第115話 父に届いた私の返事と、動き始めた過去の記録
ロシュフォール家の朝は、窓の外から聞こえる落ち葉を掃く音とともに始まった。
夜の間に風が強まったらしく、庭園の小道には黄色や赤に色づいた葉が散っている。朝日が差し込む窓辺には、昨夜閉じた手帳と、父から届いた手紙が並んでいた。エレノアは寝台から起き上がると、しばらくその二つを眺め、それからゆっくりと窓へ歩み寄った。
父ロベルトへ返事を書き、叔父アルフォンスに発送を頼んでから、数日が過ぎている。
自分が今どこで暮らしたいのか、何を大切にしているのか。そして、今後について考えるときには、父の判断だけではなく、自分自身の意思も聞いてほしいということ。何度も書き直した末に封をした手紙には、これまで父の前で十分に伝えられなかった言葉が込められていた。
それでも、父がどのように受け止めるのかまでは分からない。
(お父様は、私の返事を読んでくださるかしら。読んでくださったとしても、私がここで暮らし続けたいと望んでいることを、認めてくださるとは限らないわ)
エレノアは窓枠に指を添え、庭園の向こうへ目を向けた。
ベルナール家にいた頃の自分なら、父の返事を待つ間、何も手につかなかったかもしれない。父親の機嫌を損ねていないだろうか、書いてはいけないことを書いてしまったのではないだろうかと考え、送った手紙を取り戻したいとさえ思っただろう。
けれど、今は違う。
不安は残っている。それでも、自分の考えを伝えたことそのものを、間違いだったとは思わなかった。
背後で扉が控えめに叩かれた。
「エレノア様、お目覚めでいらっしゃいますか」
「ええ、リディア。入ってちょうだい」
朝の身支度を整えるために入室したリディアは、窓辺に立つエレノアの姿を見ると、持っていた衣装を椅子へ置いた。
「今朝は少し冷え込んでおりますね。昨夜の風で、庭園の葉もずいぶん落ちたようでございます」
「そうね。昨日より、木の枝がよく見えるわ」
エレノアは振り返り、リディアが用意した淡い色のドレスへ目を向けた。
「今日は、お祖母様と刺繍をする前に、昨日教えていただいたことを整理したいの。エレーヌたちのお仕事を邪魔しないように、私にもできることを考えてみたいわ」
「古い資料の保存についてのお話でございますね」
「ええ。記録を読むことばかり考えていたけれど、傷つけずに残すためには、知らなければならないことがたくさんあるのね」
リディアは衣装の袖を整えながら頷いた。
「エレノア様が大切にされているものですから、慎重に扱いたいというお気持ちは、皆様にも伝わっていると思います」
その言葉に、エレノアは小さく微笑んだ。
母アデラインに関する記録の調査は、まだ途中だった。古い紙束には開いていない部分が残されており、保存方法についての問い合わせも、専門家からの返答を待っている段階にある。
手がかりを早く知りたいという気持ちは、今も強い。
しかし、急いで原本を開いた結果、母が残したかもしれない文字を失ってしまうことだけは避けたかった。
「今日は、あの紙束を開こうとは思っていないの。ただ、今までに分かっていることを、もう一度整理しておきたいわ」
「それでしたら、セドリック様にもお声をかけてみてはいかがでしょう。昨日も、資料についてお調べになっていたようでございますから」
「そうね。お兄様のお時間があれば、お願いしてみるわ」
エレノアはそう答え、鏡の前へ移動した。
父からの返事を待つ時間と、母の記録を調べる時間。
どちらも、自分にとって大切なものだった。
しかし、片方が進まないからといって、もう片方まで止めてしまう必要はない。
エレノアは鏡の中の自分を見つめながら、今日一日をどのように過ごすか、静かに考え始めた。
◇ ◇ ◇
同じ朝、王都セレディアにあるベルナール伯爵家では、ロベルトが執務机に向かっていた。
机の上には領地からの報告書が積まれ、その脇に、娘へ送るために書きかけた便箋が置かれている。
少し前、ロベルトはエレノアへ直接手紙を送っていた。
それまで十分に尋ねてこなかった娘の気持ちを知りたいと思い、ロシュフォール家での暮らしや今後の希望について、急いで返事をする必要はないと書き添えたものだった。
しかし、その手紙を送り出してからも、ロベルトの考えはまとまりきっていなかった。
娘の希望を知りたいという気持ちは本当だった。けれど、その希望が自分の考えていたものと違っていた場合、父親としてどう答えるべきなのか、まだ決められずにいたのである。
ロベルトは筆を持ち、便箋の上へ目を落とした。
そこには、エレノアへ追加で尋ねようと考えた言葉が書かれている。
ロシュフォール家での生活に不自由はないか。
ベルナール家へ戻ることについて、どう考えているのか。
今後の家の手続きについて、何か希望はあるのか。
いずれも必要な確認ではある。
しかし、並べてみると、娘が答えるべき問いばかりが増えていた。
(私は、あの子に何を求めているのだろう。考えを聞きたいと言いながら、結局は私が判断しやすい答えを欲しがっているのではないか)
ロベルトは筆を置き、椅子の背へ身体を預けた。
亡き妻アデラインが、幼いエレノアの話を最後まで聞いてやってほしいと言っていたことを、最近になって何度も思い出す。
あの頃は、娘の話を聞くことと、娘のために判断することを、別々に考えたことがなかった。
父親が必要なことを決めれば、娘はそれに従う。
それが家を守るためにも、娘の将来のためにも当然なのだと、長い間信じていた。
だが、今になって思えば、自分が娘の考えを知らなかったのは、娘が何も考えていなかったからではない。
自分が聞こうとしてこなかったからなのかもしれなかった。
扉が叩かれ、執事が入室した。
「旦那様。ロシュフォール家より、エレノアお嬢様のお名前で書簡が届いております」
ロベルトは顔を上げた。
「エレノアから?」
「はい。封書の差出人は、エレノアお嬢様ご本人となっております」
執事が差し出した封筒を受け取った瞬間、ロベルトの指先がわずかに止まった。
見覚えのある筆跡だった。
娘がまだベルナール家にいた頃、勉強の成果として提出した書き物や、季節の挨拶を書いた小さなカードで目にしたことのある文字である。
しかし、今回の封筒には、これまでとは違う重みが感じられた。
ロベルトは執事を下がらせると、机の上の書類を脇へ寄せ、慎重に封を切った。
中から取り出した便箋には、丁寧な挨拶に続いて、ロシュフォール家での日々について書かれていた。
祖父母や叔父、従兄に支えられながら、落ち着いて生活していること。
母アデラインに関する思い出や記録を、少しずつ確かめていること。
そして、今はロシュフォール家での暮らしを続けたいと望んでいること。
ロベルトは、最後の一文を読み終えたところで手を止めた。
娘は、ただ父の家を離れて休んでいるのではなかった。
ロシュフォール家で暮らすことを、自分の意思として選びたいと伝えていた。
それは、父親に対する反抗的な文章ではない。
ベルナール家を責める言葉も、ロベルトを非難する表現もなかった。
しかし、丁寧な言葉の奥には、譲りたくない願いが確かに存在していた。
ロベルトは便箋を机へ置き、長く息を吐いた。
(あの子は、私が尋ねたことに答えてくれた。今度は、私がその答えをどう受け止めるかを考えなければならない)
娘が自分のもとへ戻りたいと書いていなかったことには、寂しさがあった。
しかし、その寂しさを理由に、娘の言葉を否定してよいとは思えなかった。
ロベルトはもう一度便箋を取り上げた。
娘が母の思い出を確かめているという部分に、目が留まった。
アデラインが亡くなってから、彼女の品々について娘とゆっくり話したことが、どれほどあっただろう。
遺品を整理し、必要なものを保管し、家の中を落ち着かせることはした。
しかし、エレノアが母の何を覚えていたいと思っているのか、何を手元に残したかったのか、聞いた記憶がなかった。
ロベルトは便箋を閉じず、そのまま机の上へ置いた。
娘の手紙を読み終えても、すぐに返事を書く気にはなれなかった。
今度こそ、答えを急ぐべきではないと思ったからだった。
◇ ◇ ◇
昼前、ベルナール家の家政を担当する部屋では、古い帳簿の確認が進められていた。
ヴァレリアは机の向かいに座り、使用人が運んできた記録を一冊ずつ確認していた。衣類の整理に関する帳簿には、仕立て直しや保管場所の変更について短い記載が残されていたが、すべての品物の現在地を示しているわけではない。
とりわけ、アデラインの死後に整理された品々については、記録の残り方にばらつきがあった。
「この帳簿は、当時の衣装部屋で使っていたものなのね」
「はい、奥様。ただし、別の保管場所へ移された品物については、移動先で管理された記録もあるようでございます」
ヴァレリアは頁をめくりながら、使用人の説明を聞いていた。
かつて東側の衣装部屋に置かれていた品々の一部を、西側の保管場所へ移すよう指示したことは覚えている。
その中には、アデラインの持ち物も含まれていた。
しかし、移動後にすべての品物を自分で確認したわけではなかった。実際の運搬や保管は、当時の使用人たちに任せていたのである。
「記録が残っていないものについては、どうなっているのかしら」
ヴァレリアが尋ねると、使用人は慎重に答えた。
「現時点では、所在が分からないものもございます。ですが、古い記録をすべて確認できたわけではありませんので、紛失したと断定することもできません」
「そう……」
ヴァレリアは帳簿から顔を上げた。
夫ロベルトは、エレノアの部屋を当面そのままにしておくと決めていた。
本人の考えを確かめる前に、私物を勝手に動かさないという判断だった。
ヴァレリアにとって、その決定は少し意外なものだった。
これまでのロベルトなら、家の事情に合わせて整理を進めることを優先したかもしれない。だが今回は、娘の意思を確かめるという言葉を繰り返している。
その変化が何を意味するのか、ヴァレリアにはまだ分からなかった。
「記録の確認は続けてちょうだい。ただし、品物そのものを移動させる必要はないわ。旦那様からも、部屋は現状のままにするようお話があったでしょう」
「承知いたしました」
使用人が一礼すると、ヴァレリアは机の上の帳簿を閉じた。
エレノアの衣類の一部が、ミレーヌのために仕立て直されていることは知っていた。
その判断をした当時は、使われていない衣類を有効に利用することに、大きな問題があるとは考えていなかった。
しかし、エレノアが自分の持ち物について調べ始めているのだとすれば、事情は変わってくる。
もっとも、娘がロシュフォール家でどこまで調べているのか、ヴァレリアは知らない。
そのため、今ここで具体的な問題が起きていると決めつけることもできなかった。
(まずは、こちらに残っている記録を確かめるしかないわね)
ヴァレリアはそう考え、使用人へ次の帳簿を持ってくるよう指示した。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ミレーヌは自室で一着のドレスを眺めていた。
淡い色の布地には丁寧な刺繍が施され、袖口には細かな飾りが縫いつけられている。これまで何度も着たことのある衣装だったが、今日はなぜか、以前とは違うものに見えた。
少し前、エリーズ・ダルモンと話したことが、まだ心に残っていた。
姉エレノアの衣類の一部が、自分のために仕立て直されていたのではないか。
その可能性を考えるようになってから、衣装棚に並ぶドレスを見るたびに、どのような経緯で用意されたものなのか気になるようになっていた。
もちろん、すべてが姉のものだったわけではない。
自分のために新しく仕立てられた衣装も多い。
けれど、ミレーヌ自身は、それぞれの衣装がどこから来たものなのか、正確に把握していなかった。
「このドレスの仕立て直しについて、何か分かったかしら」
ミレーヌが尋ねると、衣装の手入れをしていた侍女は手を止めた。
「申し訳ございません、お嬢様。まだ詳しい記録を確認できておりません。古い帳簿を調べておりますが、同じ時期に何着かのお直しが行われていたようでございます」
「そうなのね」
ミレーヌはドレスの袖へ指を添えた。
布地は柔らかく、手入れも行き届いている。
以前なら、気に入っている衣装の一つとして、それ以上深く考えなかっただろう。
しかし今は、誰かが以前に着ていたものかもしれないと思うだけで、簡単に袖を通す気にはなれなかった。
「記録が見つかるまでは、このドレスを着ないことにするわ」
侍女は少し驚いたように顔を上げた。
「よろしいのでございますか。お嬢様は、こちらをお気に召していらっしゃったと思いますが」
「ええ、好きなドレスよ。でも、少し確かめたいことがあるの」
ミレーヌは衣装から手を離し、侍女へ向き直った。
「もし以前に別の人が着ていたものなら、そのことを知っておきたいの。分からないまま着続けるのは、今は少し落ち着かないから」
侍女はミレーヌの表情を見つめたあと、静かに頷いた。
「かしこまりました。確認できたことがございましたら、お知らせいたします」
ミレーヌは小さく礼を言い、窓辺へ歩み寄った。
姉がロシュフォール家でどのように暮らしているのか、詳しいことは知らない。
以前は、姉が屋敷にいても、何を考えているのか分からないことが多かった。
今になって思えば、自分から尋ねたことも、ほとんどなかったのかもしれない。
(お姉様は、このドレスを覚えていらっしゃるのかしら。もしお姉様のものだったなら、私が着ていることを知って、どう思われるのだろう)
ミレーヌは窓の外を眺めながら、答えの出ない問いを胸の中で繰り返した。
今すぐ姉へ何かを伝えるつもりはなかった。
まずは、確かなことを知りたかった。
◇ ◇ ◇
午後のロシュフォール家では、エレノアがセドリックとともに、これまでに確認した記録を整理していた。
場所は、家族が普段使う小さな書斎だった。窓辺の机には手帳と写しが並べられているが、傷んだ原本は持ち込んでいない。エレーヌたちが管理している資料については、専門家からの助言を待つという方針が変わっていなかった。
セドリックは机の向かいに座り、エレノアがまとめた覚え書きを読んでいた。
「昨日教わったことを、もう整理したんだね」
「はい。忘れてしまわないうちに、書いておこうと思いまして」
エレノアは少し照れたように微笑んだ。
「でも、まだ十分に理解できていないこともあります。お兄様にも見ていただけたら嬉しいです」
「もちろん。僕も専門家ではないけれど、分かる範囲で一緒に確認しよう」
セドリックはそう答え、手帳の頁をめくった。
そこには、古い紙の扱い方だけでなく、これまでに確認した衣類整理の記録についても、簡潔な覚え書きが記されていた。
エレノアはその頁を指し示した。
「この前、記録に書かれていることと、私たちが考えたことを分けましたでしょう。あれをもう少し整理しておきたいのです」
「なるほど。今分かっていることを、改めて確認したいんだね」
「はい。調べているうちに、最初に考えていたことが、いつの間にか確かなことのように感じられてしまうのが怖くて」
セドリックは頷いた。
「それは大切なことだと思うよ。特に、いくつもの記録が関係していると、似た言葉を見つけただけで、同じ出来事だと考えたくなることがあるからね」
エレノアは手帳を開き、以前まとめた項目を読み上げた。
「まず、私の衣類についてです。ベルナール家にあった二十七着のうち、八着の所在が分からなくなっていました。そのうち三着については、ミレーヌのために仕立て直されていたことが確認できています」
「うん。残る五着については、まだ所在が分かっていない」
「はい。でも、古い記録に書かれていた『五』という数字が、その五着を指しているとは限りません」
セドリックは静かに頷いた。
「数字が一致していても、何を数えたものなのか分からない以上、同じものとして扱うことはできないね」
エレノアは手帳へ短い一文を書き加えた。
その動作を見ながら、セドリックは少し考え込んだ。
以前のエレノアなら、手がかりを見つけるたびに、そこへ希望を託していたかもしれない。
しかし今は、期待を抱きながらも、確かなことと分からないことを分けようとしている。
それは、単に慎重になったというだけではなかった。
自分の願いを大切にするためにこそ、事実を正確に知ろうとしているのだと、セドリックには感じられた。
「それから、古い帳簿にあった『ロラン』という姓についても、同じですね」
エレノアが続けると、セドリックは顔を上げた。
「ベアトリス・ロランのことだね」
「はい。でも、あの記録に書かれているのが、必ずベアトリス本人だとは限りません。役割もはっきりしていませんし、同じ姓の別の人だった可能性もあります」
「そうだね。名前の一部が一致しているだけでは、まだ判断できない」
エレノアは頷き、手帳を閉じかけた。
しかし、そこで手を止めた。
「お兄様。私、もう一つ気になっていることがあります」
「何だい?」
「お母様の木箱のことです」
セドリックはすぐには答えず、エレノアの言葉を待った。
母アデラインが使っていた、野ばらの彫刻が施された暗い色の木箱。
その箱は、かつてベルナール家の東側の衣装部屋に置かれていたが、五年前に西側の保管場所へ移された記録が残っていた。
移動にはベアトリス・ロランの署名があり、ヴァレリアの承認も確認されている。
しかし、その後の所在は分かっていない。
ヴァレリアは本館へ移したと説明していたが、実際にどこへ置かれたのかは確認できていなかった。
「以前、ギュスターヴが似た箱を運んでいる使用人を見たと話してくれましたでしょう」
「うん。ただ、あれが本当に叔母上の箱だったかどうかは、分かっていないね」
「はい。それに、運んでいた方がナタリーだったのかどうかも、確かではありません」
エレノアは少し間を置いた。
「それでも、私はあの箱を見つけたいと思っています。中に何が入っているのかも分からないのに、どうしても気になってしまうのです」
セドリックは手帳を机へ置き、穏やかに答えた。
「叔母上の持ち物だからね。気になるのは自然なことだと思うよ」
「でも、何か大切なものが入っていると決めつけてはいけませんね」
「そうだね。何も入っていないかもしれないし、思い出とは関係のないものが入っているかもしれない。それでも、君が探したいと思うこと自体は、間違いじゃないよ」
エレノアはその言葉を聞き、少し肩の力を抜いた。
母の遺品を探すことには、いつも二つの気持ちがあった。
何かが見つかるかもしれないという期待と、何も見つからなかったらどうしようという不安。
そのどちらも、簡単には消えない。
けれど、セドリックは結果を約束することなく、探したいという願いそのものを受け止めてくれる。
エレノアにとって、それは大きな支えだった。
「ありがとうございます、お兄様。私、見つかるまで何度でも同じことを調べたいわけではないのです。ただ、確かめられることがあるなら、一つずつ確認していきたいと思っています」
「うん。僕も手伝うよ。ただし、今ある記録だけで分からないことは、無理に答えを出さないようにしよう」
エレノアは微笑み、手帳へ新しい見出しを書いた。
そこには、今後確認したいことを、三つに分けて記した。
記録に書かれた事実。
まだ確かめられていないこと。
今後、無理なく確認できる可能性があること。
セドリックはその文字を見つめ、静かに頷いた。
調査が大きく進んだわけではない。
しかし、エレノアが自分の手で考えを整理し、何を確かめたいのかを明確にできたことには、確かな意味があった。
◇ ◇ ◇
その頃、王宮の儀礼を担当する執務室では、婚約に関する書類の確認が続けられていた。
机の上には、ベルナール家から提出された婚約受諾の返書と、エレノア本人が署名した拒否の書面が、それぞれ別の資料として保管されている。
担当官は二つの書類を確認し、手続き上の問題点を記した報告書へ目を通していた。
ベルナール家の当主は、娘の婚約を受け入れる意思を示している。
しかし、娘本人は、婚約を望んでいないと明確に記している。
しかも、父が受諾の返書を送る前に、自分は婚約を受け入れる意思を示していなかったと説明していた。
担当官は報告書の該当箇所へ目を落とした。
この二つの意思表示を、同じものとして扱うことはできない。
だからといって、担当部署の判断だけで婚約の結論を決めることもできなかった。
王家に関わる婚約である以上、必要な確認を行い、手続き上の問題を整理したうえで、しかるべき判断を仰ぐ必要がある。
「ベルナール伯爵本人への確認は、まだ行われていないのですね」
上席の担当官が尋ねると、書類を整理していた職員は頷いた。
「はい。これまでは問い合わせの必要性を検討しておりましたが、正式な照会はまだ発送されておりません」
「本人の同意を得た経緯について、確認が必要です。ただし、すでに提出されている令嬢本人の書面を、家の返書によって上書きするような扱いは避けなければなりません」
職員はその言葉を書き留めた。
上席の担当官は、机の上に置かれた二つの書類へ視線を向けた。
「照会文を作成してください。ベルナール伯爵が婚約受諾の返書を送る前に、令嬢本人の意思をどのように確認したのか。その経緯を、事実に即して回答してもらう内容にします」
「承知いたしました。回答期限については、いかがいたしましょう」
「通常の手続きに従い、必要な猶予を設けてください。急いで結論を出すためではなく、記録を正確に整えるための照会です」
職員は一礼し、書類を持って席を離れた。
その後、照会文は上席の確認を受け、正式な書簡として整えられた。
宛先は、ベルナール伯爵ロベルト。
内容は、婚約受諾の返書が送られる前に、エレノア本人の意思確認がどのように行われたかを尋ねるものだった。
書簡はその日の夕方、王宮から発送された。
ただし、ベルナール家へ届いたわけではない。
回答も、まだ存在していなかった。
王宮の中で一つの手続きが進んだことを、エレノアは知らない。
ロベルトもまた、娘から届いた手紙を前にしているこの時点では、王宮から正式な照会が向かっていることを知らなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、ベルナール家の執務室では、ロベルトが娘への返事を書き始めていた。
窓の外では日が傾き、中庭の石畳が橙色に染まっている。机の上には、朝届いたエレノアの手紙と、以前自分が書きかけた便箋が並んでいた。
ロベルトは二つを見比べ、古い方の便箋を脇へ寄せた。
娘へ何を望んでいるのか尋ねる文章は、もう必要ない。
娘はすでに、自分の考えを伝えてくれた。
今度は、その言葉を受け取った父親として、何を返すべきかを考える番だった。
ロベルトは新しい便箋を取り出した。
『エレノアへ。あなたからの手紙を受け取りました。ロシュフォール家での暮らしについて、あなた自身の考えを知らせてくれたことに、まず礼を言いたいと思います。』
そこまで書き、筆を止めた。
礼を言うという表現が、父親として適切なのかどうか、一瞬迷った。
しかし、娘が勇気を出して自分の考えを伝えてくれたのなら、そのことを軽く扱うべきではない。
ロベルトは文章を消さず、そのまま残した。
『あなたが現在の暮らしを大切にしていることは、手紙から理解しました。養子縁組や家に関わる手続きについては、今後も確認が必要ですが、あなたの考えを知らないまま結論を急ぐことは避けたいと思っています。』
ロベルトは便箋を読み返した。
娘が望む暮らしを、すべて認めると約束したわけではない。
しかし、これまでのように、父親の判断だけで物事を進めることも避けたいと思っていた。
その気持ちを、今の自分が書ける範囲で伝えたかった。
ロベルトは続けて、もう一つのことを書こうとした。
王宮との婚約についてである。
ベルナール家から受諾の返書を送ったことは、父親としての自分が行った判断だった。
その時点で、娘の意思を十分に確かめていたかと問われれば、胸を張ってそうだと答えることはできない。
しかし、ロベルトはまだ、エレノアが王宮へ正式な拒否の書面を提出したことを知らなかった。
アルフォンスからの返書には、婚約に関する情報を慎重に扱うという説明があったものの、具体的な内容までは記されていない。
そのため、娘がどのような行動を取ったのかについて、勝手に推測するべきではなかった。
ロベルトは筆を持ったまま、しばらく考え込んだ。
(あの子が何を望んでいるのか、私はまだすべてを知っているわけではない。だが、知らないことを理由に、また私だけで決めてよいわけでもない)
彼は便箋の最後へ、短い一文を書き加えた。
『今後、あなたに関わる重要なことを考える際には、できる限りあなた自身の意思を確かめたいと思っています。』
書き終えたあと、ロベルトは長く息を吐いた。
それは、父親として当然のことだったのかもしれない。
しかし、今の彼にとっては、簡単に書ける言葉ではなかった。
自分がこれまでしてこなかったことを、これから行うと約束する文章だからである。
ロベルトは便箋を折り畳まず、机の上へ置いた。
まだ封をするつもりはなかった。
娘へ送る前に、もう一度読み返したかった。
そして、書いた言葉を本当に守るつもりがあるのか、自分自身へ問い直す必要があると感じていた。
◇ ◇ ◇
ロシュフォール家では、夕食のあと、エレノアがマルグリットの部屋を訪れていた。
窓の外には夜の庭園が広がり、室内には暖かな灯りがともっている。机の上には刺繍道具が整えられ、青い糸で縫い進めた花の布が置かれていた。
エレノアは祖母の隣へ座り、刺繍枠を膝に置いた。
花びらの輪郭は、以前よりもはっきりしてきている。
しかし、中心部分をどのような色で仕上げるかについては、まだ決めていなかった。
「今日は、ここまで進めようと思っています」
エレノアが布を示すと、マルグリットは穏やかに微笑んだ。
「少しずつ形になってきたわね。青い糸の重なり方も、ずいぶん自然になっているわ」
「ありがとうございます。でも、まだ迷っているところもあるのです」
「迷いながら作るのも、楽しいものよ。最初から完成した姿が決まっていなくても、針を進めるうちに見えてくることがあるわ」
エレノアは頷き、針を布へ通した。
母アデラインが作ろうとしていた青い花が、どのようなものだったのかは分からない。
残された言葉と図案だけでは、完成した姿を正確に再現することはできなかった。
けれど、今のエレノアは、母と同じものを作らなければならないとは思っていなかった。
母が青い花を作りたいと考えていたこと。
自分も青い花を縫ってみたいと思ったこと。
その二つがつながっているだけでも、十分に大切なことのように感じられた。
「お祖母様。今日、お兄様と古い記録のことを整理したのです」
エレノアが話し始めると、マルグリットは針を止めて顔を向けた。
「そうなのね。何か新しいことが分かったの?」
「いいえ。新しい記録が見つかったわけではありません。ただ、今まで分かっていることと、まだ分からないことを、もう一度分けてみたのです」
エレノアは少し照れたように微笑んだ。
「調べていると、つい何か答えを見つけたくなってしまいます。でも、分からないことを無理に決めつけない方がよいのだと思いました」
マルグリットは静かに頷いた。
「それは大切なことね。アデラインのことを知りたいと思う気持ちは、私も同じよ。でも、記憶だけでは分からないこともあるもの」
エレノアは祖母の横顔を見つめた。
マルグリットにとって、アデラインは娘だった。
自分にとっては母であり、祖母にとっては、幼い頃から育ててきた大切な存在である。
同じ人を思い出していても、覚えている姿や出来事は違うのだろう。
「お祖母様は、お母様のことで、今でも思い出すことがありますか」
エレノアが尋ねると、マルグリットは少し目を細めた。
「ええ。たくさんあるわ。けれど、いつも同じことを思い出すわけではないのよ」
「そうなのですね」
「庭園の花を見ると思い出すこともあれば、古い裁縫道具を見て思い出すこともあるわ。何でもない日に、ふとあの子の声が聞こえたような気がすることもあるの」
マルグリットはそう言って、机の上の糸巻きへ目を向けた。
「でも、それは私の記憶なの。あなたが覚えているアデラインの姿とは、違うところもあるでしょうね」
エレノアはゆっくりと頷いた。
「私が覚えているお母様は、いつも優しかったです。でも、きっとそれだけではなかったのでしょうね」
「そうね。アデラインにも、迷うことや困ることはあったわ。何でも上手にできたわけではないし、失敗して落ち込むこともあったのよ」
その言葉に、エレノアは少し驚いたように顔を上げた。
母の記憶は、幼い頃の温かな思い出と結びついている。
だからこそ、母が何かに迷ったり、失敗したりする姿を、あまり想像したことがなかった。
「お母様も、失敗なさることがあったのですね」
「もちろんよ。誰だって、最初から何でもできるわけではないもの」
マルグリットは微笑んだ。
「でも、あの子は失敗したあと、どうすればよかったのかを考えることが多かったわ。すぐに答えが出なくても、少し時間を置いてから、また試してみることもあったの」
エレノアはその言葉を聞き、膝の上の刺繍枠へ目を落とした。
青い花は、まだ完成していない。
何度も糸を選び直し、針を止め、少しずつ形を整えている。
それでも、急がずに続けていけばよいのだと、祖母の話を聞いて思えた。
「私も、もう少しゆっくり考えてみます。お母様と同じ花になるかどうかは分かりませんけれど、自分で納得できるものを作りたいです」
マルグリットは優しく頷いた。
「ええ。それが一番よいと思うわ」
エレノアは微笑み、再び針を動かし始めた。
窓の外では、夜風に揺れる木々の音がかすかに聞こえている。
室内には、二人が布へ針を通す小さな音と、穏やかな時間が流れていた。
◇ ◇ ◇
その夜、アルフォンスは執務室で書簡の記録を確認していた。
エレノアが父へ送った手紙は、すでに発送されている。
しかし、ベルナール家へ届いたという知らせは、まだロシュフォール家には届いていなかった。
アルフォンスはその点を記録へ書き留め、次の書類へ目を移した。
古い紙の保存方法について、専門家へ送った予備問い合わせの控えである。
こちらも発送は済んでいるが、返事はまだない。
アルフォンスは控えを読み返し、問い合わせの内容が、資料の具体的な記載や個人情報を含まない一般的な相談にとどまっていることを確認した。
傷んだ紙束の原本は、現在もエレーヌたちの管理下にある。
無理に開いたり、別の場所へ移したりすることはしていない。
専門家から助言が届くまでは、その方針を維持する必要があった。
アルフォンスは書類を閉じ、窓の外へ目を向けた。
エレノアが今日もセドリックと記録を整理し、母の思い出について祖母と話していたことは、使用人から聞いている。
父への手紙を送ったあとも、彼女が日常の時間を過ごせていることに、少し安心していた。
しかし、これから先、ベルナール家からどのような返事が届くのかは分からない。
養子縁組の手続きも、王宮との婚約に関する問題も、まだ結論へ至っていなかった。
アルフォンスは机の上の書類を整え、手帳へ次の確認事項を書き加えた。
エレノアの意思を尊重すること。
必要な手続きは、事実を確かめながら進めること。
そして、彼女に関わる重要な情報については、本人へ知らせるべき範囲を慎重に判断し、勝手に結論を出さないこと。
それらは、これからも守らなければならない約束だった。
◇ ◇ ◇
夜が深まった頃、ベルナール家の執務室では、ロベルトが娘への返事をもう一度読み返していた。
机の上には、エレノアから届いた手紙と、自分が書いた返書が並んでいる。
娘の文章は丁寧で、落ち着いていた。
しかし、その奥には、これまで自分が十分に聞いてこなかった願いがあった。
ロベルトは返書を手に取り、最後の一文へ目を落とした。
『今後、あなたに関わる重要なことを考える際には、できる限りあなた自身の意思を確かめたいと思っています。』
それは、父親として当然のことだったのかもしれない。
しかし、ロベルトにとっては、簡単に書ける言葉ではなかった。
これまで自分がしてこなかったことを、これから行うと約束する文章だからである。
彼はしばらく考えたあと、便箋を折り畳んだ。
封筒へ入れ、宛名を書き、封をした。
ただし、今夜のうちに発送することはできない。
ロベルトは封書を机の端へ置き、翌朝の便で送るよう手配することを決めた。
そのとき、執務室の扉が控えめに叩かれた。
「旦那様。遅い時間に失礼いたします」
執事が入室し、書類を一通差し出した。
「家政を担当する者から、古い雇用記録についての報告がございました。以前お尋ねになっていた、お嬢様付きの使用人の記録でございます」
ロベルトは書類を受け取り、目を通した。
そこには、エレノアが幼い頃から屋敷を離れるまでの間、身の回りの世話に関わっていた使用人たちの名前が、分かる範囲で整理されていた。
その中には、すでに屋敷を去った者も含まれている。
ロベルトは記録を読み進めながら、娘の暮らしを支えていた人々の名前を、改めて確認していた。
自分が知らないところで、娘は多くの人々と関わりながら成長してきた。
そのことを、今さらながら実感していた。
「ありがとう。続きが確認できたら、また報告してくれ」
「かしこまりました」
執事が退出すると、ロベルトは書類を机へ置いた。
娘の過去をすべて知ることは、できないかもしれない。
しかし、これまで見落としていたことを確かめる努力は、今からでもできる。
ロベルトは封をした返書へ目を向けた。
明日の朝、この手紙を送り出す。
それが娘との関係をどのように変えるのかは、まだ分からない。
けれど、少なくとも今夜は、娘の言葉を読まずに判断を進めることだけは避けられた。
◇ ◇ ◇
同じ夜、ロシュフォール家の自室では、エレノアが手帳を開いていた。
机の上には、今日整理した記録の覚え書きが置かれている。
母の木箱について、まだ分からないこと。
衣類の所在について、確認できたことと確認できていないこと。
古い紙束を無理に開かず、専門家からの助言を待つこと。
エレノアは一つずつ読み返し、必要な箇所へ小さな印をつけた。
今日、新しい手がかりが見つかったわけではない。
しかし、何を確かめるべきなのか、以前よりもはっきりしてきたように感じられた。
エレノアは手帳を閉じ、机の端へ置いた。
その隣には、父から以前届いた手紙がある。
ロベルトが自分の希望を尋ねてくれたことは、今も不思議に感じられた。
以前の父なら、娘へ何を望むか尋ねるより先に、必要なことを決めていたかもしれない。
けれど、今回の手紙には、すぐに返事をする必要はないと書かれていた。
その言葉を信じてよいのかどうか、まだ分からない。
それでも、自分は返事を書いた。
今の暮らしを続けたいという願いを、自分の言葉で伝えた。
(お父様がどのように受け止められるかは、まだ分からないわ。でも、私はもう、自分の考えを伝えることから逃げたくない)
エレノアは窓辺へ歩み寄った。
庭園には月の光が差し込み、遠くの木々が静かに揺れている。
ここへ来たばかりの頃は、夜になると不安が強くなることが多かった。
以前の人生で経験した出来事が、眠りにつく前に思い出されることもあった。
今でも、すべてを忘れたわけではない。
第二王子レオナードとの婚約を望まないという気持ちも、変わっていなかった。
王宮へ送った拒否の書面が、どのように扱われるのかも、まだ分からない。
それでも、エレノアは自分の意思を伝えることができた。
そして、今はロシュフォール家で暮らしながら、母の思い出を確かめ、自分の好きなことを少しずつ見つけている。
その日々を、これからも大切にしたかった。
エレノアは窓を閉じ、机の上の手帳へもう一度目を向けた。
父のもとへ自分の手紙が届き、何度も読み返されていることを、彼女はまだ知らない。
ロベルトが返事を書き終え、翌朝の発送を決めたことも、知る由はなかった。
王宮から父へ向けて、婚約受諾の経緯を確認する正式な書簡が発送されたことも、まだ知らない。
それぞれの場所で、少しずつ物事が動き始めている。
しかし、そのすべてが、今すぐエレノアのもとへ届くわけではなかった。
彼女は灯りを落とし、寝台へ向かった。
父の返事が届くまでには、まだ時間がかかるだろう。
王宮の判断がどのようなものになるのかも、分からない。
それでも、明日の朝にはまた、庭園に光が差し込み、ロシュフォール家の一日が始まる。
エレノアはその当たり前の時間を思い浮かべながら、静かに目を閉じた。




