息を吐いた。完全には防げなかった。それでも、失われるはずだった命は救えた。


 そのとき、背後から声がした。


「……エレナ」


 振り向くと、グラハムが立っていた。豪華だった上着は泥にまみれ、片袖は裂けている。顔は青白く、額に汗が浮いていた。


「頼む。大広間を直してくれ」


「直せます。ただし、床をすべて撤去して、基礎と排水路から調べ直す必要があります」


「費用は惜しまない」


「今までも、何度もお願いしました」


 グラハムの顔が引きつった。


「……わかっている」


「いいえ、まだわかっていません。床が崩れたのは大理石のせいではありません。支える部分を調べず、必要な修繕を省いて、危険を指摘した人間を追い出したからです。私は直せます。でも同じ判断を繰り返すなら、また同じことが起きます」


 彼は何も言えなかった。やがて、唇を震わせて言った。


「頼む。今だけは、私を責めないでくれ」


 おととい、この人は私の木片を蹴り飛ばし、父の形見を取り上げて、私を王宮から追い出した。その人が今、切り捨てた職人に助けを求めている。


「責めているわけではありません。事実をお話ししているだけです」


 ※


 翌朝、大広間は立ち入り禁止になった。崩れた床は巨大な穴になり、白大理石は割れ、金の装飾は泥に埋もれ、南側の柱は傾いたままだった。


 調査が進むほど、問題が次々に出てきた。梁の腐食、排水路の詰まり、基礎の沈下、床材の重量増加、塞がれた点検口、そして工事記録の改ざん。


 グラハムは報告書を前に、何度も首を振った。


「違う。こんなはずがない」


 彼は建築責任者に詰め寄った。


「なぜ腐った梁を替えなかった!」


「予算を削るよう、総監から指示がありました」


「排水路の詰まりを、なぜ報告しなかった!」


「報告書は出しています。総監室で受理された記録も残っています」


「点検口を塞いだのは誰だ!」


「工事指示書に、総監の署名があります」


 グラハムは資料をめくった。一枚、二枚、三枚。どれにも自分の署名があった。修繕費の削減、調査工程の省略、点検口の封鎖、床材の変更。決めたのは全部、彼自身だ。


 最後の資料には、私の報告書が付いていた。三か月前の日付で、南側の梁の腐食と、床材を重くすることの危険を書いたものだ。余白に、彼自身の手書きがあった。


 費用対効果が低い。対応不要。


 手が震えた。


 崩落の前まで、彼は自分を王宮の救世主だと思っていた。古い職人を追い出し、最新の石材を入れ、豪華な大広間を完成させた。王太子に褒められるはずだった。ところが残ったのは、崩れた床と四十七人の負傷者、そして巨額の損失だった。


 大広間の改修費は総額七億六千万ガル。崩落した床と地下構造の再建には、少なくとも十二億ガルかかる。そこに式典延期の費用、使節団の滞在延長、警備の増員、負傷者への補償が加わり、損失は合わせて二十一億ガルと見積もられた。しかも大広間は、最低でも八か月使えない。


 被害は金額だけではなかった。各国の使節は王国の建築管理に疑問を示し、商人たちは王宮の公共工事の契約を見直し始め、王室会計院は改修費の使途を調べると発表した。国王は、グラハムを建築総監の職から即日解任した。


 解任通知を持つグラハムの手は震えていた。


「待ってください。私は王国のために働いてきたのです」


 国王の側近は冷ややかに答えた。


「王国のために働いたのなら、なぜ危険を指摘した者を追い出したのです。なぜ必要な修繕を省き、報告書を無視したのですか」


 グラハムは唇を震わせた。


「あの女が、仕事を大げさに見せているだけだと思ったのです」


「では、なぜ彼女の言ったとおりに崩れたのですか」


 彼は椅子に崩れ落ちた。答えは一つしかなかった。何も知らなかったのだ。床の下で何が起きているのか、何が建物を支えているのか、なぜ古い職人が同じ場所を何度も調べるのか。理解しようともせず、わからないものには価値がないと決めつけた。


「……エレナを呼んでください」


 側近は首を横に振った。


「彼女はもう、あなたの命令で動く立場ではありません」


 その瞬間、グラハムの顔から最後の余裕が消えた。地位も、名誉も、金も、そして自分の判断が間違っているときに止めてくれる人間も、自分の手で失ったのだと、ようやくわかった。


 ※


 崩落から三日後、私は王宮に呼ばれた。今度は正門で止められなかった。衛兵は敬礼して、王の執務室まで案内してくれた。


 国王は机の前に座り、その隣に、戴冠式を延期された王太子が立っていた。


「エレナ・ヴァイス。そなたの警告が正しかったことは確認された。報告書は何度も受理されていたのに、適切な対応が取られなかった。崩落の後には救助にも協力してくれたそうだな。そなたの案内がなければ、救出は遅れていただろう」


「危険をお伝えしただけです」


 王太子が一歩前に出て、頭を下げた。


「エレナ殿、礼を言わせてください。戴冠式が延びたのは残念ですが、あの場にいた人々の命が守られたことのほうが、ずっと大切です」


 思わず顔を上げると、王太子は続けた。


「私は華やかな床を見て、大広間は完成したと思い込んでいました。床の下で何が起きているかなど、考えもしなかった。あなたの仕事がどれほど大事なものだったか、今になってようやくわかりました」


 十二年間、誰にも気づかれなかった仕事だった。何も起きないことだけが成果の仕事だった。それを王太子の口から聞いて、胸がつまった。


 国王は私に、王室建築監査官の職を提案した。王宮の修繕計画を独立した立場で確認し、安全に問題があれば工事を止められる役職だ。


「陛下、お願いがあります。私一人の判断に頼る仕組みにはしないでください。現場の職人が危険を報告したとき、上司の都合で握りつぶされないようにしたいんです」


「よかろう。報告を受けた責任者は、対応の理由を記録に残すこと。重大な指摘を無視した場合は、監査の対象とする。そなたが望むなら、必要な職人を集めて、修繕の体制も作り直してくれ」


「お引き受けします」


 それは、父が望んでいた仕事でもあった。


 執務室を出ると、廊下でローデンが待っていた。見覚えのある工具箱を抱えている。


「総監室の倉庫に残っていた。お前のものだ」


 蓋を開けると、父の木槌と真鍮の水平器が入っていた。


 ※


 大広間の再建には八か月かかった。最初にしたのは、崩れた石を片付けることではない。地下の排水路を調べ、基礎の状態を確かめ、腐った梁をすべて替えることだった。


 新しい床材は、見た目だけでは選ばなかった。重さ、耐久性、交換のしやすさ、そして地下の点検を妨げない構造。床の一部には外せる点検蓋を付け、排水路は全面的に直して、詰まったときに外から確認できる点検口も増やした。工事記録には、使った材料、施工した職人、確認した項目、残った課題を全部書き込ませた。


 現場の職人が危険を報告すれば、必ず監査官の私に届く。誰かが「問題ない」と言っただけでは、工事は完了にならない。実際に確認して、記録を残し、検査を通って、はじめて完成とされる。


 この仕組みは、ほかの建物にも広がっていった。王都の兵舎、王立学院、市民が使う橋や市場。目立たない場所ほど丁寧に調べる、という考え方が、少しずつ根付いていった。


 グラハムは建築総監の職を失った。調査の結果、修繕費を削るために報告書の一部を差し戻し、必要な工事を省かせていたことも明らかになった。王室会計院は彼の管理責任を認め、彼は二度と王宮の建築計画に関われなくなった。取引先の職人たちも彼の依頼を受けなくなった。以前は名前だけで契約が決まったのに、今では彼の名前があるだけで、条件を念入りに確かめられる。地位だけでなく、威信も信用も失ったのだ。


 ある日、私は再建された大広間を歩いていた。床は以前ほど派手ではない。金の模様は減り、石の色合いも落ち着いている。それでも、足の裏にはしっかりした感触があった。木槌で端を軽く叩く。


 コン。


 澄んだ音が返ってきた。異常なし。


「エレナ監査官」


 振り返ると、若い職人が立っていた。


「南側の点検蓋のまわりで、少し湿気を感じました。まだ異常と言える数値ではありませんが、記録に残しておきます」


「ありがとう。念のため、地下の排水路も見ておきましょう」


「はい!」


 誇らしげにうなずく彼を見て、ああ、変わってきたのだなと思った。危険を見つけた人が、ためらわずに報告できる。何も起きていないときの仕事も、ちゃんと認めてもらえる。私が作りたかった王宮は、こういうものだった。


 ※


 改めて行われた王太子の戴冠式には、今度も五千人が集まった。それでも床はびくともしなかった。大理石は静かに光り、楽団の演奏が響き、王冠が王太子の頭に載せられた。


 式典の最後に、国王が私の名を呼んだ。壇上で功績をたたえられて頭を下げると、拍手が広がり、やがて客席のあちこちから私の名前を呼ぶ声が上がった。「エレナ・ヴァイス」「床組師エレナ」。その声は大広間いっぱいに広がっていった。


 十二年前、誰も私の名前を覚えていなかった王宮で、国じゅうが私を呼んでいる。父が生きていたら、褒賞よりも、床が無事だったことのほうを喜んだだろうと思った。


 式のあと、私は大広間の隅の点検蓋を開けて、地下をのぞいた。排水路は正常に流れ、梁にも異常はない。蓋を閉じたところで、入口から聞き覚えのある声がした。


「……エレナ」


 グラハムだった。以前の豪華な服ではなく、地味な上着を着ている。


「大広間が無事に完成したと聞いた」


「はい。式も無事に終わりました」


「そうか……」


 彼は床に目を落とした。


「私は、床を美しくすれば王宮の価値が上がると思っていた。見える部分を整えれば十分だと。君が何度も言っていたことを、理解しようともしなかった。君の仕事を、床を調べるだけのものと決めつけていた」


 声がかすれていた。


「すまなかった」


 深く頭を下げる彼を、私はしばらく見つめた。以前なら、この一言で泣いたかもしれない。でも今は、彼を許すために働いているわけではない。同じ過ちが繰り返されないように働いているのだ。


「グラハム様、私は許すかどうかを決めるためにここにいるのではありません。ただ、これからは見えない部分にも目を向けてください。床の下だけではなく、人の仕事もです」


 グラハムは何も言わず、もう一度頭を下げて立ち去った。


 私は工具箱から木槌を取り出し、床を軽く叩いた。


 コン。


 澄んだ音が返ってくる。


「よし。今日も問題なし」


 大広間には祝いの音楽が流れていて、木槌の音に気づく人はいなかった。それでいい。今日も床は沈まず、誰も怪我をしない。私が守りたかったものは、ちゃんとここにある。


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