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百夜一夜物語(短編百篇企画)  作者: 矢久 勝基


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59/59

059永遠の三十秒

四題

ブラウン管、輝いていた時代、史上最年少、コンピュータ

 とても……静かな時間が流れている。

 ついさっきまで存在していた騒然とした空気が消え去り、目の前のすべてが塗り替わる。

 俺の心臓は止まっていた。全身への酸素の供給が喪失し、人生の火が消え逝く様を、自分自身で感じている。

 しかし、その火が消えるまでの三十秒……脳にはガンマ波という名の電気信号が、生まれてこの方一度もない勢いで駆け巡っていた。


 それは……海に潜るような感覚だった。空を舞う感覚とは違う。重い……しかし清々しい抵抗を感じる空間に、俺は投げ出された。

 そこには、様々な光景が浮かんでいた。幼い頃、ほんの数十メートルがはるか遠くに感じた三輪車での移動。母親が剥いてくれたゆで卵の白い楕円球。一生懸命工作したセロハンテーブだらけの、折り紙の魚……。

 形になる物だけじゃない。初恋の子に百円を借りたけど、使ったふりをして使わず、大切にしまったこと。どう考えても俺に非がないのに問答無用で説教されたこと。

 受かるはずのない大学に受かって狂喜乱舞したこと。憧れの先輩に握ってもらった手のぬくもり。町内会のお祭りでガラガラポンをしたら二等が当たった時の喜び……。

 ……海の中は、そんな光景で輝いていた。

 テレビに熱狂している己の姿。ブラウン管の向こうで主人公になっている男を、まるで自分のことのようにこぶしを握り締めて応援し、その勝利に感激したことも、中継の時間にやむを得ず家にいられない時、ビデオを録画したはずが、チャンネルが違っていてがっかりしたことも、その時壁に八つ当たりしていたことも、そんな俺を黙らせるために母親がくれたお菓子の味すら、五感に蘇る。

 これが走馬灯というやつなのか。今まで思い出すことすらできなかった記憶が、まるでドキュメンタリー映画のように俺を通り過ぎてゆく。映画と違うのは見ているだけではないところで、音も、匂いも、味も、痛みも……すべてが俺の感覚組織をなでて去っていく。

 母親にプレゼントをしたいからと、貝を象った美しい陶器を手に握りしめたまま……つまり万引きをして店を出たこともあった。トイレ掃除でふざけて水遊びしてたら、先生に見つかって説教された挙句、五時間目返上で水浸しになったトイレの掃除をさせられたこともあった。

 登校日を無くすために政治家になると豪語して選挙事務所を訪ねたら門前払いされたけど、候補者の老人に、

「キミはたぶん、希望者としては史上最年少だと思うよ」

 と褒められたこともあった。学生を卒業して自分に関係なくなったら途端にそんな熱は冷めてしまったが、確かに幼い頃、政治家を目指した時期があった。

 コンビニでバイトしたら、同じシフトに入った全然かわいくない後輩の女から「モテる私に好きって言われたらうれしいですか?」とか言われて反応に困った時もあった。

 朝まで麻雀したことも、朝まで酒を飲んだことも……挙句に疲れて男女混合でセックスもせずに折り重なって昼まで眠りこけたことも……。

 思えば……輝いていた時代だった。若いというだけで、輝いていた。つまらないこと、腹の立つこと、無力を痛感することもたくさんあったが、それでも、ただ無邪気にめいっぱい喜怒哀楽を表現していたことを、今思えば輝いていたのだと思う。


 ほしいものもたくさんあった。

 リーリエと言って分かるならリーリエ。クルーザーも欲しかったし、ゲーム内アイテムでどうしても欲しかったのに最後まで手に入らないものもあった。屋根付きのガレージも欲しかったな……。

 色々な場所に行った。様々な人たちにも巡り会った。数えきれないほどの活動にも参加してきた。

 スポーツも励んだ。三年間レギュラーになれなかったのに最後の大会で負けた時、ベンチで泣いていたのは、今になってみると少し不思議な感情ではあるが。

 不器用なりに、いくつもの夢を見た。当然のようにいくつもの絶望に切り捨てられた。一万円の増税に身をひしゃげながら、億単位の金を平気で横領する政治家たちを横目に映してきた。

 たくさんだまされた。気づかぬうちに搾取されてきた。国を始めとしたさまざまな権力構造が無理矢理金を徴収していく制度と特殊詐欺の境界があいまいに見えることさえあった。

 結局、誰が味方なのか、誰が敵なのか。友と呼べる存在は、本当の友だったのか。……俺は記憶の海の中で必死にもがきながら、様々な思いを巡らせた。

 人生とは何なのか。思えば地球にははるか高い空があるのに、活動範囲はたった数センチしかないダンゴムシのような一生を送った。コンピュータが一瞬で十七桁の計算を行うというのに、手元に必要な数値はいいところ七桁であった。

 無限に広がる世界で満足にできたことは、自分の両腕で届く範囲の出来事だけだった。その先はすべて関与できない出来事だったのに、世界はそちらがメインで動いていた。つまり、俺自身には必要のない出来事や理屈が、世界を動かしていた。

 ならば何のために俺はいた? この世に生まれて働いて税金を納めるためだけの存在だったのだろうか。

 守りたいものを守ろうとするだけで、金、金、金。何でもかんでも二言目には、金、金、金。

 人間の生きる目的は金なのか。死ねばあの世へは一円も持っていけない金のために、人間は生きているのだろうか。

 何のために俺は生まれ、生きたのか。失ったはずの人生がもう一度頭の中で繰り返されるだに、それは葛藤となった。

 本来、そのような葛藤は必要ないはずだ。だって、それもこれもすべて、無に帰すのが死なのだろう。どんなに腹を立てても、どんなに悔やんでも、それを御破産するのが死なのだから。

 しかし、そんな思いとは裏腹に、脳で枝葉を伸ばすニューロンは一斉に開花するように冴え渡っていく。

 あるいは、臨死体験した人が語る花畑というのは実際の花畑ではなく、こういう感覚が目覚めてみると花畑のように見えた……ということなのかもしれない。

 いずれにせよ、今まで生きた人生の意味を求め、心臓が止まって酸素の供給が滞ってからの三十秒……。

 俺の脳みそは、今まで一度も体験したことのない速度で、己の人生を洗い出している。


 しかし……死の瞬間、これほど深く、モノを考えなければならないとは思わなかった。

 これは皆が体験することなのだろうか。もしそうなのだとしたら、人生の最後の最後で、すべての死者は自分の人生を哲学していることになる。その答えがどうでも、死ねば同じと考えられるならいいが、脳の問いかけがそれを許さない。皆も覚悟した方がいい。死の瞬間、人間には人生最大の葛藤が待っているようだ。

 これは、ただ自分が描いてきた軌跡を確認するドキュメンタリー映画ではない。どうやら自分がどのように生きたかを自分自身でジャッジしなければいけないらしい。

 じゃあなんだ。俺の人生は何だったんだろう。俺は……何を振り返るべく、こんなものを見させられているのだろう。

 俺の人生は、どちらかといえば平々凡々だったと思う。人並みに夢を見て、人並みに恋をして、人並みに挫折して……

 一つ一つの場面を客観的に見れば、俺はずいぶん他人を傷つけてきたと思う。自分のプライドを守るために、自分の立場を確保するために、弱い者を叩いてきた。そして同じように、より強い者に叩かれてもきた。

 人間とは勝手なもので、平伏する態度をとる者には限りなく増長し、虫けらのような扱いをするが、ひとたび相手を恐怖させるとまるで腫れものを扱うかのような態度に変わる。

 畏怖するか馬鹿にするか、どちらかなのだ。その中間にあるのは無関心。

 ……そのどれでもない関係を探したいから、人は友を求めるのだと思う。その上で、友と呼べる人物など、年を追うごとに減っていくということは……つまり人間というものは、他人を等身大で見ることができない存在なのではないかと思う。人間の概念には〝平等〟というものが、限りなく希薄か、皆無なのだとも推測できる。

 それでも人は、人に関わって生きていきたいのだ。人を傷つけるのも含めて、人に関わりたい衝動がそれをさせている。「他人などいらない」と豪語する者ほど、結局どこかでコミュニケートを欲していたのだから。

 なにより、自分に最大の感動を与えてくれたのは、他人だった。人生でもっともうれしかったことも……やはり自己満足がさせたものではなかった。

 人間というものがどれだけ勝手な存在でも、人は人と関われなければ幸せにはなれない。

 若い時には気づかない。老いてようやく……それに気づかされる。


 俺はさらに記憶の海を泳いだ。たった数十秒のはずなのに、もう、数十年間泳ぎ続けているようにも感じる。死の直前は時間の概念が消失するというが、まさにそれが今、わが身に降りかかっていた。

 好きになった同じクラスの女子に、どうしても……どうしても告白できなかった子がいた。

 どうしても仲良くなりたくて、事あるごとに話しかけて、互いに打ち解けて誕生日のプレゼントをあげるまでになったのに……。

 いざ告白する段階となった時、俺の所属する野球部の他の男が好きだから応援してくれ、と言われ……告白する機会を永遠に失ってしまった。

 苦笑するしかない。あれは本当に苦い思い出であった。が……

 今も思うのは、それでも告白しておけばよかった。ヘラヘラヘラヘラ、薄い作り笑いに終始したことが悔やまれる。玉砕だとしても、もっと堂々としていれば。

 ……今になってもそのIFを思うことになるなら、やっておくべきだった。あの頃の自分にそう言ってやりたい。

 あそこで玉砕したところで、何も人生は変わらなかったのだろうが、きっと……今、この瞬間の感慨は、違ったものとなっていたかもしれない。


 走馬灯を巡っていくと、今みたいに、戻ってみたい人生の岐路がいくつもある。その時、別の道を歩んだらどうなっていたかというIFも、同じ数だけ浮かんでくる。

 だけど思うのだ。俺は馬鹿だから、もしいずれかの分岐点に戻ったとしても、同じ道を選ぶのだろう……と。

 お人好しで、自分に甘くて、臆病で……という救いようのない弱さもあった。しかし俺が俺である以上、思えば常に、もっとも俺らしい選択をしてきたのだ。

 正しい道、賢い道、効率的な道……いくらでもあった。だけど、その道をわざわざ踏み外して、俺の道を選んできた。正しいか正しくないか、ではない。それが俺だったし、俺の人生だった。そんな俺があの時に戻って、別の道を脇見なんてするだろうか。できるだろうか。


 他の人生を歩む誰かをうらやましいとも思わない。

 憧れる人物のようになりたいとも思わない。なぜなら、その人物の一部分に憧れたとしても、それはその人物が人生の時間を〝憧れる部分〟に振り向けた賜物であって、同じ時間配分が、俺という人間にできるとは限らないし、そもそも同じ境遇でなければそれはできない。もっと言えば、その人物とまったく同じ人生を歩まなければ手に入らないものだし、そうなった時、俺のできない苦労や、選択をした可能性が高いのだから、土台無理であった。

 誰かの何か一部分に憧れたとしても、その一部分だけを切り取ることなどはできないということだ。憧れる人物のようになるためには、憧れる人物にならなければならないことと同義であり、人生を総とっかえしたいような人物がいるかと言われれば、輝いているように見えた他人のどの人生を見ても、結末までを見たら、それほど突き抜けた人生はなかった。

 結局自分はどこまでも自分であり、自分の人生が自分に最適化されたものであったのだと思う。憧れの他人はその他人で、別の苦悩とストレスを抱えているのだ。その重さが自分の人生の苦悩よりも軽い保証などはない。ならば、自分に最適化された苦悩の方がまだましであった。

 人は結局、何度繰り返したって同じ人生しか歩めない。それが自分に最適化されているのだから。


 振り返りながら、思うことがある。

 生まれてから死ぬまで、実に様々な感情が動いた。怒りも悲しみも、喜びも驚きも……。

 それをそれぞれの色に分類するなら、四色しか感情というものはないのだろう。しかし実際はそれらの色が複雑に交ざり合って、言葉で表現できない感情もたくさんあった。

 でも、どんなに感情が複雑になろうとも、どんな流麗な言葉を並べたとしても、本当に人の心を打つのは、「ありがとう」とか「おめでとう」とか……そういう、単純で明快な言葉なのだ。

 どんな物語を紡ごうと、ぐっと心が詰まる瞬間というのは、「ごめんね」とか「さようなら」とか、子供でも言えて当然の感情が渦巻く出来事なのである。

 なのに、人は限りなく自分を飾り立て、余計な言葉に支配されていく。挙句の果てに「ありがとう」や「おめでとう」を忘れて、鉛のような生活を送っていくのだ。

 そういうことに心臓が止まってから気づかされるのも滑稽だが、こう……人生を総括してみると、つくづく幸せというものは青い鳥なのだなということに気づかされる。


 では、この走馬灯は何を語っているのだろうか。無駄な遠回りばかりを繰り返した俺に対する当てつけなのだろうか。この世で生きたことに対する、最後の懺悔の場なのだろうか。

 ……分からないが、人生を振り返るこの旅は、それほど不快ではなかった。嫌なこと、思い出したくもないこともたくさんあったはずなのに、それがすっと胸に入ってくる心地よい思い出となるのだ。その思い出が頭を巡る時、支配する感情は〝なつかしさ〟となる。たとえ苦々しい〝なつかしさ〟だとしても……。

 逆に言うと、思い出の少ない者の旅は、味気ないものなのかもしれない。

 俺は、いろいろなことを人生でおこなった。うまくいかないことがほとんどだったが、それでもそのいちいちに情熱を傾け、がむしゃらに生きた。今、その一つ一つが、胸の中できらきらと輝いている。

 そう思うと、死ぬ時の幸福感はなにか物質の有無ではなく、思い出の多さなのかもしれない。

 だって、いくら金があったって、得意先の名刺が何百枚とあったって、コレクターズアイテムを揃えたって、そんなものは一つも持ってはいけないのだ。

 あてつけ、懺悔と言ったが、振り返れる素材があること、それ自体が、記憶の海を辿る永遠の三十秒を彩る唯一の灯火であった。

 そういう意味では、〝死ぬ瞬間に、退屈しない生涯〟であった。そして、本当の幸せってなんだろうと思い始めると、それは、〝死の瞬間に幸せを感じること〟なのではないかとも思った。

 終わり良ければすべて良し。どんなに安寧な暮らしをしていても、死の瞬間、不幸や空虚に見舞われる人生というのは、やはりつらいのではないか。死が終着点であるなら、そのつらさを取り戻す術はないのだから。


 脳に最後の電気信号が駆け巡っている。壊れていく脳が、なんかのアニメの、自爆する基地のように意図しない電流を放電し続けている。あるいは脳全体でそれがショートしまくって、いつもは繋がらない記憶を呼び起こしている……のかもしれない。

 走馬灯の正体がそれであるなら、何とロマンティックなのだろう。意図しない誤作動が意図的に俺の一生を脳内のスクリーンに映し出しているのだ。

 平々凡々な人生だった。無力な人生だった。しかし……思い出の充実した人生だった。おかげで、孤独なはずの旅路に寂しさはなかった。

 俺は俺なりの人生を送った。空は、海は、陸は、宇宙は限りなく広いけれど、その深淵に触れることなく、小ぢんまりと生きた。

 知らないことばかりだった。理不尽なことばかりだった。しかしそれがなんだというんだ。

 何の知識も、何の不条理も、死後の世界にはついてこない。どんな財産も、どんな物も、地位も名誉も、何も持っていくことはできない。持っていけるものは、自分の力で作り出した、思い出だけなのだ。

 ならば、自分の両手をいっぱいに広げた範囲で起きた、ポケットの中の喧騒で十分じゃないか。

 そしてようやく、とある思いに行き当たった。

 この壮大なドキュメンタリー映画がジャッジさせようとしたのは、自分が幸福な人生であったかどうか……であったのではないか。

 そのために、幸福とは何か……という部分から哲学しなければならなかった。それを思い知らされるために、この永遠の三十秒が存在していたのではないか。

 人はきっと、己の幸せを目指して生きようとする。その究極が今であるのなら、自分が幸せだったのか。どのような状態を幸せと呼ぶのか。

 その答えは人によって違うのかもしれない。しかしいずれにせよ、それを考えるための旅が、命の火が消える三十秒間に行われた電気信号のやり取りだったのだとすれば、俺はその旅で一つ、うなずけるものを手に入れたのだと思う。


 ……そんな思考も、徐々に沈静化していく。胸いっぱいの思い出に抱かれて、そろそろ記憶の海の旅も終わりに近づいていたことが分かった。だって、今浮かんでいる思い出は、ついさっきの記憶なのだ。

 家族が集まっていた。家族が、俺との別れを惜しんでいた。

 死の直前……もちろん、ろくな会話も交わせなかったけど、彼らが何を言っているのかは分かった。俺の死など何とも思ってなかった奴もいたみたいだけど、それでも……俺が一番愛した人は俺の手を握り……泣いていた。嗚咽の中で、魂が消えるまで俺の手を握りしめ、その残り香を一ミリでも多く自分に刻みつけようとしていた。

 俺には……それが、温かかった。

 しかしそれはもう、記憶ではないのかもしれない。俺は俺自身の亡骸を天井の辺りから眺め、泣き崩れる最愛の人を眺めていた。

 ……いい人生だった。あなたのおかげで……


 そう思える最期の思い出が……静かに暗転していった。

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