否も諾も 欲しきまにまに
加代子のぐったりした様子を見兼ねた神皇産霊神に助けられ、地狐の背に乗せ直してもらったものの、「もう二度と狐の口に咥えられたくない」と思った。
口に咥えて運ばれると、酷く目が回るし、気持ち悪くなる。車酔いに似た気持ち悪さには勝てず、口を利いたら吐いてしまいそうで、加代子は途中で「天狐を助けて」とも言えずに青い顔色のまま方舟に戻った。
少し前から地狐の姿が見えていたのだろう。地狐が甲板に降り立つと、赤狐と野狐がバタバタと足音を立てて人の姿で近付いてくる。
「地狐、姫さん達はどうなった?」
《姫様はこちらにいらっしゃる。天狐は殿を務めてから戻ると言っていた。》
赤狐は「そうか、そうか」と頷き、地狐は間近で見た爆発の凄さを語り始める。野狐はそんな二匹を他所に神皇産霊神のエスコートをして地狐の背から下ろし、今度は加代子に手を伸ばしてくれていた。
「ご無事のご帰還、何よりです。天狐と飛び出して行かれたと聞きましたが、もう差し障りはございませんか?」
細いつり目の野狐は、物静かな性格らしく、だからといって口下手という訳でもない。
加代子が「天狐に連れ出してくれたから」と言えば、「それはようございました」と話す。
と、奥にある船楼の扉が開き、中から怖い顔をした気吹戸主神が現れた。
加代子がびくりとし、野狐も固まる。
不意に冷たい風が吹き抜ける。
赤狐は顔を引き攣らせながら「姫さんは無事だ、だからそう怖い顔するよ」と止めに入ってくれたが、気吹戸主神がじろりと睨むと何も言えなくなったらしく横を通るのを黙って通す。
《じ、時間がかかってごめんなさい・・・・・・。》
言い訳をする地狐の横も無言で通り抜け、肩を竦めた神皇産霊神の横も同じようにして通り抜けると、野狐はその場で跪き、気吹戸主神は加代子を見据えたままだ。
加代子は野狐の手を取ろうと伸ばした手をそのままにメデューサに睨まれて石化してしまったかのように固まる。
何か話さなくては、そう思うのに何の言葉も出てこない。
その気持ちを知ってか知らずか、気吹戸主神は急に間合いを詰めてくると、やや乱暴に加代子の腕を引き、地狐の背中から加代子を下ろすと自分の懐に引き寄せた。
「た、ただいま・・・・・・。」
加代子がぽつりと言うと、背中に回された腕に力が入り、無言のままにきつく抱き締め返される。
(い、痛い・・・・・・。)
そのあまりの力に息が詰まり、息苦しさと目眩を覚える。
神皇産霊神は加代子の苦しそうな表情を見ると呆れた様子で「気吹戸主神、その辺りにしておやり」と制した。
「せっかく高皇産霊神から助けてきたのに、今度は絞め殺してしまうつもりかい?」
その言葉にようやく気吹戸主神の腕の力が弱まる。
加代子は息ができるようになると、ぷはっと大きく息を吐いて、一気に新しい空気を吸い込んだ。
気吹戸主神を見上げれば、その表情は雅の心配げな表情と一緒で、しかも、自分が伊邪那美命の呪に喰われて消えそうになった時のそれと同じように辛そうな表情だったから、加代子は酷く申し訳ない事をしてしまった心地になった。
また彼に心配をかけてしまった。
そう自覚すると、会いたくない、帰りたいと思ってしまった自分が急に恥ずかしくなって、気吹戸主神の胸元に顔を埋める。
「ごめんなさい、心配掛けて・・・・・・。」
勝手に飛び出して、周りにいっぱい迷惑と心配をかけたのだと気付くと、情けないやら恥ずかしいやらで顔はあげられない。
いつの間にか神皇産霊神の隣りに並び立った瀬織津姫は「迷惑を掛けた認識があるなら、その分、働いて貰わねばならぬな?」と悪態を吐く。
「姉様ッ! 今は速佐須良比売が無事戻った事を喜びましょうよ?」
「速秋津比売はそう言うが、我らは文句を言うても良い権利があると思うのだが? 本来なら、明日の締切が、今日に前倒しになったのは速佐須良比売の為であろう?」
しかし、神皇産霊神は「何、こうなる予測はあったし、前倒しにさせたのは私だよ。むしろ遅かったくらいさ」と微笑む。
「それに私に迷惑を掛けてる度合いなら、現状、絶賛暴走中の国常立尊が一番だよ。」
神皇産霊神がそう言ってぼやくと、気吹戸主神は肩を竦めた。
「天狐は一人で逃げきれましょうか?」
すると、神皇産霊神は「ああ、そうだった」と、手鏡を取り出しながら、虹色に揺らめく手鏡に向かって「天狐」と呼び掛ける。
《神皇産霊神で、いらっしゃいますか・・・・・・?》
酷く疲れたような声色で天狐の応える声がする。
「そっちの状況はどうだい?」
《姫様から習った、護符とやらのおかげで、だいぶ持ち直したところです。そちらこそいかがですか?》
「安心おし、無事に逃げ仰せたさ。」
そう言いながら、神皇産霊神は瀬織津姫と速秋津比売に水球を作って欲しいと指示する。すると、二人の女神は罔象女神と同じようにして水球を作り出し、神皇産霊神はその中に持っていた放り込んだ。
途端に水球がゆらりと歪み滲んだと思えば、滲むように水が赤く染まり、血だらけの天狐が現れる。加代子は顔色を変えた。
「天狐ッ!」
《姫様はご無事のようですね・・・・・・。》
ほっとしたような様子の天狐とは対称的に、加代子は顔色を悪くする。そして、気吹戸主神の拘束から抜け出ると天狐の傍に駆け寄った。
「何があったの? 貴方がそんなに傷だらけなんて。」
《分かりませぬ。雲間から抜けたと思うたら、目の前に光が迫っていて、逃げきれぬと覚悟し、墜落もしたと思っていたのですが、気がついたら岩場の陰にいました。》
間違いなく即死の高さから落ちたのに、一命を取り留めただけ儲けものだと天狐が言えば、加代子は険しい表情をする。そして、天狐の傷に手を翳すと「ひ、ふ、み」と唱え始める。
しかし、それには神皇産霊神が止めに入った。
「助けたい気持ちは分かるがね、今は、呪も使うのは控えておくれ。高皇産霊神に気が付かれる。」
「でも・・・・・・。」
「大丈夫だよ、天狐を治療するくらいの時じくの香ぐの木の実は残っているからね。」
そう言って「どれ、傷の具合を見ようじゃないか」と加代子と場所を入れ替わる。
《く・・・・・・ッ。》
神皇産霊神は触診をしながら「さっきのと同じ攻撃を食らってこれなら、本当に運がいい」と天狐に笑って見せた。
◇
一方、同時刻。
高皇産霊神は心の太柱の上部、高木の宮で斥候として放っていた鷲の目から報告を受け、歯噛みをしていた。
「申し訳ございません。」
「良い。神皇産霊神が助けたのであろう。」
鷲の目はそれに対して「いえ、それがもうひとつ、他からも加勢がございました」と答える。
「他から?」
「直撃をしていれば、強化された防御壁を破れそうだったのですが、射抜く直前、横合いより紫色の雷電の玉が着弾。それにより威力が相殺された模様にございます。」
そして、深く頭を垂れたまま「配下の者が白い狐が一匹と、角の生えた化け物が、雲間に消えて落ちていくのを確認したと報告を受けております」と追加報告した。
「あの高さから落ちたのです。厚い雲と、瘴気の霧に阻まれて確認出来ませんでしたが、命は無いものと考えております。」
白い狐とは天狐だろう。もし仕留められたというのであれば重畳だが、死体を見るまでは判断しにくい。
また、角の生えた化け物と評される者は、恐らく魔縁の者であろう。諜報に来ていたのか、邪魔だてするように、国常立尊か、あの八つ頭の蛇達に命じられたのだろうと感じる。
「国常立尊め、まだ、邪魔だてするというか・・・・・・。」
禁軍を味方につけて天之御中主神を拘束し、龍の珠姫から神威を奪い、王太子である龍の君は神去りした。あとは同じように神去りした国常立尊を亡き者とすれば、高皇産霊神に反する者は居ないと思っていた。
しかし、神籬を立て、心の太柱を生み出し、天之御中主神に葉木国野神として承認させようと言う段階になって、天之御中主神は「既にこの一帯の星は国常立尊に一任している」と高皇産霊神の申し出を一蹴したのだ。
「国常立尊は神去りなどしておらぬ。彼の者は我が神使として、瑠璃の星に下ろしたまで。そして、その国常立尊の気配はまだ残っている。」
初めはそのような戯言をと思っていたが、文書省を調べさせてみれば、確かに神皇産霊神の承認付きで勅書が出ており、一通は天之御中主神が、もう一通は国常立尊が持っているだろう事が分かった。
しかも、この勅の破棄は天之御中主神の承認だけでなく、対等の権利を国常立尊が有しており双方の同意がいる。
それだけでもどれほど異例な勅であることか。
「彼奴の目には、我はさぞ滑稽に映っていたのだろうな・・・・・・。」
箱庭の星を手に入れようと天常立尊を焚き付け、龍の珠姫から神威をむしり取り、こちらは幾許くの罪に手を染めたというのに、国常立尊は先んじて合法的に強力な一手を打っているというのだから、苦々しい思いになる。
「龍の君に叛意あり」として天之麻迦古弓を打ち込んだものの、天之御中主神が解放され、あの勅書が表沙汰になれば、逆賊扱いされるのは自分になるのは明らかだ。
「念の為、白い大狐を探せ。弱っているようであれば止めを刺して構わぬ。」
厚い雲に覆われて、厳しい事は分かっていたが、念の為、鷲の目に命じて、玉座に身を沈める。
(国常立尊、か・・・・・・。)
高皇産霊神にとって天乃日宮にいた頃は、国常立尊の印象はそう悪いものではなかった。
天常立尊の傍にあり、思慮深く、兄を立てる事を良しとし、直接的に意見することはなかったが、ここぞと言う時は的確な助言をしていた国常立尊。
人当たりも悪くなく、傍に置くのであれば、ああいう者がよいと好ましく思っていた時も確かにあった。
(《神去り》ではなく《勅使として派遣》とは・・・・・・。)
国常立尊の裏切りは、龍の君や龍の珠姫を匿った点からも明らかだったが、それが「神去り」を願い出た頃からだったのだと知ると、腸が煮えくり返る思いと共に、酷く空虚な心地になった。
殊勝な面持ちで兄の天常立尊の立場を悪くした事を詫び「これよりはこの大宮より神去りし、己が星に蟄居致したく存じます」と申し出た頃には、天之御中主神と約定を交わし、万が一の時には龍の君を助ける事を決めていたのだろう。
(彼奴だけは仕留めねばならぬ・・・・・・。)
自分をコケにした国常立尊をただ殺すだけなど気が収まらない。
その前に徹底的に苦しみ抜いて、絶望させ、自分に付かなかった事を後悔させた上で、殺してくれよう。
そうして高皇産霊神が考えを巡らすと、禍々しい気が立ち上り、ゆらりと揺れて、高皇産霊神とそっくりの姿を象った。
《ようやく外に出られた。》
「禍津日神か。何をしに出てきた?」
高皇産霊神が冷たく言い放つと、禍津日神は「いや、面白い道化がいると思うてな」とニヤニヤと嗤う。
「我を嗤いに来たというのか。」
《そう怒るなよ。こっちは神皇産霊神に消されかけたというのに。》
いつの頃からだろう。神皇産霊神を妬む心からか、高皇産霊神はこうして幻覚を見るようになった。
初めはこの得体のしれないものを祓おうとしたのだが、それが「全部壊しちゃえばいいんじゃないか? 俺は味方するよ?」と口を開いた瞬間、高皇産霊神は操られるようにして禍津日神を産霊していた。
《国常立尊も、こちら側の者と思っていたんだがなあ。》
はじめ、高皇産霊神も、自分が神皇産霊神を屈服させたいように、国常立尊も天常立尊を屈服させたいのだろうと思っていた。
それに国常立尊の神去り以降、「新たな神を」「箱庭の星を」と繰り返すばかりの能無しに成り下がった天常立尊を片付けたくて、禍津日神に提案された星の礫を作る機械を認めたのだ。
ああ、そうだ――。
はじめはその合理性から龍の珠姫から神威を剥ぎ取り、天常立尊を薬液に沈めたというのに。
《なあ、高皇産霊神よ。国常立尊の件をもう一度、俺に任せてみないか?》
「お主にか?」
《ああ、俺はもう一度、国常立尊の取り乱した顔を見てみたい。》
今の禍津日神の脳裏には、澄ました表情の国常立尊ではなく、天常立尊の様子に取り乱し「兄者」と縋り付く様や、龍の珠姫を護らんと怒りに震えていた姿が焼き付いている。
《あの男は実に良い。胸の内に常に絶望を抱えている。だが、この姿では嫌われているから・・・・・・。》
そう言うと再び姿を霧状にし、在りし日の龍の珠姫の姿に形を変えた。
ギョッとしたような表情で高皇産霊神が固まっていると、禍津日神は流麗に笑みを零す。
《お前がその神宝を持っていさえすれば、この身は再生する。》
「禍津日神、何を考えている。」
《何、好いた娘に命を狙われるなど、男冥利に尽きる話だろう?》
そして、禍津日神は「きっと首級を取ってこよう」と姿を眩ませる。
高皇産霊神は異様な疲れに襲われて、しばらく椅子から立ち上がれなかった。




