June Story9
父と息子の間にある、深い確執───。
矢橋亮助は車に鍵を掛け、自宅の2階を見上げた。
一番左の部屋のカーテンは開いたままで、室内に電気は点いていないようだった。
(帰ってないのか?)
亮助は腕時計で時間を確認する。
時刻は午後7時になったばかりで、亮助にとってはここ数日の中で残業が少なく済んだ日であった。
ドアを開けると、家の中は真っ暗であることが分かった。
手探りでスイッチを探し、玄関の明かりを点ける。
三和土には白いスニーカーが、無造作に脱ぎ捨ててあった。
亮助はそれを揃えて置きなおし、自分の靴を脱いで廊下に上がる。
リビングに入ると、窓があるお陰で玄関ほどは暗くなく、明かりを点けなくとも歩けるくらいの明るさはあった。
鞄を床に置き、台所へと向かう。
そして、亮助は小さく息を吐いた。
「……食べてない」
呟く声が静まり返った室内に響く。
作り置きしておいた料理の皿が、シンクに包装をかけた状態のまま、置いてあった。
スーツの上着を脱ぎ、亮助は2階へと上がった。
階段を上がって、正面に見える、2階の奥の部屋のドアは閉まっていた。
亮助はドアの前に立ち、
「開けるぞ」
と、声を掛けてからドアを開けた。
中に入って、声を掛ける必要は無かったことが分かった。
時計の針が動く音と、微かな息遣い───亮助の耳に、その2つが響く。
部屋の左端にある勉強机を見て、亮助は答が返ってこないと知りながら、
「……疲れてるのか?」
と、問いかける。
やはり、答はなく、亮助は机にうつ伏せで眠っている勇人に近づいた。
勇人は制服のままで、亮助の目線から、項がはっきりと見える。
少しだけ、シャツの襟を捲ると、勇人の首と右肩の境目に、円形に窪んだ痛々しい傷跡があり、亮助はそれを見て、いつも同じことを考える。
この傷跡を消す方法はないのだろうか───と。
亮助は足元にあるクリアケースの蓋を開けた。
透明なビニール袋を取り出し、中に入っているものの内の、1つを取り出す。
注射器に似た形状をした、黒い色をした容器にプランジャーが付いている器具。
実際の注射器よりも太く、針は内部に入っているのだが、聞いたところによると、これは自作品らしい。亮助の前妻の妹───河井すみれから貰っているものだった。
すみれはこの器具について、亮助にこう説明した。
名称は˝NTI˝。中には能力によって調合された、栄誉補給剤が入っている。刺した際の痛みはほとんど発生しない。先端の黒いゴム部分と容器の境目には円形のダイヤルがあり、それを回すと針が押し出されてくる。ただ、簡単に使用するには刺す前に針を出すのではなく、先端を皮膚にあて、それから針を出した方が良い。
(それから)
亮助は窓に向けって歩き、カーテンに手を掛けた。
(……針を刺すのは皮膚が薄くなっている部分がより適している)
カーテンを閉めると、室内はより暗くなり、亮助は机の上にある間接照明を点けた。
そして、そっと勇人の肩に手を触れる。
傷跡に˝NTI˝の先端を垂直に当てる。
ダイヤルを回すと、「カチカチ……」と音を立て、針が勇人の肩を貫通していくのが亮助の手にも伝わって来た。
ダイヤルがこれ以上回らないことを確認すると、亮助はゆっくりとプランジャーを押した。
容器に入った液体が流れていく音がし、段々とブランジャーが固くなって行く。
亮助はそうして、全て押し切ると、今度は引いて元の状態に戻し、弱い力で慎重に針を抜いた。
使い終わった˝NTI˝をクリアケースの中にある黒いビニール袋の中に入れ、ケースの蓋を閉める。
一連の流れの中、勇人は何も目に付くような反応を示さなかったが、部屋に入って来た時と比べて、息遣いに僅かに変化があることに亮助は気が付いていた。
「……そのまま寝ないようにな」
亮助は勇人のシャツの襟を戻しながら言った、
そして───勇人の髪に手を触れようとして、直前で躊躇い、手を下ろす。
言葉で言い表すことができない感情に支配され、亮助はそれを拭いきれぬまま、体をドアの方に向けた。
そうして、そっとドアを開け、一度振り返り、
「……飯、下にあるからな」
そう言い残して部屋を出た。
ドアをそっと閉めて人知れず息を吐きだす。
勇人に対してではない。自分自身に───落胆したのだ。
重い足で下に降りようかと踏み出した時、爪先に何かが当たった。
目を向けると、壁に茶封筒が立て掛けられて置いてある。
(何だ───これ)
手に取ってみて、すぐに検討がついた。
裏面の下部に、「私立逢瀬高等学校」の文字が印刷されている。
郵便ではなく、直接手渡しで届けられたのだろう。封は開いていた。
中身を確認すると、ルーズリーフが数枚と、数学の問題が書かれたプリントが2枚入っていた。
亮助は立ったまま丁寧に授業の板書がまとめられたルーズリーフを見つめる。
これを届けてくれたのは───中野優樹菜だ。
勇人の幼馴染で、舞香の娘であり、“ASSASSIN”のメンバー。
そうともなると、自然と亮助は優樹菜と接点を持てそうなのだが、実際には亮助の方から会いたいと思っていても、中々会わないというのが現状であった。
舞香に伝言を頼むこともできるが、亮助は直接、優樹菜に感謝を伝えたいと思っていた。
そう思うほどに、中野優樹菜は勇人に、力を貸してくれている。
亮助は勇人の部屋のドアを振り返り、思考を巡らせて、視線を逸らした。
そして、封筒を手にしたまま、階下へと向かった。
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