3-10
階段からエントランスに落とされたエナガはすぐに手をついて起き上がることができた。だが、立ち上がるより先に、オークロに二の腕を掴まされ、エナガが倒れそうになるのもお構いなしに引っ張り上げた。
「エナ!」
エナガが振り向くと飛び込んできたアトリが階段にいた。
「アトリさん!」
エナガが叫ぶ。オークロはエナガをエントランスの奥に突き飛ばした。エナガは壁にからだをぶつけ、倒れた。痛みにすぐに起き上がれない。
「お前!」
階段から飛び降りたアトリはオークロの首に腕を回して締め上げた。オークロはアトリの腕を掴みながら、踵を振り上げ、アトリのすねを蹴った。アトリの力が弱まった隙に腕から逃げ出すと振り返り、左で顔を殴ろうと素早く拳を突き出したが、その拳をオークロは受け止めた。
「華奢なわりにやるじゃねぇか」
アトリが微笑を浮かべる。
「こういうの好きじゃないけどね」
オークロはアトリの腹を蹴る。アトリは胃液を吐き、顔を歪めるがオークロから手を離さなかった。腕を捻り上げ、壁に押し付ける。オークロが唸った。エナガはやっと起き上がり、アトリを見た。
「アトリさん……」
エナガの声にアトリはつい振り返ってしまった。オークロはアトリの額に後頭部で頭突きをした。アトリがよろめく。エナガは思わず、立ち上がった。オークロはアトリの髪を掴むと壁に叩きつけた。アトリは気絶し、床に倒れた。エナガが絶句し、駆け寄ろうとするとオークロはアトリに銃口を向けた。エナガは動きを止める。オークロは顎で壁をさした。そこには黄色く光る線でできた縦長の長方形があった。
「たぶんそっちが、操縦室のホールだ。こいつの命が大事なら開けろ」
エナガが意識のないアトリと壁を交互に見る。
「早く、開けろ!」
オークロがアトリの腹を蹴り上げる。エナガは逆らえず、壁に手をつけた。すると、その黄色い枠で囲まれた部分だけ開いた。オークロはエナガの襟首を掴むと、ホールの中に押し入れた。
「アトリさん!アトリさん、起きて!」
エントランスに戻ろうとするが、オークロに脇から腕が入れられ、無情にも入り口は塞がり、アトリはエナガの視界から消えた。
ホールはハーリキンの街と同じように円のかたちをしていた。エントランスと同じように、天井も、壁も、床も、白く光っているように見え、空間感覚がなくなりそうだった。すると奥から、薄いグレー色の台がすっと出てきた。その台の中央が小さい円のかたちで黄色く発光した。オークロはそこに、博物館から盗んだジソウを置いた。すると壁の白が徐々に薄くなり黄色に変わった。白い部屋から、そこは黄色い部屋に変わった。エナガは壁に目を凝らす。揺れている。壁の黄色は液体のようだった。水槽の中の水。そんな感じであった。ジソウの横に今度は手形が浮かんだ。「認証してください」とホール内にアナウンスが響く。
「手をおけ」
オークロが命令する。エナガは首を振った。
「いう通りにしないとあの赤髪を今度こそ殺すぞ」
「わたしが壁に手を触れない限り、あなたはエントランスに出られない。この状況は、わたしがあなたを、閉じ込めていることでもあるのよ」
かっとなったオークロは睨み、エナガの額に銃口を突きつけた。エナガは一瞬息を止めたが、睨み返した。ここまできたエナガは恐怖を通り越した強さと度胸を手に入れていた。
「わたしを殺すの?わたしを殺したら、タイムマシンは動かないわよ」
エナガが挑発する。オークロは微笑み、銃口を右肩へとずらした。
「殺しはしない。死なない程度に、いうことを聞くまで撃ち続けてやる」
エナガは唇を噛み締めた。屈するつもりはなかった。ここで負けたらいつ戦うのだ。もう、後悔から逃げるつもりはエナガにはなかった。
ホール内に電子音がなった。「無線を受信しました」というアナウンスが流れた。
「もしもーし。もしもし?」
幼い子どもの声だった。
「聞こえてる、母さん。俺だよ。アトリだよ」
エナガはエントランスの方を見る。アトリなわけがない。でも同じ名前だ。
「ここにきて随分経つよ。母さんはどこにいる?じいちゃんと父さんの世話、俺だけじゃ無理だよ」
エナガはまさかと思った。マヒワに聞いた話だ。アトリは空に向かって話していたわけじゃない。無線に向かって話していたんだ。
「聞こえないの、母さん。寂しいよ。早く会いたい。よくきたなって、頭をなでて抱きしめてよ」
アトリが見えない母に甘えている。エナガは我慢できずに叫んだ。
「抱きしめてあげる!よくきたねって、きてくれてありがとうって、あなたの頭をなでて抱きしめてあげる!」
「あ、母さん?母さんなの?」
ここで母のふりをするのは惨いことなのかもしれない。
「母さん、そこはどこ?すぐに行くよ!」
それでもエナガは黙っているわけにはいかなかった。彼女は彼を待っていた。
「ここはハーリキンよ!きて!すぐにきて!」
銃声が鳴る。オークロが振り返る間にまた鳴った。そして壁から黄色い液体が零れだした。ホール内に避難指示のアナウンスが響く。入口を見れば、頭から血を流したアトリが白い銃を構えていた。
「お前!」
うろたえたオークロをエナガは突き飛ばす。オークロはふらついて台に手をつく。エナガはジソウを掴むとアトリの元に駆け寄る。
「エナ」
アトリは片腕で強くエナガを抱きしめた。エナガはアトリの胸にしがみつく。
「オークロ、その黄色い液体が零れたらもうこのタイムマシンは使えない。それはこの操縦室を溶かす。触れるなよ、お前のからだも溶かすぞ」
オークロは床へと零れだす液体を茫然と眺めた。アトリは白い銃をおろした。
「もう諦めて外に出ろ。お前は過去には行けない」
オークロは返事をしなかった。黄色い液体はどんどんと零れ出し、じわじわと操縦室を溶かしていく。そしてオークロを囲んでいく。アトリは怒鳴った。
「早くこっちにこい!失ったものを取り戻そうなんざ、ギャンブルで失敗するいちばんの原因だ!お前はこのギャンブルに負けたんだ!」
「そうか、俺は負けたのか。ここまできて、負けたのか」
オークロは喉を鳴らした。なくしたものを取り戻しても、元には戻らない。つらかった感情の癒しにもならない。オークロにはもう、母は手に入らない。唯一の理解者であるタイムもこの世を去ってしまう。オークロの頬に涙が伝う。
「僕はここで死ぬ」
「死んでどうなる」
アトリはつかさずいった。
「お前がここで死んでも、お前の人生は帳消しにはならないぜ」
オークロはタートルの首元を乱暴に引っ張ると、アトリたちに見せた。そこには後ろから前にかけて、大きなナイフでつけられた傷跡があった。
「これは僕が愛されなかった証拠だ!帳消しも何もない、僕の人生は何もなかったんだ。僕は、自分も誰も、世界も、憎んだことはない!もがいただけさ!」
「望んでも手に入らないものはある。それでも恐怖と後悔のなかで生きていくしかない」
「無理だ。生れて来なければよかったと信じた方がずっといい」
オークロは一蹴した。そして、黄色い液体を見下ろす。
「この液体の上に倒れれば、過去は消えなくても、俺のからだは消えるな。この首の傷も一緒に」
「やめろ!」
アトリが叫ぶと同時に、倒れるオークロの姿からエナガは目を離すことができなかったアトリがエナガの顔を胸に押し付ける。
「クソが」
何も見えなくなったエナガの耳にやるせないアトリの声だけが聞こえた。死の余韻を嘲笑うかのように、ホール内に不安を掻き立てるようなサイレンが鳴り響き、アナウンスが響いた。
『ホール及びエントランスを完全封鎖します。完全封鎖まで十五秒前』




