第100話 事件のあった日
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「そして、あの事件が起きたの」
誰も口を挟まなかった。いや、挟めなかった。
静かな闇に、フローラの声だけが響いている。
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二年の時が過ぎた。
「やった……分かったわ、ついに……」
ファウナの研究施設で長い時間作業を続けていたフローラは、思わず独り言を漏らした。
命を吹き込む魔法で本から外に出した生き物を、フローラたちの生きている世界に定着させる方法。
それが今、はっきりと分かったのだ。
「魔法を解除せずに、十四年間この世界で生きれば……」
一言一句漏らさずに記録していく。
「つまり……ミラは十六歳になるまで、この世界で暮らすことができたら、本の中に戻らなくて済む……」
考えをまとめるように、ゆっくりと口にする。
そうしていると、段々実感が沸いてきて、フローラは両手を挙げた。
「ファウナにも教えなきゃ。何だかんだ、あの人もミラのこと大好きなの、私知っているんだから」
ふふっと笑う。久しぶりに、表情筋を使った気がした。ずっと研究をしていたから、肩も背中も、身体の至る所が痛い。
ハーブティーでも飲もうと、席を立つ。
ふわり、カードが窓から飛んできて、フローラの手の中に着地した。
ファウナが、連絡がある際によく使う魔法だった。
『ポリマの時計塔、その裏にある広場に来て。あの本も持ってきてね。 ファウナ』
時計塔は有名だから分かるが、その裏に広場なんてあったかしら、とフローラは思った。
上下巻の本を抱え、ミラのことも伝えられる、と弾む足取りで研究施設を出る。
箒ですぐのはずだ。
指定された広場は、もうあまり使われていないのか、人一人いない、静かな場所だった。
ポリマは、人口がだいぶ減ってきている街だ。
誰も使わなくなって寂れていく公園や建物などは、街の至る所にある。
ファウナは、空を見ていた。
「お待たせっファウナ。本を持ってきたわよ」
フローラの方を振り向く。
いつもの優しい表情だった。
「ありがとう。早かったのね」
「なんだか、雨が降りそうね。空が暗くなってきている」
ファウナが仰いでいた空を見ると、どんよりと曇っていて今にも雨が落ちてきそうだった。
「そうね。でも私、曇りが好きなの……」
お天気が大好きなフローラにはあまりよく分からなかったけれど、ファウナの好きなものは、自分も好きになりたいと思った。
「それで、今日は何をするの?」
「ええ、今日はその、スケッチがしたくて」
「スケッチ?」
ファウナが、荷物から画材を取り出した。
「その本から、できるだけたくさんの魔法動物を出して欲しい。私、自分が創造した魔法動物たちを間近で見て、絵を描いてみたかったのよ。貴女、等身大で出せるでしょう?」
「もちろん。私もファウナの絵を見てみたいわ。かなり魔力を消費しちゃうけど、全部の魔法動物を出してみるわね。そうだなあ、下巻の方が数が多いから、そっちにするわ」
「ありがとう」
そう言ったファウナの目は、もう笑ってはいなかった。
疲れているのかな、とフローラは思う。
それから、杖を取り出した。
「レイクバ」
『ある女の子の物語』下巻の本、その本には今、少女の姿が無い。
オレンジの光を放ち、ページが捲られていく。
狼や獅子、鷲に鷹、人の何倍もの大きさの、不思議な姿をした魔法動物たちが本から飛び出してくる。
炎を身に纏っている子や、植物を自在に操る子、その不思議な魔力を宿す生態にフローラは魅力を感じ、深い興味を抱いたのだ。
フローラは、魔法動物と心を通わせることができる。
魔法で本から出した子に限らず、あらゆる魔法動物と仲良くなることができた。
もちろん、初めは警戒されることもあったし、大けがをしそうになったこともある。
それでもフローラは諦めきれなかった。
命を吹き込む魔法、を使えるようになってから、より一層、魔法動物を大切に思う気持ちが大きく膨らんでいった。
今まさに、本の中の魔法動物を出しているフローラは、これからのことを考えていた。
ミラともずっと一緒にいられる。ミラが十六歳になったら、二人で旅に出るのも良い。
様々な魔法動物を知って、触れ合って、ミラにもあの子たちのことを好きになって欲しい。
下巻から全ての魔法動物を出すと、フローラは少しよろけた。さすがに、魔法を使い過ぎたらしい。
暑くはないが汗をかいていた。
杖をマントのポケットに入れる。
広場を埋め尽くすほどに、たくさんの魔法動物が楽しそうな様子で、そこに居た。
彼らがフローラたちを襲うことは決して無い。
「お疲れ様。ちょっと休んでいると良いわ。ほら、貴女の好きなハーブティーを持ってきたのよ」
取り出したのは、タンブラーだった。
「マントも預かっておくわ。汗が冷えて風邪を引くから」
ありがとう、とマントを渡す。
ハーブティーを一口飲んだ。
急激な眠気。フローラの手からタンブラーが落ちる。
立っていられなくなって、その場に倒れ込む。
「……ファ……ウナ」
「ありがとう、フローラ。さよなら」
フローラを見る目は虚ろだった。
力を振り絞り、本を二冊とも掴んだ。箒に飛び乗る。
最後に見たファウナの顔は、泣いているようにも見えた。