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3:『それは平凡というべき日常』
何が変わったわけでもない。
……そう思えるようになったのは、『朽木 美津弥』が転入してきて一週間が過ぎた頃だった。
俺の受け持ちである『一年F組』には、ちょっと変った連中が集められている。『転入生』も、ある意味で変わり者としてクラスの空気に溶け込んでいた。
美津弥本人は、どこか感情を読ませない空気を漂わせているが、かといって、他の生徒を邪険にしているわけでもない。
俺自身も、彼女に初めて会った時感じたような『朽木美津子』の陰を、美津弥に重ねて見るような事などほとんどなくなっていた。
――実際のところ、日常的に接するようになった今、多少似ていると思えるのはその容姿だけであって、性格に至ってはほとんど別人といってもよかった。
(きっと『彼女』の遠縁にあたるんだろうな……従姉妹とか)
と、落ち着きを取り戻しつつある自分に、少し安堵していた。
*
「――と、いうわけで」
ショートホームルーム。俺は少し間を置いてから言葉を続けた。
「……来週から夏休みになるのだが――」
いえぇぇええいっ!!
……ノリノリだな。
まあ、続く言葉を知っているからだが。
「そして明日からは――念願の学期末テストだ」
ブウゥゥゥ――!!
……何でこいつらこんなにテンション高いんだよ。
「あー……今から勉強しても遅いから、特に何も言わないが……」
そう言って美津弥に目を向け、
「お前は大丈夫か? 朽木」
………
クラス中の視線が朽木に集まる。
「――あ、ええ。大丈夫………ですか?」
「……俺に聞くなよ」
「せんせー!! 私、ヤバいっ!!」
「お前は俺にどうしろって言うんだ!?」
きっちり箱石要にツッコミを入れてから、俺は「んじゃ、かいさーん」と号令をかけた。
俺の受け持つクラスでは、『きりーつ、礼』というお決まりの号令はかけない。
俺自身、そういう挨拶を好まないし、このクラスの奴らも同じだ。まあ、そんなものがなくても、
「せんせ、おつかれー」
「また明日なー」
「さいならー」
と、声をかけてくる奴らだから、特に気張ってする必要もないと思っている。
「……でも、言葉遣いはなんとかしないとなぁ」
俺は良くとも、他の先生方には悪印象を与えかねない。
「んなこと気にしてんじゃねぇって」
「お前が、一番、問題なんだよ、箱石」
「え、マジ?」
真剣に驚いた顔で言うなよ……。
「お前なぁ……」
「あー、『お前』とか言うなよー……その言い方ムカつく。『要』でいいって。『箱石』って言われてもなんかヤーダしさー?」
「……なんか、今日は無駄にテンション高いな」
いつも以上にコロコロ変わる要の表情を見て、いつも以上に疲れた声で訊ねてみる。
「あ、分かる?」
なぜか嬉しそうに擦り寄ってくる要。
「じゃあさ~……ハイッ」
………手?
「いや、わかんないって――」
「もう~……今日、私の誕生日じゃん!」
知らねぇよっ!
……あ、いかん。箱石の所為で、最近俺もちょっとおかしい。
「なんかぁ~ちょーだーい?」
「…………」
うるうる……と小柄な要が上目遣いをしても、いつもとあまり変わりはない――のだが……
「あ、あまり近づくなっ」
その……なんだ……こんなやつでもそれなりに胸があたって……
「や、何? ……もしかして、照れてる?」
思わず顔を赤くしている俺に気を良くしたのか、ニヤニヤ笑いながら、箱石がますます体を近付けてくる。
―――ねぇ……
『先生』?―――
――っ!
「…………ぇ?」
……要が、尻餅をついた状態で、呆然と俺を見上げていた。
「――――ぁ……」
最初、なぜ要がそんな状態で居るのか分からなかった……が、すぐに理解した。
――俺が……箱石を?
自分の手が、要を突き飛ばした状態のまま固まっている。
「あ……えっと………」
訳が分からないまま硬直した。
そしてそんな俺が落ち着くより、要が立ち上がるほうが早かった。
「あの……ごめん、せんせ――」
要が教室から飛び出す――!
「あ、ちょっ……!」
呼び止めようとした俺を見ようともせず、要は廊下を全速力で走り去っていった。
「………」
あとに残されたのは、呆然と立ち尽くした俺と、教室に残っていた数名の生徒達。
「………」
俺の足は、そこに縫い付けられているかのように動こうとしない。
(なに……やってんだ、俺は……)
これが後悔というものかと、要を追おうとしない体を冷静に分析する頭。
追ったとして、何が出来るわけでもない。
それどころか……もしかすると、彼女をさらに傷付けるかもしれない……と恐怖している。
(……バカげてる!)
負の感情に引きずられないように腕を振り上げて、俺は遅れながらも、要の後を追った。
**
要を突き飛ばした理由はわかっていた。
俺は要の姿を探しながら、冷静なようで混乱している頭を少し恨んだ。
そう……理由はあの言葉だ。
《――『先生』》
……未だ過去を引きずっているのかと思うと、こんなにも女々しい自分が嫌になる。
教室を跳びだして、最初に見たのは下駄箱。
……彼女の靴はまだあった。
教室にも、鞄が残っていたはずだ。
「いくら逃げ出したといっても、裸足じゃ出ていかないだろうな」
要がまだ校舎内に残っている事がわかって、俺は少しホッとしていた。
校舎内なら、なんとか捕まえることが出来るかもしれない。
「――先生!」
真後ろで声がかかった。
「……朽木」
そこには、息を整えている朽木美津弥の姿があった。
「先生! 須藤先生が、要ちゃん見たって!」
思わぬところからいきなり手がかりが飛び込んできて、俺は思わず叫んでいた。
「!! 本当か!? で、どっちに行ったんだ?」
「え――? あ……えっと――」
俺の言葉に、美津弥は何かに気付いた顔で、
「聞くの……忘れました」
「………は?」
「………ぇと……」
すす――っと、急速に冷めていく音が聞こえるようだった。
「――ダメじゃん、朽木」
「ご……ごめんなさい」
顔を真っ赤にして縮こまっていく美津弥。
そんな彼女を見るのも初めてだが、さっきみたいに大声で叫ぶ姿も初めて見た。そう思うと、俺は不意に笑みをこぼしてしまった。
「いや、おかげで冷静になれた」
意外と激情家な美津弥の頭に、ポンッと手を置く。
「あ……」
「手掛かりは掴んだんだ。急いで須藤先生を探そう」
「…はい」
まだ少し赤くなっていたが、美津弥は落ち着いた口調で頷いた。
*§
須藤美和先生に聞くと、彼女は職員室横の階段を駆け上がっていったのだと言った。
「職員室横というと…」
いつも使っている階段だから、すぐにその先に思い至った。
「――屋上!?」
きっと要は、人気のない方へと走っていったのだろう。職員室横の階段なんて、職員室に用事がある生徒ぐらいしか使わないし、その上は、出入り禁止の屋上だから、それほど人通りは多くない。
「まったく……どんな体力してるんだよ」
思わずため息が出てしまう。屋上まで駆け上がるなんて体力は、三十路過ぎの俺には到底考えられなかった。
「若いって良いよな」
冗談めかして隣に立つ美津弥に話し掛けると、彼女はだいぶ落ち着いたのか、小さく笑みを浮かべた。
屋上へと続く階段を昇り始めると、美津弥は真剣な声で、
「何で、あんな事したんですか?」
と聞いてきた。その声は少し怒っているような気がする。
「………」
でも、それには答えられない。たとえ彼女が真剣だとしても。
「……私には言えませんか?」
「………ああ」
短く答えた俺に、美津弥は少し不機嫌になりつつも、「じゃ、いいです」と、あっさりと引き下がった。
「でも、箱石さんには話してください」
「………」
「それが彼女にしてあげられる謝罪だと思います」
美津弥はそれだけ言って話を終わらせた。
「………」
俺はただ、黙り込むだけ。
彼女が言っている事はよくわかる……だが、それは出来ない相談だった。
「……言えない」
俺は――言うだけ言って終わらせた彼女に、再び火種を落としてしまった。
「!!何故です!? 要に言い訳もしないで、どう謝ろうって言うんですか!?」
たぶん俺は、あまり頭が良くないのだろう。
物忘れは酷いし、考えなしな行動だってする。その上、嫌な記憶だって、未だにうまく忘れる事が出来ないのだから。だから、
「っ!煩い! その顔でそんな事を言うな!!」
と言ってしまってもおかしくないと、気付くべきだった。
―――。
「………ぇ?」
美津弥は、おかしな顔で固まっていた。
俺の言葉に、顔が怒りから驚きではなく、半笑いに変わる。
しまった……と、気付いた時には遅かった。
「どういう……意味ですか?」
おかしな顔をしたまま美津弥が聞いてくる。
「私が……関係していることなんです……か?」
何故か、目に涙を滲ませて再び聞いてくる。
「………おまえは関係ない」
俺はソコだけでもきっちりさせておこうと答えていた。
「じゃあ――……誰が関係してるんですか?」
だから――言えるわけないだろう!!
そう叫びたいのをぐっと堪えて、俺はいつのまにか止まっていた足を再び動かし始めた。
「……誰なんですか?」
その場から動かないまま、しつこく聞いてくる美津弥。
「………」
何も聞こえていないというように、美津弥の声を無視して足を上げ続ける。
しかし、
「――そういえば……」と、呟いた美津弥の声に俺の足が止まった。
「……先生、確か三十一歳なんですよね? 要から聞きました」
……そんなところからバレるとは、思ってもみなかった。
「憶えてますか? 初めて私を見た時、先生……酷く驚いてましたよね?」
……今度要には、あまり人の事を吹聴するなと言っておかないとな。
疲れたため息を洩らして、右手で顔を覆う。
「知ってました?
私の母も、同い年なんです」
――!!
思わず振り返っていた。
それを見た美津弥は、何かが確信に変わったという顔をした。
「――…そうなんですね? 先生は、私の母親――『朽木 美津子』を知っているんですね?」
その日の朝、
平凡な日だと思っていた。
一週間経っても何もないのだから、大丈夫だと思った矢先だった。
何処で、何が狂ったのかはわからない。
ただ、
自分が犯したミスだとは気付いた――。
「ああ……そうだよ。俺は、君の親戚の誰かが『彼女』だと思っていたんだが……そうじゃなかったんだな?」
足が震えた。
それは恐怖か? それとも自分でも気付いていない、何かの喜びか?
ただ、昔の……『あの光景』を見た次の日のように――どこか心の一部が凍ってしまったような笑みを浮かべて、
「『朽木美津子』は、俺の同級生の一人で…クラスメイトで……これまでの人生でたった一人、好きになってしまった女性だよ」
――せんせぇ?
!?
俺は弾かれるように顔を、声がした方へ向けていた。
「――…箱…石?」
屋上へと続く階段で、箱石は『何もかも』を見ていた。
その証拠に彼女の顔は――目は見開かれ、口は震え、両手は何かを耐えるようにぎゅっと握り締められていた。
……短い沈黙の後、ぽつりと
「そういうこと……だったんですね」
と、彼女は呟いた。
――そういう事?
「みっちゃんに始めて会ったあの時、先生……何かに耐えるような顔をしていました」
「……そうか……よく見てるんだな」
俺は、必死に隠してきた感情を二人に知られてしまったことで、ひどく気が抜けて、思わず階段にへたり込んでしまった。
「ほんと、おまえはよく見てるよ」
呆れて笑いも出てしまう。
「だって……私、先生のこと好きですから」
「……………はぁ?」
箱石の言葉は理解しづらく、ただ耳を通って、そのまま反対側に抜けていく。
「……きっと鈍感――もしくはガキなのね。うちのクラスの担任は」
呆れた口調で、いつもより砕けた言葉遣いの美津弥は、俺の耳を千切れるくらい引っ張って(「イテテテ……!?」)大声で叫んだ。
「せんせぇぇええっっ!!聞こえてましたかぁあああっっ!!」
――!!!?
「うおぉ!?」
「うわっ!? せんせ、大丈夫?」
いつもは自分が驚かせているにもかかわらず、要が心配顔で近付いてきた。
「大丈夫ですっ。これっくらいなんともありませんっ」
俺の代わりに美津弥が答える。
「大丈夫なわけないだろ!? 鼓膜が破れるぞ! つか、脳が死んじまうっ!」
「朴念仁は、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえっ!」
「そんな死に方出来るか!!」
「……死んじゃヤダよぅ」
間近に聞こえた涙声にギョッとして見ると、いつのまにか、要がすぐ近くまで顔を寄せてきていた。
身長差がある分――二段も上に立っているから、壁に手を突いて身を乗り出す様にしている要が、今にもバランスを崩しそうで……、
「――ちょっ! わ、わかった。大丈夫。つうか、さっきから死なないって言ってる。だから早く、その態勢をなんとかしろ!」
「………ぅん」
さっきから妙におとなしい要が何やら気色悪い感じがしたが、そんな事より今は、要の危険な態勢を――
つるっ
「……あれ?」
「マジっすか?」
思わず、要の口調がうつってしまう。
そして反射的に要の体を抱き留め、俺は……支えきれずに宙を舞った。
「……もう少し、俺を労ってくれ」
軽い絶望感に呟きながら、ふと、
階段落ちと階段落下はどっちが痛いのだろうか?
などと、下らないことが頭をよぎった。