架の話
一二月
あれから一か月くらい経った。
架は目に見えて衰弱していった。
医者からはあと一カ月だと言われた。僕らはそれを信じたくない、信じないと言って発狂したり、遠くまで出向いて凄腕の医者を探すことはしなかった。ただ静かに、架とくだらない話をすることをやめなかった。
架も僕たちも分かっていた。
ただ、僕らは架と違って臆病で馬鹿でしょうがなかったから。ほぼ毎日病院に通った。
架のお母さんとも何度かあった。架のお母さんはここで働く看護師さんだった。架のお母さんは、静かに、いたって静かに架を送ろうと、いつでも静かに笑っていた。
十日が過ぎた時、架はなおも弱り続け、僕らが病室に出向いた時に苦しそうな顔をして寝ていることも多かった。体につながれた点滴が、架の残りの命を暗示しているようで怖かった。
それでも不思議と僕たちも架もヘラヘラとしていられた。ほかの看護師さんたちからは評判の悪い三人組だったけど、架が喜んでくれているからそれでいいと、何時間もくだらない話をした。
十日が過ぎた時不意に架が普段口にしないことを言った
「俺、もうすぐ死ぬからさ」
僕たちは黙ったけど、気持ちの沈む沈黙じゃなかった。架の言葉を耳の端から聞き逃すまいと、架の言葉の一音一音に耳を傾けていた。
「泣くのは構わないけど…いやむしろちょっとくらい泣いてほしいけどさ。俺のこと忘れないでね。たぶん俺、生まれ変わっても君たちのこと忘れられないと思うんだ。」
架は真剣な表情だった。伝えたいことは確かにあったのだけど、何をどう伝えるべきかがわからない。
「死ぬのが怖くない?」
僕はベットのすぐ近くにいたけど、できるだけ架に顔を近づけてしゃべった。
聞きとれるとは思ったけど、架の笑顔が近くで見たかった。
「全然怖くないよ。」
架は笑った。声は震えてなかったし、涙だって出てなかった。僕たちは、涙や悲しさの代わりに、ある決意が込み上げてきた。
「忘れないよ。」
僕は架から少しだけ、顔を離した。泣きそうだった。泣きたくなかった。
それだけ伝えるのに精いっぱいで、架の顔が見れなかった。こんなこと初めてだって言ったら、架は困ったように笑った。その顔が忘れられなくてしょうがなかったけど、もうすぐ死ぬ架を前にするとその表情の一つ一つを忘れたくないとも思った。
架は生きていることに疲れたような顔をしていた。
架はそれから二カ月間生きた。
二ヶ月間、架は、まるで電車が来るのを待つみたいに、自分の死を待っていた。
それはそれは安らかに、焦らず、待っていた。
その間僕たちは涙を流さなかった。架が死んだことを伝えられ、病院に着いたときに、少しだけ泣いた。
除々に衰弱していった架は、ベッドの上で本を持ったまま逝ったそうだ。眠るように。
その時僕から流れた涙は、コップからジュースが零れるような涙だった。その涙は、ほんの少しの感情と、大半を占めるただの体液だ。
架に電車が来てしまった。走ればまだ引き留められたかもしれないのに…なんて、思ったのは僕だけだろうか。
安らか過ぎるほど安らかに眠る架を前に、僕たちは一人ずつ、凛子もかすれた声でいった。
「お疲れ様。また会おうね、架。」
あまりにも架の心が強かったから、不思議とそんな言葉が出てきた。
架は、僕たちの心に出来るだけ悲しみを残さないようにして、逝った。
電車を待つみたいに死を待つその姿は、まぎれもなく強い人間である証だと思った。架の強さが僕たちに残る悲しみを削った。僕たちはそれをわかっていた。
あれから僕たちは、病院に一時間ほど残って、これからを考えた。
時折凛子からかすれた嗚咽が漏れたけど、僕は静かな涙しか出てこなかった。それは秋も同じで、僕にはその隣にまだ架がいるような気がしてならなかった。
僕は心の中でもう一度だけ、つぶやいた。
「架。ありがとう。お疲れ様。」
僕は帰ってから涙を流した。その涙に何か深い意味があったかと言われると、なんとも答えようがない。そんな涙だった。
架が死んで十日後、僕たちは、僕の部屋に集まり、輪になって話し合っていた。
架が逝く準備をしていた二カ月間では、僕たちはどうしても架のいない虚無感とか、単純な悲しさ埋め合わせを用意することができなかった。
それに架があまりにも元気でいたから、本当はあと何年間か、まだ生きるんじゃないかと心の何処かで期待もしていた。
僕らは自分たちの家や、架のお母さんに入れてもらった架の殺風景な部屋で、架が死ぬ前に残したものをかき集めた。
それらは全部、僕らにとっては架の魂そのものだった。
僕たちは三日かけてとりあえずいろんなものを集めた。遊園地に行ったときのチケットとか、傷の付いていない青い腕時計とか、架が好きだった本とか。周りの人からしたら馬鹿らしかったかもしれないけど、僕らにとっては大事なことだった。
僕らはそれを、一つ一つ思い出を語りながら箱に入れた。秋と凛子が持ってきた古いおもちゃ箱だ。
僕らはその箱にまだ蓋をせず、僕の部屋の片隅に保管した。僕はそれを見るのが何となくつらくて、いつも机にかぶせてある布を取り去って、その箱を覆った。心は少し軽くなったけど、机は落書きのあとや傷が見えるようになって、少し寂しくなった。
僕は、三人で場所を決めた場所に一人で行った。
その日、僕は秋とも凛子とも会ってなくて、学校では顔色が悪いと喋ったこともない女の子に指摘された。確かにその日は気分がすぐれなくて、早退することも考えたけど、何となく人ごみの中に居たくて結局最後まで学校にいた。
その場所は、人通りが少なくて、木に隠れていたから昼間でも少し薄暗かった。
浅い穴があいていて、その穴の半周くらいを凛子が埋めた花が覆っていた。もう半周花を植えるのは、いつなんだろうと何となく考えた。
ここよりもっと遠くにある本当の架の墓には、なかなか行けそうもないから、僕たちはここに架の墓を造ろうと思った。
僕たち子供には死んだあとに残った骨の価値なんてよくわからなくて、その墓の価値もよくわからなかった。
僕は黒い腕時計をつけていた。右手に。
まだ何も埋まっていないその穴を見て、無性にあの病室に戻りたくなってしまった。
架にとってはすべてが大切な日々だった。僕にとってもかけがえのない大切な日々だった。
僕があの病室にいない時でも、いる時でも、寝ている時でも。僕は架のいるあの病室に行って、くだらない話がしたかった。
まだ架がいたあの時に戻りたかった。秋と凛子の後ろ姿をみて、クスクスと笑う架の隣で、まだ笑っていたかった。
宇宙が好きな架と、また冗談交じりに宇宙の話をしたかった。「いつかこの星は僕のものになる」なんておどけて言ったあの時を、もう一回やり直したい。
僕は近くの石に腰掛けて、目元を押さえた。涙があふれてしょうがなかった。
架が死んですぐは、悲しみはあまり残ってなかったけど、今更僕のもとに戻ってきた気がした。
十分ほどたって、落ち着いた時に僕は家に帰った。秋とも凛子とも会わなかった。
慰めてほしいわけではなかったけど、あの二人に会いたかった。くだらない話がしたかった。
僕は震えていた。自分のものじゃないみたいに震える指先を見て、また震えていた。




