維月
美月は、イスリークに伴われて龍の宮へ入った。
そこは、とても懐かしく安心するような場所で、美月も広い宮の中をすいすいと歩き回ることが出来たので、まるで最初から我が家のような感覚だった。
臣下達も、とてもよくしてくれた。イスリークが連れて来た臣下達と、元から宮に居た龍達も、まるで旧知の間柄のような感じで、諍いを起こすこともなく、滞りなく宮は回っていた。
筆頭軍神は、ギリシュだった。あちらに居た時から筆頭軍神で、こちらに来ても、こちらの僅かばかりの軍神達の中でも、やはり一番に気が強く技術も優れていたからだった。そのギリシュに、どうも美月は覚えがあるような気がしてならなかった。こんな時は、美月としての記憶ではなく、維月としての記憶が働いているのだと、美月はもう知っていた。なのである日、宮の中を横切って行くギリシュを見かけた時、思わず呼び止めた。
「ギリシュ!」
ギリシュは、ちらりとこちらを振り返ったが、呼んだのが美月だと知ると、慌てて膝を付いて頭を下げた。
「美月様。」
美月は、これに慣れなかった。何と言われても、どうしても慣れない。何しろ、人として育ったし、一般人だったのだ。人に頭を下げられるなんて、お店に立ち寄った時ぐらいだったのに、今は誰もかれもが頭を下げて。
ギリシュは、いつもイスリークについているのだから顔を合わす頻度も高い。なので、ちょっと言っておこうと思った。
「あのね、いつも話したいと思っていたけど、あまりに忙しそうだから声を掛けづらくって。」
ギリシュは、頭を下げたまま言った。
「御用がおありの時は、いつなりお呼びくださればすぐに参りまするゆえ。」
美月は、腰に手を当てた。
「…あの、ずっと言おうと思っていたんだけど。」美月は少し憤然として言った。「ギリシュって神の世に居たとは言っても、人の世にも詳しいわよね?だったら、私の気持ちも分かるはずよ。どうして顔を上げないの?目を見て話さないなんて、嫌われてるような気になるのよね。」
ギリシュは、下を向いたまま戸惑ったように言った。
「しかし…王の妃であられるので…我ら、そのようには…。」
美月はため息を付いた。
「…なんだかさみしいわ。月の宮では、そんなことは無かったのに。私、人が抜けないの。どうしても前世を思い出さなくて…ギリシュ、なんだかあなたにも見覚えがあるように思うんだけど。」
ギリシュは困っていた。それは自分もそうだった。どうしても覚えがある「気」のような気がするのだが、そんなことを言って王の勘気を被ってはいけないので、何も言わなかったのだ。
「それは…我も、常々そのように。」
美月はパアッと明るい顔をした。
「まあ、やっぱり!そうよね、覚えがあるわよね?一体どんな知り合いだったのかしら…。」
ギリシュは、じっと黙った。このままこんな所で王の妃と話していて、王が何か思われてはいけない。しかし、美月はこのまま立ち去らせてくれそうにもなかった。なんと言えばいいのかと悩んでいると、美月が盛大にため息を付いた。
「そう…あなたも忙しいものね。いいわ。でも、目を見てちゃんと挨拶してからにして。」
ギリシュは困ったが、意を決して顔を上げると、美月を見た。そして驚いた…思っていたより、ずっと美しい。今まで、王の手前じっと見たことなどなかったが、思っていたより小さくて、そして美しく、その気は驚くほどに慕わしかった。
「御前、失礼致しま…す…る。」
ギリシュは、この光景に覚えがあった。同じように、このかたを見上げたことがなかったか。そう、同じくこの龍の宮で、この、回廊のただ中、立ち去ろうとして…。
ギリシュが戸惑っていると、目の前の美月も戸惑った顔をしていた。目を見開いて、明らかに何かを思い出しているような風情だ。
「美月様…?」
美月は、涙を流した。ギリシュは、驚いて思わず立ち上がった。そんなギリシュを見上げながら、美月は言った。
「ギ…」美月の唇は、震えていた。「義心…?」
ギリシュは、雷に打たれたような感覚がした。義心…?!義心といったか?我は…!
心の奥底から湧き上って来る何かに飲まれそうになって、ギリシュはふら付いた。しかし、美月が倒れるほうが早かった。ギリシュは咄嗟に、足を踏ん張って美月を支えた。
「い…」ギリシュは、涙が浮かんで来るのを感じた。「維月様…!」
美月は、気を失ってギリシュに抱かれていた。
ギリシュは、思い出した記憶を胸に秘め、美月を抱えて奥宮へと飛んだ。
「おお、王妃様が!」洪が、おろおろと歩き回った。「何としたこと。治癒の龍達にも、原因は分からぬと申すし。」
イスリークが眉を寄せて美月の手を取っている。
「落ち着くのだ、洪!気に乱れはない。恐らく、心の問題ぞ。」
イスリークは、窓の外、暮れ始めた空に昇って来た月を見上げた。イサヤが、何か用があれば、月に向かって言えと言っていた。イスリークは、月を睨み付けて言った。
「イサヤ!美月が気を失っておる!主に原因は分かるか!」
すると、月から光の玉が降りて来た。と同時に、パッと青い髪と赤い髪の人型が同時にそこに現われた。イスリークはびっくりした…我の結界を、事もなげに入って来るとは。
「おお維月!何事ぞ?」
イスリークは、その地の人型に言った。
「何やら話しておる最中に倒れたらしいのだ。気に乱れはない。」
赤い髪の、陽蘭という名だと聞いた人型が言った。
「ああ吾子が。碧黎、何とかして!」
するとようやく人型になったイサヤが入って来た。
「月に戻ってる時に呼ぶな、イスリーク!来るのに時間が掛かったじゃねぇか!美月…どうしたんだ。」
イスリークは、また説明した。
「ギリシュに、何やら覚えがあるとかなんとか話し掛けておったらしい。そうしたら、倒れたのだと。」
美月の額に手を置いたりと探っていた碧黎が、顔を上げた。
「…記憶が戻って来るの。」と、イサヤを振り返った。「十六夜、維月が帰って来る。」
イサヤは、頷いた。しばらく黙って見ていると、美月がふんわりと光ったかと思うと、スーッと気の色が変わり始めた。それを見て、イスリークは思わず息を飲んだ…何という気…!この癒すような乞うような強い気は、いつも傍に置いて愛して来た気ではなかったか。
イスリークは、ただただその気に圧倒されていた。イサヤが呟いた。
「…気が戻って来たな。記憶が戻ったんだ。」と、イスリークを見た。「イスリーク、前世の維月が、お前を惹きつけて離さないようにと育ったのがこの気だ。思い出さねぇか。」
イスリークは、首を振った。
「この気に覚えがあるが、まだ我の記憶は戻らぬ。これで我だけか…美月も、主らが言う維月に戻るのか。」
イサヤは、首を傾げた。
「んーちょっと違う。オレも十六夜だが、しかしイサヤでもあるんだ。両方混ざった感じだな。お前も思い出したら分かる。前世の自分に飲まれる訳じゃない。どっちも自分で、忘れてたことを思い出す感じだな。」
イスリークは、頷きながらも焦っていた。それでなくても、ルイが訪ねて来て、思い出したら炎嘉と呼べと言い置いて帰って行った。炎嘉という名にも、なぜか親しみがあった。つまりは、ルイも前世を思い出したのだ。美月を連れて来たギリシュも、常にない取り乱しようだった。そう、もしかしたら、ギリシュも前世一緒に生きた者の一人で、思い出したのかもしれない。なぜに自分だけ、思い出さぬのか。
その様子に、碧黎は言った。
「…主はの、もしかしたら、戸惑いがあるのやもしれぬ。」イスリークは、驚いたように碧黎を見た。碧黎は続けた。「主は、大変に孤独で長い生を生きた。己の責務である地を平定することを成し遂げて、その生の終わりにやっと維月という心から愛する女を得て、子をなして…僅かな間だけ、大変に幸福に生きた。そして共に逝き、次の生でもやはり、主はもっと広く地を平定するために、その時は維月も十六夜も最初から共ではあったが、やはり大変な思いをして責務を果たした。そしてその生の終わりに、あの黒い霧の大量発生が起こり、主は己の子らと共に命を懸けて戦を止めた。十六夜と維月も、黒い霧を消滅させるために命を懸けた。結果、二度と転生はしないと言い置いて、主らは世を去った。」
碧黎は口をつぐんだ。陽蘭が、思い出して涙を流している。碧黎は、また口を開いた。
「…我も、あの時はもう、人や神の愚かしさに絶望してしもうての。僅かに残った者達のことも、放って置いた。蒼が、甲斐甲斐しく人や神の面倒を見ておったの。それで、やっと地は細々と繁栄し始めたのだ。主は、人がまたあの頃のような文明を持って立ち上がったのを見ておるであろう。少しは黒い霧も少なくなったとはいえ、人とは愚かよ。やはり黒い霧を生み出す者もおる。今は蒼が地道に消して行っておるゆえ大事ないが、いつまた起こるか分からぬ大量発生に、我らも怯えておるのは確か。恐らく何とかしてやろうと思うて転生して来ただろう主が、人の愚かしさを、今生では間近に見ていたのであるから、記憶を戻して失望したくはないのではないか。自分は、こんな者達のために、わざわざこんな所へ転生して来たのではない、とな。」
イサヤが、じっとイスリークを見ている。イスリークは、碧黎を見つめていた。もしかして、そうなのだろうか。やはり我は、思い出さぬ方が良いのだろうか。
「…それでも、維心様なら助けてやるのですわ。」その声は、寝台で目を開けた美月だった。「失望ならば、この前の生でも同じでありました。でも、最後には命を懸けて守ってやったのです。私は、覚えておりまする。私の維心様は、とても寛大で我慢強いかたなのですから。」
イスリークが、美月を見た。
「美月!気分は、どうか…?」
美月は微笑んだ。
「大丈夫でありまする。ご心配をお掛けしてしまいました。」と、碧黎と陽蘭を見た。「お父様、お母様、お久しゅうございます。お会い出来てうれしゅうございまするわ。」
碧黎が、涙ぐんで頷いた。
「維月…やっと戻ったの。おてんば娘であるゆえな。心配ばかり掛けよって。」
美月はふふと笑った。
「お父様が甘やかすからでありまするわ。」と、イサヤを見た。「十六夜…まあ、本当に変わらないのね。髪も目も。」
イサヤは美月の頬に触れた。
「お前だってそうだ。維月…炎嘉も言ってたが、なんだか遠回りしちまったな。最初から思い出していたら、すぐにでも蒼の所へ行ってやれたのに。」
維月は頷いた。
「そうね。早く蒼に会って話を聞いてやりたいわ。あの子が、あんなに険しい顔つきになってしまっていて…居た堪れないの。」と、息を付いた。「それから…ギリシュが、義心だったわ。私、やることが変わらないのね。覚えてないのに、あの頃龍の宮で言ったことと同じことを、ギリシュに言ったの。その時、お互いに思い出して…。」
イサヤは、ため息を付いた。
「…そりゃあいつもつらいな。どうして記憶を持って転生したんだが。まあ、ここの宮には、宮の再生を心に誓って転生して来る奴らがたくさん居たんだよ。その時、今の自分の経験と知識が必要と考えて、記憶を残そうとそれぞれいろんな方法で記憶を持って転生して来ている。記憶の維持に失敗したヤツもいる。今この時期に皆が集ったのは、恐らく何かの意思が働いているんじゃないのか?神の世を再興させようとな。」
碧黎が横を向いた。
「此度は我ではないぞ?我は人も神も、もうどうでも良かったからの。」
イサヤは苦笑した。
「おいおい、どうでもいいのに、気を失ったと聞いたら飛んで来るのか?」
碧黎は、美月の頭を撫でた。
「我が子は別よ。今の世に、我が子が居るとなれば、手を貸さずにおれまいて。のう、陽蘭よ。」
陽蘭は、微笑んで頷いた。
「ええ、碧黎。ほんに楽しかった時が戻って参ったようだこと。」
イスリークが、立ち上がった。
「…積もる話もあるだろうて。美月、月の宮へ戻って来るか?」
美月は、驚いた顔をした。
「え、よろしいのでございまするか?」
イスリークは、頷いた。
「前世、蒼は主の子だったと聞いた。ならば気に掛かるだろうて。戻って来ればよい。」
美月は、イサヤを見た。イサヤは、肩を竦めた。
「…いったい、どういう風の吹き回しだ。里帰りなどとんでもないといつもうるさかった維心が。」と、美月の手を取った。「まあいい。今はイスリークだもんな。それほど維月に執着もないんだろうよ。やりやすくていい。さ、行こう、維月。」
美月は、ためらいがちに寝台を降りた。
「イスリーク様…?」
イスリークは、踵を返した。
「良い。我はまだ、移転による政務が山積しておるしの。行って参れ。」
美月は頷いたが、まだイスリークの背を見送っていた。
そして、イサヤと碧黎、陽蘭に連れられて、月の宮へと向かったのだった。




