プロローグ 『閉じられた眼』
『大丈夫ですよ、コウさん。私、こう見えても実は強いんです』
いつだったか、彼女がそんなことを言っていたことをコウは思い出す。
まるで全身が炎に包まれているかのように熱くて、叫びたくなるほどの痛みを感じながら――いや、腰から下の感覚はとうに消えているのだが――、必死に体を動かす。
腰から下の感覚がないのは非常に致命的なことであるというのを、コウはよく知っている。
―――だが、それが何だ。感覚がない、たったそれだけのことだ。
今のコウにとっては、下半身の感覚などなくても最悪、腕や肩の力と感覚さえ残っていればそれで良いのだ。
力なく地面に崩れ落ちたその体を引きずって、そばに倒れている彼女の元へとコウは己の体を近付ける。
―――やっと救われたのだと、報われたのだと信じていたのに。
だんだんと痺れ始めてくる体に鞭を打ち、ひたすらに、憑かれたように、脇目も振らず進んでゆく。
腕を動かすたびにぴちゃぴちゃと水の音が聞こえて、不思議に思ったコウがふと首を動かしてみれば、赤黒い水たまりの上にいた。
それはおそらく人間が誰しも持っている液体なのだろうけれど、今のコウがそれが何なのか考えることはないだろう。
現に彼は、
―――白と紺に赤黒い色は合わないな。
―――ああ、自分の服も汚れている。洗濯が面倒くさい。
なんて、考えてしまうくらいなのだから。
それほどまでに、彼は今の現実を受け入れたくないのだろう。
「っ、はぁ、」
だんだん視界がぼやけてきたのか、コウの進む速度が遅くなってゆき、表情にも焦りが見え始めてきた。
―――息苦しい。視界も変だ。
―――違う。
―――違う、そんなことはない。だって俺は、
精神的にも体力的にも追い詰められてきているが、どうにかいつも通りに保とうと、彼女のことを考える。
『服、汚れちゃいました……でも大丈夫です。洗濯は得意ですから!』
きっと今すぐ起きて、あの日のようにそんな軽口を叩いてくれるんじゃないか―――、
「――■■、」
そんな一縷の望みをかけて、彼女の名を呼びながら手を伸ばす。
けれど、現実はそう甘くなかった。
コウは、彼女の手に触れた途端、己の残り少ない血の気が引いたのを感じ、咄嗟に手を離した。心臓の鼓動が、無意味に、けれど意味ありげに早くなる。
―――嘘だ。
先ほどまで感じられた体温が、何度も触れたその優しいあたたかさが、一切感じられなかった。
―――嘘だ、嘘だ。
まるで氷のような、鉄のような、冷たいその手。
「なあ、嘘だよな」
コウがそう呟いても、問いかけても、揺さぶっても、彼女の反応はない。ただコウの瞳に映るのは、微動だにしない彼女の空虚でひどく濁り始めた青い瞳だけ。
―――悔しい。
そんな感情が、心の奥底からふつふつと湧き上がってくる。
守りたいと思ったのに、そばにいたいと思えたのに、それさえできない、守れない自分の不甲斐なさに嫌気がさして、ただただ虚しくて、悔しくて。
嗚呼、
―――きっと、これは夢だ。
あんなにも綺麗で、美しいと言わざるを得ない清廉さを持っていた、天の使いとさえ言われ、崇められていた彼女。
荒れていた己を優しく受け入れてくれて、時には怒ったり、一緒に悩んでくれて、本当にあたたかかった■■。
そんな彼女の人生がこんな終わり方だなんて、他の誰かや神が許したとしても――コウは決して許さないだろう。
彼女の笑顔がもう一度見れるのなら、彼女がこんな結末を迎えずに笑っていられるのなら、コウはどんなことだってやれると信じている。
例えば、彼女を■した元凶を同じ目にあわせたり―――
「なら、全部壊しちゃおう?」
唐突に、声が聞こえた。
そこには誰もいないはずなのに、誰も残らなかったはずなのに、誰も彼も消されたはずなのに。
そこに一人、少女がいた。
異質。
異形。
異色。
異彩。
異端。
どうしてもそんな言葉しか出てこなかった。
それくらいこの場に似合わないのだ、この異様な場所で微笑んでいる少女は。
「壊そうよ、何もかも」
「力がないなら、■■■が分けてあげる」
―――壊す、力。
コウは、己の心臓の鼓動が早くなったことに驚きはしなかった。けれど、呼吸が先ほどより安定し、完全に麻痺していた下半身も徐々に感覚を取り戻し始めていることには少し驚いた。
―――壊せば、戻る?
体の異常はほぼほぼ回復してきたが、だんだん視界が狭くなってきているような気がした。黒い靄がかかって、少し頭が痛いような――まあ、きっと気のせいだろう。
コウは自身の思考が狂い始めていることに気付かない。けれども■■■は気付いているのかいないのか、笑顔を浮かべたままコウに手を差し伸べる。
「本当に、いいのか」
「もちろん! 少しお礼として色々ともらうけれど――それは後でいいかな。それじゃあ、」
差し伸ばされたその手を取れば、ソレが、■■■が、まるで仮面を貼り付けたかのような笑顔のまま言ったのだ。
「あなたも、■■■■■になろう?」
―――その日、時計の針は進み出した。




