エピローグ:世界で一番、不器用で幸福な帳簿
ザイフリート領の春は、かつて「鉄の匂い」しかしないと言われていた。
けれど今のこの地を吹き抜ける風は、色とりどりの花々の香りと、活気ある市場の喧騒、そして焼きたてのパンの匂いに満ちている。
私は、領主館のバルコニーで、一冊の分厚い革綴じの帳簿を閉じた。
そこには、もはや「神の数式」などは一行も記されていない。
代わりにあるのは、各村からの収穫報告、新しい街道の舗装計画、そして……。
「……お母様、また数字を睨んでいらっしゃるの?」
私のドレスの裾を、小さな、けれど力強い手が引いた。
銀色の髪を揺らし、ルビーのような瞳を輝かせているのは、私とゲルハルト閣下の間に授かった第一子――エルナ。
「ええ、エルナ。……数字は嘘を吐きませんもの。……貴女も、お父様のように剣ばかり振っていないで、算盤を覚えてくださる?」
「えーっ! 私はお父様のように、お母様を守る最強の騎士になるのよ!」
胸を張る小さな娘の姿に、私は思わず笑みを零した。
彼女の首筋には、もちろんバーコードなどない。ただ、健やかに脈打つ、温かな命の鼓動があるだけだ。
「……。エルゼ。また娘を論理攻めにしているのか」
回廊から、低い、けれど以前よりもずっと柔らかな響きを持った声が届く。
ゲルハルト閣下。……彼は数年前よりも少しだけ目尻に皺が増えたが、その圧倒的な存在感と、私に向ける狂おしいほどの執着は、微塵も衰えていなかった。
「論理攻めだなんて。……。私はただ、この子の将来の『収益性』を高めようとしているだけですわ」
「……。フン。……。相変わらずだな、貴様は」
ゲルハルトは私の腰を抱き寄せ、エルナをひょいと肩車した。
かつては「鉄の辺境伯」と恐れられた男が、今や領民たちから「子煩悩な名君」として慕われている姿を、当時の王都の連中が見たら腰を抜かすでしょうね。
「……。そういえば、閣下。……王都のジュリアン様から、定期報告が届いていますわよ」
「……。あの『公式なゴミ』か。……。まだ元気に倉庫番をしているのか?」
「ええ。……。今では王都の物流を支える、最も几帳面な事務官として重宝されているそうですわ。……。彼、私に追放されたことで、ようやく自分の『適正』を見つけたようですわね」
私たちは、夕暮れに染まるザイフリートの街並みを見下ろした。
魔法が消え、神のシステムが沈黙したあの日。
世界が崩壊すると予言した「観測者」の言葉は、見事に外れた。
人々は、不便さを知恵で補い、病を薬草で癒し、遠く離れた者とは馬を飛ばして言葉を交わす。
そこには、計算され尽くした「最適解」はない。
けれど、迷い、間違え、それでもなお「明日をより良くしよう」と足掻くエネルギーが、この世界を以前よりもずっと鮮やかに彩っている。
「……。エルゼ。……。俺は、神のいないこの世界が、たまらなく愛おしい」
ゲルハルトが、私の耳元で囁く。
「……。貴様の知恵が、ただの『一人の女の努力』として実を結び、俺の愛が、ただの『一人の男の執着』として貴様を繋ぎ止める。……。これ以上に正しい理屈が、他にあるか?」
「……。ええ。……。私も、そう思いますわ、閣下」
私は彼の胸に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
高度な化学で合成された香水ではない。
彼の汗の匂い、鉄の匂い、そして、私たちが共に築き上げてきた「日常」という名の、何よりも贅沢な香り。
私の帳簿の、最後の一行。
そこには、消えることのない黄金の文字で、こう記されている。
『――愛:無限大。……。本日の収支、計測不能なほどの幸福。』
氷の令嬢の逆襲は、ついに「永遠の愛」という、最高の黒字決済をもって幕を閉じる。
ザイフリートの風は、今日もまた。
新しく、甘美な、奇跡の香りを運んでくるのだから。




