番外編① 鉄仮面が敗れた夜 ――辺境伯ゲルハルト視点
完結作にお付き合いくださった皆様へ、ささやかな贈り物を。
本編を一人称で語り続けたエルゼ様――そのすぐ隣で、あの「鉄仮面」が何を見て、何に敗れていたのか。
初対面のあの日の夜を、今度はゲルハルト閣下の側からお届けします。
本編第3〜4話のあたり。ネタバレはございませんので、どうぞご安心を。
俺は、数えられるものしか信じない。
剣で断てる敵の数。冬を越すために積み上げた薪の量。飢えた領民の腹を満たすのに、あと金貨が何枚足りないか。
鉄と数字。それだけが裏切らない。
この痩せた荒野で辺境伯などという呪いを背負ってから、俺はそう決めて生きてきた。
だからあの女が――王都から追放されてきた公爵令嬢が、俺の帳簿を一瞥して「三箇所、間違っておりますわ」と言い放ったとき、俺は本気で斬り捨てようかと思った。
その帳簿は、文官長のハンスが三日を費やし、俺自身が確認したものだ。舞踏会と宝石にしか興味のない王都の令嬢に、覆せるものではない。
そのはずだった。
女は、羽根ペンを奪うように取ると、立ったまま、余白に見たこともない表を書きつけた。項目を二つの列に分け、線を引き、数字を移し替えていく。その指先には迷いがなかった。まるで、暗い鉱脈の奥へ、光の当たる坑道をまっすぐ通していくように。
そして――金貨五十枚。
俺たちが見落としていた損失を、彼女は数分で暴き出した。
五十枚。
この地の全住民が、数ヶ月飢えずに済む金だ。それが、俺の「確認した」帳簿の中で、幽霊のように行方をくらませていた。
部屋が静まり返る。ハンスが、青い顔でガタガタと震えていた。
俺は、無言でその紙を手に取った。
……悔しさよりも先に来たのは、得体の知れない寒気だった。この女は、俺が武で守ってきたものを、数字ひとつで守れてしまう。俺が一生かけても覚えられぬやり方で。
「貴様、何が目的だ」
俺は女の顎を、指先で持ち上げた。凍える者を、脅せば正体を現す。王都から流れてくる連中の目的など、決まっている。金か、後ろ盾か、俺という辺境の駒を使った復讐か。
どうせそのどれかだ。そう決めつけていた。
だが、女は俺の指を静かに払いのけて、言った。
「泥にまみれても、立ち上がろうとする人たちが、不当に飢えるのは……好きではありませんの」
――俺は、息を呑んだ。
その一言が、なぜ剣よりも深く刺さったのか、そのときの俺には説明できなかった。
俺が知っている「王都の人間」は、泥を見れば裾を持ち上げて眉をひそめる連中だ。飢えた領民の顔など、地図の染み程度にしか思っていない。
なのにこの女の瞳には、氷の仮面の裏側で、確かに熱があった。俺の領民を――一度も会ったことのない、痩せた者たちを想う熱が。
「三ヶ月だ」
気づけば、俺はそう言っていた。
「三ヶ月以内に、帳簿の数字で俺を納得させてみせろ」
追い出すための猶予のつもりだった。どうせ王都育ちの令嬢だ。泥を吸えば音を上げる。その日を待てばいい。
――そう、自分に言い聞かせた。
◇
その夜。
俺は、我ながら愚かなことをした。
空いていた執務室――客室ではなく、あえて埃と陳情書に埋もれた最悪の部屋を与えてやった、あの一室の前に、俺は足を運んでいた。
もう泣いて逃げ出しているだろう。荷物をまとめて、朝には王都へ帰る算段でもしているだろう。それを確かめて、鼻で笑ってやるつもりだった。
扉の隙間から漏れる、安物のランプの灯り。
俺は、そこで見たものに、動けなくなった。
女は、宝石のついたドレスを脱ぎ捨てていた。丈夫な綿の袖を肘まで捲り、長い金髪を無造作に一本の紐で束ね、床に膝をついて――雑巾で、机を拭いていた。
白かったはずの指先は、黒く汚れていた。爪の間に埃を噛ませ、それでも彼女は、地層のように積み上がった陳情書を一枚ずつ手に取り、籠に振り分けていく。
『三年前の炭鉱事故、遺族への補償未払い』
『橋の崩落、放置三ヶ月』
……それは、俺が処理しきれず、見て見ぬふりをしてきた「悲鳴」の山だった。武で敵は断てても、この紙の山だけは、俺には斬れなかった。
その山に、王都から来たばかりの女が、たった一人で挑んでいる。誰に命じられたわけでもない。俺に取り入るためだけなら、こんな汚れ仕事を選ぶ必要などないのに。
(……なぜだ)
俺の領民のために、俺よりも汗を流している。俺に恐れを抱くでも、媚びるでもなく、ただ、目の前の混沌を、自分の手で秩序に変えていく。その横顔は――不覚にも、美しいと思った。
「氷の令嬢」だと? 笑わせる。あんなに熱い背中を、俺は他に知らない。
俺は、声もかけずに踵を返した。
顔が、妙に熱かった。鉄の匂いにしか慣れていない鼻の奥が、彼女の焚いた粗末なランプの油の匂いを、なぜかいつまでも覚えていた。
廊下で、俺は近くにいたハンスを呼び止めた。
「……おい、ハンス。あの女が書いた、複式とかいう計算。明日、俺にも詳しく説明させろ」
「……は? 閣下が、経理を、ですか」
ハンスが目を丸くした。無理もない。剣より重いものは帳簿だと公言してきた男が、自ら数字を学ぼうというのだ。
俺は答えなかった。答えられなかった、と言うべきか。
領地のためだ。そう思おうとした。あの技術が本物なら、学ばぬ手はない。
だが、廊下の闇の中で、俺は正直に認めるしかなかった。
――俺が本当に知りたいのは、複式簿記などではない。
あの女が、なぜ泥の中であんな顔ができるのか。その一点だ。
俺は、数えられるものしか信じない男だった。
だが、この夜、俺は生まれて初めて、数えられないものに敗れた。
その名前を、俺はまだ知らなかった。
――知るのは、もう少し、先の話だ。
「鉄仮面」の側から見た、あの初日の夜でした。
数字でしか世界を測れなかった男が、数えられないものに出会ってしまった――執着の、いちばん最初の一滴です。
本編を読み返すと、彼が三ヶ月の猶予を出した理由も、翌日ハンスに複式簿記を習っていた理由も、少しだけ違って見えるかもしれません。
また気が向いたときに、別の誰かの視点でこの世界を覗きに来ます。奇跡の香りが、皆様の日常にも届きますように。




