第七話 アメノミナカヌシの慈悲と罪
――その話は、神々ですら知るものは少ない。
天も地もまだ分かれてなく、光も闇も名を持たなかった頃。
最初に在ったのは、ただ一柱の神……。
それが、アメノミナカヌシ。
始まりの神、この世を創世した神である。
そして、誰も知らぬ最初の罪を犯した神でもあった。
後の世で語られる神話には、その罪は記されていない。
いや、正確には語られることを許されなかったから、神話には残っていないのだ。
その罪はこの世そのものの根幹を揺るがすものだったから。
世には理がある。
それを違えれば、存在さえ許されない。
だから、命を持つものはその責を担う。
命を失えば、これを戻すことはできない。
だからこそ命は儚く、命は尊い。
もし死者を自由に蘇らせることができるなら、生も死も意味を失うだろう。
それが理と言うものであるのだから。
この世は、その均衡の上に成り立っていた。
アメノミナカヌシはその理を定めた神であった。
そして同時に、その理を破った神でもあった。
はるか古の時代。
アメノミナカヌシは次々に神を生み出した。
そしてその神々に分け御霊を与え創世を見守った。
そして、一組の夫婦神、イザナギとイザナミがいた。
アメノミナカヌシはアメノヌボコという矛を授け、国を作るように命じ、彼らを温かく見守っていた。
それが国産み。
そして次に神を増やすことを命じた。森羅万象の神々を産む。
これが神産み。
二柱は深く愛し合っていた。
全ては順調に育んでいると見えた。
しかし、その夫婦にも終焉を迎える時が来る。
イザナミは火の神を生んだことで、その身を焼き尽くし、命を落としてしまった。
イザナミは黄泉の国へ堕ちてしまった。
イザナギは泣いた。嘆いた。
自分の片羽を失ったのだ。
永遠に自分の傍らにいると信じて愛し合い、
共に国を生み、命を紡いだ伴。
そんなつれあいを失ってしまったのだ。
喪失感は他の神も味わったことのない絶望だった。
あまりの悲しみにイザナギは、自分の子、妻の子であるはずの我が子をこの手にかけた。
世界を生んだ神の所業とは思えぬ。
ただ一人の妻を失った男として、妻の死の原因である我が子を殺すほどに憎まずにはいられなかった。
イザナギが悲しみに打ちひしがれていたその頃、イザナミは黄泉の国へと旅立った。
黄泉の国の神の遣いに案内され、三途の川を渡り、黄泉の国に足を踏み入れた。
そこで待っていた黄泉の国の神とは、アメノミナカヌシの分身、あるいはそのものでもあった。
「私の分け御霊であり愛し子のイザナミよ。
さぞかし苦しかったろう。火に焼かれてさぞかし痛かったであろう。
さあ、これをお食べ。
そなたの魂と肉体は分けはなたれ、苦しみから救われる。
魂は時を経て新たな命に蘇ることを約束しよう。」
出産時に焼かれた肉体が少しでも楽になるならばと、イザナミは黄泉の国の食べ物を食べた。
その瞬間、魂が肉体から離れたのを感じた。
ああ、ようやくこの苦しみから解き放たれる。
生まれ変われば、また愛しのイザナギに会えるかも知れない。
イザナミの魂は黄泉の国を受け入れた。
黄泉の国もまたイザナミの魂を癒すように受け入れた。
その時だった。
うつつよと黄泉を隔てる壁がかすかに揺らいだ。
「イザナミよ。愛おしいイザナミよ。イザナミを返してほしい。」
イザナギの声だった。
あまりの愛の深さに、その声は黄泉の国まで届いたのだった。
その声を聞いたイザナミは、必死で声を返した。
「ああ、愛おしいイザナギよ。
私は、黄泉の国で作った食べ物を食べてしまいました。
もう帰れません。
でも、神は時を経て新たな肉体でよみがえらせると約束してくださいました。
それまで、待ってはいただけないのですか。」
「それでは、本当に其方であるのかわからぬではないか。
私は、今のイザナミ以外を愛する気はない。」
「私の肉体は酷い火傷を負い、元のままではありません。
それでも貴方はそんな私を愛するというのですか?」
「ああ、もちろんだ。イザナミよ、還ってきておくれ。」
頑なに、生まれ変わりを拒否して、このまま還ってきてほしいと食い下がるイザナギにイザナミはとうとう根負けしてしまった。
「わかりました。私の一存では決めかねるので、黄泉の国の神に相談してみます。」
イザナミはアメノミナカヌシに相談を持ち掛けた。
「ならぬ!何のための理だ!」
一蹴された。当然である。
それでも愛するイザナギのためにと、イザナミは必死の思いで再度お願いしてみた。
「夫が、イザナギが望んでいるのです。
アメノミナカヌシ様も未来永劫添い遂げるようにとおっしゃったではありませんか。
私もイザナギの元へ還りとうございます。」
夫を愛する気持ちに絆されたアメノミナカヌシは、イザナミの願いを叶えることにした。理に逆らうのを承知の上で。
方法がないわけではない。しかし、それは世の理を捻じ曲げることにほかならない。
それでも、アメノミナカヌシはこの純粋な夫婦神を手助けしたくなった。
「よかろう。どうしてもというならば其方の願いを叶えよう。
しかし、それでは其方はとてつもなく大きな代償を払うことになってしまう。
其方の肉体は既に朽ちて完全に元の姿には戻れぬ。
焼き崩れたところもどうすることもできぬ。
当時以上の痛みと苦しみがそれ以上の時間をかけて其方を襲う。
それでも戻すと申すか。」
あまりの剣幕に、恐れをなし、イザナギへもう一度思い直すよう頼む。
「ああ、それでは、私は永遠にイザナミを失ってしまうのか。」
男泣きに心を打たれ、イザナミは決心した。
私はこの夫とこの先も一緒に居よう。
イザナミは再生を希望し、痛く辛い道を選んだ。
そしていよいよイザナミの体を再生する時が来た。
「私は再生することにしました。
しかし、元の姿に戻れるとは思わないでください。火傷の痕はひどく、もう夫婦生活はできないとのことです。
また、再生するまでは、とても見れた姿ではありません。身体は原型を留めていないでしょう。
それに、とても苦しいとのこと。
そんな形相の私を見たら、貴方はきっと私に幻滅するでしょう。
約束です。
私が出てくるまで、決して私を見ないでください。」
「わかった。約束しよう。其方が出てくるのを待つとしよう。」
イザナミは、再生に入った。
苦しかった。火傷の痛みはともかく、朽ちた肉体からは腐臭がし、崩れた肉片は蛆にまみれた。
美しい創世の女神でもあり、国の全ての母としてあがめられ、尊敬されていたイザナミにとって、耐え難い苦しさであった。
イザナギのため、と思わなければ何度も心が折れていただろう。
永遠に続くと思うほどの苦難を耐えていた。
だが、イザナギは待てなかった。
待ちきれなくなったイザナギは、ちょっとくらいいいだろう、とイザナミがこもった祠を覗いた。
もし、見つかったら、ちょっと間違っただけど笑って誤魔化せばいいだろう。
イザナミの姿を探した。
しかし、ここで見たのは、自分が予想していたイザナミの姿でなく、腐敗したうごめく『物体』であった。
「うわぁっー!来るな!化け物!」
イザナギは恐ろしさのあまり一目散にこの場を逃げ出した。
そのおぞましい化け物。それは・・・変わり果てたイザナミの今の姿だった。
イザナミは悲しかった。
決して見られてたくない姿を見られてしまったことに落胆した。
自分は何のために、誰のためにこの苦しみを引き受けたのか。
答えが無くなってしまった喪失感は、愛を悲しみに変えるのに一瞬でじゅうぶんであった。
そしてイザナギに会って抱きしめてもらえるという期待感はそのまま憎しみへと、そして虚傷へと変わった。
イザナミの体に巣くっていた蛆はヨモツシコメとなりイザナギを追いかけた。
体にいた八柱の雷神たちもその後を追った。
世をまたぐ異例の逃亡劇に世界は揺らいだ。何もかもを飲み込む災厄と化した。




