嘘をつく密室
王城東棟。
神官長エルド・ヴァレンティスの執務室。
破壊された扉の向こうには、死の気配が残っていた。
窓から差し込む陽光が、床に広がる血痕を照らしている。
机から数歩離れた場所に、一人の男が横たわっていた。
白い神官服。
胸元を染める赤黒い血。
閉じられた瞳。
この国で最も高い地位にある神官の一人は、すでに冷たい遺体となっていた。
「……神官長エルド・ヴァレンティス」
服部宗平は、遺体を見下ろしながら呟いた。
その姿は、とても事件の捜査に訪れた人間には見えない。
だが。
「……へえ」
宗平の口元が、ゆっくりと持ち上がった。
「これは、なかなか……」
そして。
「……面白そうですね」
その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
ガイルは、眉間に深い皺を刻んだ。
「……おい」
「何でしょう?」
「貴様、人が死んでいるのだぞ」
「ええ。見れば分かります」
「では、なぜ笑っている?」
宗平は少しだけ首を傾げた。
「……いけませんか?」
「当然だ!」
ガイルの怒声が室内に響いた。
しかし、宗平は気にした様子もなかった。
「……そうですか」
それだけ答えると、再び遺体へ視線を戻した。
ガイルは拳を握りしめた。
「……公爵閣下」
彼は背後に立つ男性へ向き直った。
「本当に、この男へ捜査を任せるおつもりですか?」
「……ああ」
「しかし、この態度は……」
「心配はいらん」
公爵は穏やかに答えた。
「宗平は、事件になるといつもこうだ」
「……いつも?」
「普段は寝てばかりいる男だがな」
公爵は宗平の背中を見つめた。
「こういうときだけは、誰よりも生き生きする」
ガイルは言葉を失った。
その隣で、レオンが興味深そうに宗平を見つめていた。
爽やかな笑みを浮かべた青年は、静かに尋ねた。
「……公爵閣下」
「何だ?」
「宗平殿は、これまでも事件を解決されたことが?」
「何度もな」
公爵は頷いた。
「私が保証しよう」
そして、楽しそうに目を細めた。
「……見ていれば分かる」
◇
「……では!」
宗平が突然、声を上げた。
黒いコートを脱ぎ、近くの椅子へ掛ける。
そして、シャツの袖を捲り上げた。
「始めましょうか!」
ガイルが眉をひそめる。
「……何をだ?」
「検証ですよ」
宗平は笑顔で答えた。
「せっかく、こんな興味深い事件に出会えたんですから」
「……せっかく、だと?」
ガイルのこめかみが動いた。
しかし、宗平はすでに遺体の傍らへしゃがみ込んでいた。
「……まずは、こちらから」
胸元の傷。
神官服の裂け目。
血液の付着。
そして、傷の位置。
宗平は慎重に衣服を開き、傷口を観察する。
「……ふむ」
続いて、遺体の両手。
指先。
爪。
手首。
宗平は左手を持ち上げた。
手首に、薄い赤紫色の痕が残っている。
「……おや?」
その目が、わずかに細くなった。
「これは……」
彼はしばらく痕を見つめた。
そして、嬉しそうに笑った。
「……ふふっ」
ガイルの眉が動く。
「……何がおかしい?」
「いえ、まだ何とも」
宗平は答えた。
「ただ、少しずつ分かってきましたよ」
次に、右手。
指先を調べ、爪の周囲を確認する。
さらに、首元。
肩。
衣服の襟。
そして、背中。
宗平は遺体を慎重に横向きにし、衣服の状態を確認したあと、元の姿勢へ戻した。
その動作は、驚くほど丁寧だった。
ガイルは黙って見守っていた。
レオンも、興味深そうに観察している。
そして、公爵は。
穏やかな笑みを浮かべていた。
まるで、宗平が何を見つけるのかを楽しみにしているように。
遺体の検証を終えた宗平は、ゆっくりと立ち上がった。
「……さて」
彼は部屋を見渡した。
「次は、こちらですね」
そして。
突然、床に這いつくばった。
「……は?」
ガイルが間の抜けた声を漏らした。
宗平は腹ばいになり、床板の隙間を覗き込んでいた。
顔を床に近づけ、木目や埃を観察している。
「……おい!」
ガイルが声を上げた。
「貴様! 何をしている!」
「……床を見ています」
宗平は顔を上げずに答えた。
「それは分かっている!」
「では、問題ありませんね」
「問題しかないだろう!」
宗平は気にせず、床板の隙間を調べ続けた。
指先で埃をなぞる。
木目を観察する。
そして、小さな傷を見つける。
「……へえ」
嬉しそうな声が漏れた。
そのまま、今度は机の下へ潜り込む。
ガイルは呆然とした。
「……公爵閣下」
「何だ?」
「……あの男は、いつもああなのですか?」
「ああ」
公爵は楽しそうに頷いた。
「実に頼もしいだろう?」
「……頼もしい?」
ガイルは宗平を見つめた。
机の下から、黒い靴だけが見えている。
「……私には、そうは見えませんが」
公爵は声を立てずに笑った。
「そのうち分かる」
レオンも思わず微笑んだ。
「……確かに、興味深い方ですね」
そのとき。
「……ああ!」
机の下から、宗平の声が響いた。
「なるほど!」
ガイルが眉をひそめる。
「……今度は何だ?」
「いえ、ちょっと!」
宗平は机の下から這い出てきた。
その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
「……面白いものを見つけましてね」
「……何だ?」
「あとで説明します!」
「今、説明しろ!」
「まだ全部見ていませんので!」
宗平は立ち上がった。
そして、今度は書棚へ向かう。
本の並び。
埃。
棚板の傷。
机の上に残された羊皮紙。
それらを順番に調べていく。
まるで、宝探しをしている子供のようだった。
次に宗平が向かったのは、破壊された扉だった。
「……ガイル団長」
「……何だ?」
「扉を破壊したのは、三人の騎士でしたね?」
「ああ」
「扉が開かなかったことは確認していますか?」
「当然だ」
「では、閂が掛かっているところを、誰かが直接見ましたか?」
ガイルは眉をひそめた。
「……何?」
「外側からでは見えませんよね?」
「……確かに」
宗平は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます!」
そして、床に落ちていた小さな金属製の留め具を観察する。
「……ふむ」
さらに、破壊された木片を拾い上げた。
その一つに、小さな丸い穴が開いていた。
穴の縁には、何かが擦れたような痕がある。
「……おやおや」
宗平の目が輝いた。
「これは、なかなか……」
彼は木片を光にかざした。
そして、静かに笑った。
「……ふふっ」
ガイルが低い声で呟く。
「……また笑っているぞ」
レオンが苦笑した。
「……本当に、楽しそうですね」
公爵は満足そうに頷いた。
「……ああ」
そして、静かに呟いた。
「これが、宗平だ」
◇
宗平は最後に、窓へ向かった。
窓を開けると、冷たい風が室内へ流れ込んできた。
外には、白い砂利が敷き詰められた中庭が広がっている。
「……ガイル団長」
「……今度は何だ?」
「昨夜、雨は?」
「降っていない」
「風は?」
「多少、吹いていた」
「……なるほど!」
宗平は窓枠へ顔を近づけた。
下側の木枠に、細い傷が走っている。
彼はその傷を指先でなぞった。
そして、窓の留め金を調べる。
外壁。
窓の下。
中庭。
再び窓枠。
「……へえ」
宗平の口元が持ち上がった。
そして。
「……ああ!」
突然、声を上げた。
ガイルとレオンが一斉に振り返る。
「……どうした!?」
ガイルが尋ねた。
宗平は答えなかった。
ただ、窓枠を見つめている。
そして。
「……そういうことですか!」
満面の笑みを浮かべた。
「……ははっ!」
小さな笑い声が漏れた。
宗平は窓を閉める。
そして、部屋の中央へ歩いてきた。
その表情は、先ほどまでとはまるで違っていた。
瞳が輝いている。
口元には笑み。
全身から、抑えきれない興奮が滲み出ていた。
公爵は、その姿を見て静かに微笑んだ。
「……見つけたか、宗平」
「ええ!」
宗平は嬉しそうに答えた。
「実に、面白いものを!」
◇
「……さて!」
宗平が声を張り上げた。
「皆さん、お待たせしました!」
ガイルが眉をひそめる。
「……何だ、急に」
「現場の状況について、説明しましょう!」
宗平は満面の笑みを浮かべた。
「まず、死因は胸部への刺創による大量出血と考えられます! 凶器は現場で発見された短剣である可能性が高い!」
彼は短剣を指さした。
「刃の形状と傷の状態には大きな矛盾がありません。ただし、同じ形状の刃物であれば同様の傷を作れるため、断定はできません!」
ガイルが口を開いた。
「……待て」
「次に、被害者の両手です!」
「待てと言っている!」
「目立った防御創がありません! つまり、刃を掴んで抵抗した痕跡は確認できない!」
宗平は楽しそうに続けた。
「犯人に不意を突かれたか、相手が危害を加えるとは思っていなかった可能性があります!」
レオンが瞬きをした。
「……ええと」
「さらに、左手首には圧迫されたような痕跡があります!」
宗平は遺体の手を示した。
「犯人が神官長の手首を掴んだのか、神官長が相手に掴みかかったのか。あるいは別の原因か。これだけでは分かりませんが、犯行時の接触を考えるうえで重要です!」
ガイルが眉をひそめた。
「……つまり、知り合いか?」
「その可能性はあります!」
宗平は楽しそうに頷いた。
「ですが、まだ決めつけてはいけません。警戒する暇もなく刺された可能性もありますからね!」
「……お、おう」
ガイルは思わず頷いた。
「そして、凶器です!」
宗平は続けた。
「この短剣は神官長自身の持ち物だったそうですね?」
レオンが答えた。
「え、ええ」
「つまり、犯人は凶器を持ち込む必要がなかった可能性があります!」
宗平は指を立てた。
「計画的な犯行だったのか、突発的な犯行だったのか。そこを判断するには、短剣が普段どこに置かれていたか、誰がその場所を知っていたかを調べる必要があります!」
公爵は、楽しそうに宗平を見つめていた。
「さらに、遺体の発見位置!」
宗平は続ける。
「遺体は机から少し離れた床に仰向けで倒れていた。目立った引きずり痕がないのであれば、そこで刺されたか、刺された直後に自力で移動した可能性が考えられます!」
ガイルは口を半開きにした。
レオンは目を丸くしている。
宗平は止まらなかった。
「そして、例の日本語の紙片です!」
彼は声を弾ませた。
「『四人目を探すな』。あの紙は遺体の背中の下から発見されました。しかし、それだけでは神官長が持っていたのか、犯人が置いたのか、最初から床に落ちていたのか分からない!」
ガイルが口を開く。
「……ちょっと待て」
「そして、最も重要なのが密室です!」
「待てと言っている!」
宗平は両手を広げた。
「神官長を殺害することと、部屋を密室にすることは別の行為です! 犯人が部屋を出たあとに施錠した可能性もある! そうであれば、殺害時刻と密室が完成した時刻には差がある!」
宗平は楽しそうに笑った。
「つまり!」
そして、三人を見渡した。
「今回の事件は、単なる密室殺人ではありません!」
ガイルがようやく口を開いた。
「……では、何だ?」
宗平は満面の笑みを浮かべた。
「**殺害の瞬間と、密室が完成した瞬間を、別々に考えなければならない事件です!**」
沈黙。
「…………」
ガイルは宗平を見つめた。
「…………」
レオンも宗平を見つめた。
宗平は、満足そうに頷いた。
「……以上です!」
さらに深い沈黙が訪れた。
やがて。
「…………は?」
ガイルが呟いた。
レオンが小さく首を傾げた。
「……申し訳ありません。途中から、少し……」
宗平は不思議そうに二人を見つめた。
「……皆さん、理解できませんでした?」
ガイルは思わず叫んだ。
「できるか!」
レオンは口元を押さえた。
笑いを堪えているのか、困っているのか。
恐らく、その両方だった。
宗平は少しだけ首を傾げた。
「……困りましたね」
心底残念そうに呟いた。
「せっかく、面白いところだったのに」
そのとき。
「……はははっ!」
突然、公爵の笑い声が響いた。
ガイルとレオンが振り返る。
公爵は、楽しそうに笑っていた。
「……公爵閣下?」
ガイルが驚いたように尋ねた。
公爵は笑みを浮かべたまま、宗平を見つめた。
「……相変わらずだな、宗平」
「……何がです?」
「お前は、事件になると本当に楽しそうだ」
宗平は肩をすくめた。
「……まあ、退屈はしませんからね」
公爵は満足そうに頷いた。
「……それでこそ、お前だ」
ガイルとレオンは、互いに顔を見合わせた。
そして。
「……公爵閣下」
ガイルが低い声で尋ねた。
「本当に、この男を信用しておられるのですか?」
公爵は静かに微笑んだ。
「……ああ」
そして、迷いなく答えた。
「私は、宗平を信じている」
その声には、揺るぎない確信があった。
「こいつは、少々変わっている。いや、かなり変わっている」
公爵は宗平を見つめた。
「だが、事件の真相を追うときだけは、誰よりも真剣だ」
宗平は少しだけ目を細めた。
「……買い被りすぎですよ」
「そうかもしれんな」
公爵は微笑んだ。
「だが、私はそうは思わん」
ガイルは黙っていた。
レオンも、静かに宗平を見つめていた。
そのとき。
「……さて」
宗平が突然、声を上げた。
「次は、誰に話を聞きましょうか!」
ガイルが眉をひそめる。
「……まだ何かするつもりか?」
「当然でしょう!」
宗平は満面の笑みを浮かべた。
「現場を調べただけで、犯人が分かるわけではありませんから!」
そして、楽しそうに続けた。
「ここからが、本番ですよ!」
◇
王城西棟。
重厚な扉の前で、四人の男が足を止めた。
アルベルト公爵。
近衛騎士団団長ガイル。
宮廷魔導士レオン。
そして、服部宗平。
「……ここだ」
ガイルが静かに告げた。
「バルディア侯爵閣下がお待ちだ」
宗平は扉を見つめた。
その口元には、まだ微かな笑みが残っていた。
「……神官長と口論していた人物、でしたね」
「ああ」
ガイルが頷いた。
「昨日の夕方、勇者たちが二人の口論を目撃している」
「……そうですか」
宗平は小さく頷いた。
「では、少しお話を聞かせていただきましょう」
公爵が静かに尋ねた。
「……宗平」
「何でしょう?」
「何か、気になることでもあるのか?」
宗平は少し考えた。
そして。
「……ええ」
静かに答えた。
「神官長は、何かを隠していたようですからね」
ガイルが眉をひそめる。
「……どういう意味だ?」
宗平は微笑んだ。
「それを知っている人間が、いるかもしれません」
そして、扉を見つめた。
「……さて」
その瞳に、再び楽しそうな光が宿った。
「侯爵様には、どんなお話を聞かせてもらえるんでしょうね」




