第22話 オーロラとミラ
それは次の日の夜のことだった。
ミラは、入浴を済ませ、何か飲もうとラウンジの扉を開けた。
チョコレートを、口いっぱいに頬張っているオーロラと目が合う。前髪越しだけれど。
いつも以上に薄ピンクの髪をふわふわさせた彼女は、さながら猫に見つかった鼠のように出ていこうとした。
「あ、待って! お願い」
動きが止まる。
「あの、私今からホットミルクを入れようと思っているの。良かったら、オーロラもどうかなって。チョコに合うよ。あの……その、昨日、助けてくれたお礼に」
ミルク、と小さな声が聴こえた。
振り向いてこちらに来る彼女の足取りは、雨の日の蛙のようにうきうきと弾んでいた。
結構分かりやすい子なのかもしれない。
なぜかオーロラの周りには、小魔法動物が見えるような気がしてしまう。
「どうぞ」
食器棚には、寮生それぞれの私物が置かれている。 誰がどのカップかは一目瞭然だ。
ビーナスベルトのように綺麗な彼女のカップを、ことんと側に置いた。
二度くんくんと匂いを嗅ぐと、一気にカップを傾けた。熱かったのか、小さく跳ねてふうふうと息を吹きかける。
それでも熱かったのか、オーロラは自分の杖を取り出してカップへ向けた。
呪文が小さすぎて聞き取れなかったが、きっと風の魔法で冷ましたのだ。
こくこくと、美味しそうに飲む様子にほっとして、ミラは自分の分にも口を付けた。
よく家で作っていた飲み物だった。あの頃は、自分にしか作ったことがなかったから、誰かに飲んでもらうのは、これが初めてだった。
美味しいとはまだ言われてはいないが、どこか優しい気持ちになった。
「ん」
オーロラが、チョコレートの入った箱を差し出してきた。食べろということだろうか。
「いいの?」
そう聞くと、今度は無言で箱をミラの方へ突き出した。
「ありがとう」
種類がありそうなものを選んで、口に放り込んだ。
しつこくない甘さで、中に、クリームが入っている。目が覚めていくようなお菓子だった。チョコレートだって、ミラはあまり口にしたことがない貴重な食べ物だ。
呼吸をするように「美味しい」と声が漏れる。
椅子に三角座りをしたままオーロラは、この間のトゥーリのように、ずずっと音を立てて、もう一口飲んだ。
「あのさ」
「お節介だとは思うんだけど……うーん……じゃあ、今から話すことは独り言ってことで」
両手で包むようにして持ったカップが、指先を温めていく。春とはいえ、夜はまだ少し冷える。
「ルミとオーロラ、幼馴染っていうことは聞いたの。昔は仲が良かったって……。何があったのか、私にはわからない。ルミも話したくなさそうだし……。でもね、ルミ、あなたの話をするとき、とても優しい顔になるの。あと、どこか寂しそう……私はね、ルミがとても大切。初めてできた友だちだもの。だからね……だから、あんな顔をさせたくないなって……オーロラ、もちろんあなたにも」
話していくうちに、何が言いたいのかよく分からなくなってしまう。言いたいことが上手くまとまらない。
ミラはただ、二人が寂しい顔をするのがとても嫌なのだ。
「おしゃべりが……苦手」
声は相変わらずダルそうなのに、意思のある声だった。一瞬、右の眼だけ見えた気がした。
「話しかけられたとして……その返事をするのに、どうしても時間がかかってしまう……。一旦頭で考えているの。ぐるぐるぐるぐる渦潮みたい……。ルミは……頭が良い、から、私の考えていることをよく当ててくれていた。一緒にいるのが、昔は楽しかった……」
だけど、とオーロラは続ける。
「わたしに、小さな子どもみたいな嫌がらせをしてくる子が結構いて……わたしはもうどうでも良かったんだけど、それを知ったルミが……ルミがわたしを庇った」
うん、と優しく頷く。
またしばらく沈黙した後、ゆっくりと話し出した。
記憶を探っているわけではない、オーロラははっきりと覚えているようだった。
「その日は雨が降った次の日で……辺りは水溜りだらけだった……わたしは、泥の中にいた……誰だったかなんて覚えていない『とろい』『なまけもの』って声が聴こえて……全身冷たくて気持ちが悪かった」
ミラにまで、その悲しさが伝わってくるようだった。心臓の音が速くなる。
「起き上がろうとした時。もう一度わたしを突き飛ばそうとする汚い手が見えた……そしたら、その瞬間、空が見えた……今まで見たことがないくらい綺麗な空。でも、それはルミだった。ルミがその子たちに体当たりしていた」
「魔法を使わなかったの……ルミは。一人で戦ってくれた。あの子は正しい子だから……。気が付いたら、周りの子はいなくなっていて、泥まみれのルミが、いつものように綺麗に笑って立っていた。『帰ろう』って」
そこで、オーロラはすっかり黙ってしまった。
ミルクが段々と冷めていく。
「……でも、それなら、どうして」
「助けなきゃ良かったの……」
また一段と声が小さくなる。
「わたしなんか、助けなきゃ良かったの。ルミの家はとても厳しくて……わたしも何度も叱られたことがある。誇り高い一族。……あの日、ルミはいつも以上に綺麗な洋服を着ていた。きっと、家の用事に行く途中だったんだ……。何も言わないけれど、たくさん怒られたと思う。ひどいこと、たくさん言われたと思う」
ことりとカップを机に置く。
「あの子とわたしは、生きる世界が違う」
「わたしなんか、助けなきゃ良かったんだ。わたしなんか嫌われて当然だもの」
悲鳴のような言葉だった。
「……だから関わらないようにしたの?」
無言は肯定だった。
「オーロラは優しいんだね」
そして続ける。
「……ルミはきっと分かっていると思うよ。あなたが離れていったこと。分かっていて何も言わなかった。でも、親に怒られることより、オーロラと話せなくなることの方が淋しくて辛いことだと思う。それに……」
「オーロラ、あなたはルミに『苦手』と言ったけれど、決して『嫌い』とは言わなかった。ルミもそう。あなたのこと、絶対に悪く言わない……きっと気持ちは同じなんじゃないかな」
オーロラが顔を上げた。
ぽろりと滴がテーブルに落ちていくのを、ミラは黙って見ていた。
自分だけに聴こえる声で呪文を唱える。
ふわふわの光が、ちょこんとミラの手の上に現れる。
「ごめんね。せっかく温かいものを飲んだのに、冷えたでしょ? この子、私の魔法、ユスって言うの。とてもぽかぽかして温かいから、今日はこの子と眠ってくれる?」
ユスがすぐ、オーロラの周りを心配そうに浮遊する。おそるおそるオーロラは、手のひらを向けた。指先を擽るようにユスが擦り寄った。
ふふっと照れ笑いのような声が、僅かに耳に届いた。
「言い忘れていたんだけど、オーロラ、あなたの魔法ってとても綺麗だね」
こちらを見ないまま、オーロラは答えた。
「長い独り言だったね、お互い」
それはとても、とても柔らかい声音だった。
部屋に戻る途中、廊下でトゥーリと会った。いつもより香りが濃い。彼女もお風呂上がりのようだ。
「難儀だ」
見ていたのだろうか、いやそんなはずはない。扉は閉まっていた。
「そうかな?」
「ま、良かったんじゃない?」
トゥーリが、肩にかけていたタオルをミラの方へ投げた。
「風邪引く。あなたも冷えてる」
ひらひらと手を振った彼女は、風のような速さで部屋へ入っていった。
残されたミラは、パステルイエローのタオルをぎゅっと握り締めた。
レモンの香りはもう何処からもしない。
代わりに、チョコの甘さだけは、まだ口の中に残っていた。