賽の河原
何度、驚けばいいのだろう。
ちょうど、演劇か何かで暗転中に舞台がどんでん返ししたようにして、周囲の様子ががらりと変わった。
(ここは、どこだ――?)
さっきまで弓弦羽の庵にいたはずなのに、いつの間にか足元が丸石だらけの河原に変わっている。
広々とした河原。そして、その先には滔々と流れる川。空は曇天で、川の水に沿うようにして黒い壁が続く。
いや、違う。
少彦名命はヒュッと息を飲むと、目の前の壁だと思っていたものがゆるゆると動いて、巨大な蛇がとぐろを巻いている姿だと気が付いた。
赤い血の色のような瞳。そして、単に黒いと思っていた背には模様があり、腹は爛れて見えるほど赤く見えるところがある。
(ヤマカガシ・・・・・・?)
直径が三、四メートルはあろう太さの長大な大蛇がゆるゆるととぐろを解き、ぐいっと鎌首をもたげると、少彦名命はその場でひゅっと息を呑んだ。
《良く参られた、久那土の神。》
低く地響きのような声に圧倒される。
「お、俺を・・・・・・、知っているのか?」
《無論。神皇産霊神がこの川の渡し守として産霊した神を知らぬわけがなかろう。》
「渡し守・・・・・・。」
そう言えば、神皇産霊神がそんな事を言っていたなと思いながら、先程まで弓弦羽の庵にいた事、急にこの場所に移されたことを話す。すると、黒曜石のような鱗をした大蛇はその舌をチロチロとさせた。
《ここは弓弦羽の庵のある場所であり、主の分身が自ら封印された場所でもある。私はこの賽の河原に居ながらにして、他のふたつも護るように命じられたもの。》
「ここに居ながら? 遠見の力でも持っているのか?」
《否。この地は異にしながら一。》
そして、大蛇はこの幽世は国常立尊の力で時空が歪んでいて、少し位相をずらすと違う《層》に移るのだと教えてくれる。
「時空が歪む・・・・・・。」
《左様。いくつもの時空が重なり膨れ、いくつもの時空が重なり打ち消し合う。》
さながら薄布を重ね、皺がよっているようにして、複数の時空が重なっているのだと言う。
少彦名命はそれを聞くとようやく合点がいって、「なるほど、この幽世そのものが《坂》とになっているということか」と独り言ちた。
幽世自体が「坂」ならば、これは神皇産霊神の言っていた「位相をずらした」結果なのだろう。
《あー、テス、テス。こちら、念話のテスト中。聞こえるか?》
少彦名命は辺りに響く神皇産霊神の声に不機嫌そうな顔になる。
「母上、いつも説明をしてからにして下さいと申し上げているはずですが。」
《弓弦羽にはしたぞ?》
「俺に、ですよッ!」
くすくすと笑う気配に、神皇産霊神がわざとやっているのが分かるからどうしたって膨れっ面になる。
《それで、今、どの辺だい?》
「俺が聞きたいんですが。ひとまず河原にいます。」
《では、本物の賽の河原だね。》
「偽物もあるんですか?」
《ああ、高天原管轄の地獄にね。》
神皇産霊神が「あっちは子供に石積みさせるたところだけど、そっちは心の太柱を護る蛟龍の住処になっている」と話す。
目の前の大蛇は擡げていた首を下ろし、とぐろを解いて少彦名命の傍にやってくる。
「恐らく、蛟龍は会ってます。今、目の前にいる黒い大蛇がそれならですが。」
《ならば、その子に上流に連れて行って貰えばいい。続きはその後だ。黒狐もあとで合流するはずだよ。》
少彦名命が黒蛇を見上げれば、乗れと言わんばかりに鼻先を下げてくる。少彦名命は「悪いな」と言うと大蛇の誘いに従ってその首筋を跨いだ。
「上流へ連れてってくれないか?」
《承知した。》
ゆらゆらと身体をくねらせながら進む大蛇の背は、思ったよりも快適だ。
狐に、鴉に、蛇。幽世に再び戻ってから、大旅行になっているが、一番快適な旅かもしれない。
少彦名命はひんやりとした蛇に、その身を預けた。
◇
「それで? こんな所に私を呼び出してどうしようって言うんだい?」
神皇産霊神が大きくため息を吐く。しかし、国常立尊こと、雅は「お願いがありまして」と微笑むばかりだ。
神皇産霊神が呼び出されたのは賽の河原。
と言っても、大禊の最中にあって、河原は水底に沈んでいる。
ただ、異様なのは二人のいる空間は何かで阻まれているかのように泡のような空間が出来ていて、その真ん中で清水が滾々と湧き出している事だった。
「鏡を渡ってこいって言われて、渡った結果がこんな風になっているとは。」
不思議な色合いの水は二人の真ん中から溢れ、それなのに二人を濡らすこと無く流れていく。
「だいたい、この球はなんだい? それに、何故、龍の珠姫の気配が残っている・・・・・・?」
二人の視線の先には木の根に覆われ、籠に捕らわれているようなものがある。清水はそれを中心にして滴り、呼応するようにして水が湧いていた。
「これは高皇産霊神。いいえ、禍津日神が彼女に施した禁咒。」
龍の珠姫の神威は榊に閉じ込められ、その多くは心の太柱に吸い上げられているのだという。
「まあ、その理論に気がついたのが、自分なのだから、とんだ因果応報ですよね。」
雅がしんみりと口にし、そっと木の根に覆われた球に触れる。その姿はつい最近のあれこれを、遠い昔の出来事のように話しているようだったから、神皇産霊神はそんな《国常立尊》の様子に違和感を覚えた。
「随分と落ち着いているのだな。速佐須良比売をそちらに向かわせたとはいえ、あの子は龍の珠姫とは別物だぞ?」
「ええ、彼女は龍の珠姫とは確かに別人でしょう。」
穏やかに、それで愛しげに話す雅の様子に神皇産霊神は険しい表情になる。
「妖魔となって、気でも触れたのか?」
雅は神皇産霊神の警戒半分、気遣わしげな様子半分の姿に、目を細めると「その問いの答えは難しいですね」と答える。
「彼女を害する者がいるなら、全てが滅ぼしてもいいと思っていますし、自分と彼女があればそれで良いと思ってしまっているあたりは、気が触れているのかもしれません。」
そう言って流麗に笑う雅の目は神皇産霊神にすら笑うことなく、心胆を寒からしめるものだった。
「覆水は盆に返りません。龍の珠姫はその身を賢木で撞かれ、自我とその形を失い、心の太柱の人柱にされてしまいました。産霊の結び目を焼き切られた龍の珠姫を私は助けられません。」
知智の実を口にして、ありとあらゆる知識や智恵を授けて貰っても、焼き切られてしまえば元のそれと同じ結び目は作れない。
「それは神皇産霊神、貴女が一番ご存知でしょう? 貴女は結び目を作り、また、結び目を締め直す事は出来ても、焼き切れたものは繋げない。」
それを無理やり繋ごうとすれば、今の雅や八岐大蛇のように異形のものを生み出してしまう。
「完全に焼き切られる前の私でこれですから、焼き切れた彼女を産霊し直すなど至難の業。だからこそ、同じ轍を踏まぬように、祓戸の四柱は《核》を用いて産霊し直したんでしょう?」
それが「新たな神」だと知りながら――。
その指摘に神皇産霊神は顔色を悪くし、国常立尊が自分の知るそれと違うと確信した。そして、距離を置こうと後退りする。
「そなた、そのような姿に変えてしまった私を、恨んでいるのか・・・・・・?」
「恨む? 何故です? 感謝こそすれ、恨む要素など何一つないですよ。それに、国常立尊は焼き切れた後、こうなる事を知っていました。《知智の実》を口にしましたから。」
国常立尊は自らの胸のうちで息を引き取った龍の珠姫をつなぎ止めたくて、知智の実と時じくの香ぐの木の実を口にした。
「《知智の実》は解けきった結び目の直し方や《時じくの香ぐの木の実》の使い方を教えてくれました。」
「な、では、禁断の実を口にしていたと言うのか・・・・・・?」
「ええ。そして、その事を主上は我らと秘密裏に会う前にご存知だったんですよ。龍の珠姫を助けた際に時じくの香ぐの木の実を口にした私は、時を渡りましたから。」
知智の実を口にして、初めて時じくの香ぐの木の実の、隠された能力を知る。
「あの実は、一度、食せば、時を戻します。それゆえ、生命の実とも呼ばれている。ですが、それは本質ではありません。あれはあらゆる時を司っている。」
「あらゆる時を・・・・・・?」
「ええ、あの木には過去も現在も未来も関係ありません。あの木こそ《時》そのもの。」
丁度、速佐須良比売となった加代子が、この大禊の刻に飛ばされたように、二度目は《一時的に時を渡る》権利を得る。
「私の場合、二度目は龍の珠姫の解けきった結びを結び直した時から、我らを秘密裏に呼ばれる少し前の天之御中主神の御前に飛ばされたのです。」
「主上が急に《時じくの香ぐの木》と《知智の木》をそなたに託したのは・・・・・・。」
「はい、龍の君と龍の珠姫をお救いなさるため。しかし、あの時点でその事ではなく、主上の御身に起こることをお伝え出来ていれば、また少し違ったのかもしれませんが・・・・・・。」
「主上の御身に起こること?」
「ええ、そうです。あの時点で高皇産霊神が反逆し、天之御中主神を捕らえるに来ることをお伝えできていれば、また違っていたでしょう。」
「な・・・・・・ッ?! では、主上が捕らえられているのは本当なのか? 気吹戸主神から伝えられて、相談をしにきたのだが。」
「ええ、本当です。そして、捕らえられた主上はずっと将来の世まで捕らえられたままとなります。気吹戸主神は孤軍奮闘するものの、今、一歩、届かない。」
神皇産霊神が「そんな馬鹿な。主上が本気になれば高皇産霊神など歯牙にも掛かるまい?」と言うものの、雅は首を横に降り「天之御中主神は龍の君と龍の珠姫を助けられなかった事に絶望なさったんですよ」と話す。
「この星に繋ぎ止めたものの、龍の君の産霊もほとんど焼き切られ解けてしまった。それゆえ、主上は高皇産霊神に従う事を受け入れ、私も天之御中主神の決意を受け入れた。」
再び、龍の君が産霊される次の世まで――。
天之御中主神は高皇産霊神に従い、国常立尊はそれまで心の太柱を維持する事を。
「我らは全てを打ち砕く神の再来に一縷の望みに賭けたんです。」
「それが気吹戸主神の言っていた《大己貴命》か?」
「いいえ、彼は気吹戸主神が解け、再び産霊された姿です。龍の珠姫に与えられた《伊吹》の名を残したまま、風の神として伊波の国に産霊されました。」
そして、国常立尊としても気吹戸主神としても記憶をなくし、他の兄弟神に虐げられながらも、忘れ得ぬただ一人を探していた。
「それが《須勢理毘売命》か。」
「ええ、その通りです。あの時の私は彼女を幸せにしたかった。そして、あと一歩というところでそうなるところだった。しかし、その手前で私は幽世に封じられ、今度は彼女が全てに絶望し眠りについてしまったわけです。」
神皇産霊神は時の流れに逆らい行ったり来たりしている国常立尊の話を聞きながら、ようやく気吹戸主神が、どれ程、速佐須良比売を心待ちにしていたのか、その理由を知った。
「それで、そなたが時じくの香ぐの木の実を食したのは何度目だ?」
「四度目です。私は意図せず速佐須良比売と同じ将来の世から来ました。時を渡る覚悟はしていたのですが、寝てる間に時を渡ったらしく、しばらく気がつかなかったのですから抜けてますよね?」
くすくすと笑いながら、穏やかに話す国常立尊の様子に、神皇産霊神は目を細める。
「二人して時じくの香ぐの木の実を食べたって事は、そなたのいた世でも何かが起こっていたのか?」
「ああ、やはり神皇産霊神。貴女は察しが良い方だ。」
雅はニコリとすると「私と速佐須良比売のいた世では、心の太柱が崩れそうなのです」と話す。
「そして、私は彼女だけ助けられればそれでいいと思っているのですが、彼女はそうは思って下さらない。」
大切に思う者たちが幸せであるように――。
その想いが全てをうち壊しても良いと思っている自分を何とか踏みとどまらせている。
「彼女だけ、って事は、将来の世の私は見捨てる気満々ってことかい? 随分と薄情になったものだね。」
「そうですね、自分でもそう思います。が、貴女は御自身で何とかなさいますでしょう?」
そう言って、ふふっと笑った時の国常立尊の雰囲気は、神皇産霊神の知るそれと同じで、神皇産霊神は目を細めた。
「ああ、見捨てられたところで、万が一の時はこっちはこっちで上手く逃げる方法を考えるさ。それで? 話は戻すが、知智の実を口にし全知となった国常立尊が、私にお願いって言うのはなんだい?」
「あとでもいいので、産霊して欲しい方がいるんですよ。」
この瑠璃色の神威溢れる地を護る神を――。




