第2節「望みのまま」 ー山口
「えーそしてですね、ちょうどこの頃、中国では……」
歴史の授業中だった。そしてすげぇ眠い。
俺はあくびを噛み殺しながら、先生の話を聞くふりをして、ノートの端にペンの先を置く。隣のページには、そうやって描いてきた落書きの数々がある。
昔から、絵は割と好きで、得意だった。暇があったら、いつであっても描きたい。
今日は何描くかな。
考えながらペン回ししていると、唐突にチャイムが鳴った。
授業が終わった。
「おっと、それでは時間が来たのでこのへんで。次回はこの続きから。はい、号令」
おじいさん先生特有ののんびりとした話し方で最後まで催眠ガスを教室中にぶちまけた後、先生は学級長に号令を促した。
「起立、気をつけ、礼」
学級長、――龍生のちょっと気だるげな号令で、授業は幕を閉じた。
「うわ〜マジ眠かった〜」
「あの先生まじ声眠くなるんよな〜」
「俺、数学の予習めっちゃ進んだわ」
「お前真面目かよ!」
途端、さっきまで教室中に充満していた催眠ガスを全て押し流す勢いで時が流れだし、教室は一瞬でいつものように騒がしい場所に戻った。
大きく伸びを一つして、トイレに歩く。
友達と連れ立ってトイレ行くやつは結構多いけど、俺はあんまり好きじゃない。というか学校のトイレなんか掃除担当がまともに掃除してないせいでめっちゃ臭いからできれば行きたくない。けどこればっかりは仕方ない。人間たるもの尿意には抗えない。
「……お」
トイレに入ろうとすると、ちょうど出てきた亮と目が合った。
「……」
あえて目をそらさずに見つめてやると、一秒も経たないうちに逸らされた。そのまま足早に俺の脇をすり抜けていく。
……ほんと、どうしちまったんだか。
頭を抱えたい気持ちになりながら、トイレに入る。幸い先客はいなくて、一人で用を足すことができそうだった。
――どうしたっていうと、神崎とかもそうだ。
入学式から1ヶ月、未だに学校に来ていない。というか入学式すら来ていない。これはいったいどういうことなんだ。
体調不良にしては長すぎる。もしそうなら、重い病気、それこそ癌かなんかに罹っているとしか思えない。
……中学の時から、そんなんだったっけな。
たしかにちょくちょく休むことがあったから、病弱なのかもしれないとは思ってたが、こんなに長く休んだことは今までなかった。……と思う。多分間違いない。
――断言できるようなことじゃないが、断言してしまって良い。
神崎もそうだし、亮のこともあるし、1回中学校のことを思い返してみるのも、悪くないか。
そういうわけで、トイレから出てきて教室に戻り、席につくと、俺はそっと目を閉じた。
* * *
俺達が通っていたのは、新宿中学校っていう、まあそこそこな学校だ。
新宿中から新宿高校に上がったわけだから、一切の面白みがないんだけど、まあそれはいい。
俺達は1年C組で全員一緒になり、どこから引き合うように仲良くなった。なんというか、互いに引き合うものを感じたっつうか。こいつらは俺を求めてる、俺もこいつらを求めてる、みたいな。ナルシストみたいだが、決してそれ的な意味じゃないぞ。そうじゃなくて。
……とにかくそうやって、そんな不思議なメンバーと出会い、中学校生活を送ることとなった。
端から見たら、ただの仲良し。しかしその実、どこか互いに距離がある、全員が一歩ずつうしろに引いたような関係。そんな歪さをもった俺達の関係だが、俺は好きだった。心地よかった。
……好きな人も、できた。
昔から人が嫌いだった俺にとって、どうにかそれを克服しようとして頑張って学校に通っていた俺にとって、「何一つ触れない」こいつらの存在は救いだった。好きになれたのも、救いだった。
中学生といえば恋したい盛りの人が多いだろう。なんだかんだ言っても、俺もそんなありふれた中学生たちのように、人並みの恋愛感情はあったってことだ。
……神崎と出会ったのは、中学校に入学したばかりの、ちょっとした日だった。思えば他のどの友達よりも不思議な出会いで、そして深いところまで踏み込んだ出会いだったように思う。
その時、俺はぼんやりとクラス名簿を眺めていた。いろんな名前を眺め、眺めては人を眺め、そうやって一人一人の名前を頭に入れていく。知ってるやつも大勢いたが、知らないやつも結構いたから、1から覚えるつもりで必死に頭に叩き込んでいたのをよく覚えている。
その時急に隣から、ガタッ、て音が聞こえた。同時に、そこに人が座る気配がした。俺は一旦名簿を見て、隣のやつの名前が「永原」であることを確認してから、ゆっくりと横を向いた。
その時にそこに座っていたのが、神崎だ。
「……」
俺の見間違いでなければ、名簿の「永原」の下の名前は「智樹」で、どうあっても女子につけるべき名前じゃないと思うんだが……?
と思い、ちょっと遠慮がちに問いかけた。
「永原、……じゃ、ないよな?」
すると、神崎は目を細めて、
「誰それ?」
と言った。
「……えっと、そこ、永原くんの席」
というか誰こいつ?という気持ちで俺がそう返すと、
「あ、そういう。大丈夫だよ、この席の子、私の席使って友達と話してるし」
神崎はそう言った。
俺としては、初日からこんなに遠慮なく他人の席をバンバン使える無遠慮さにもはや拍手までしたい気持ちだったが、それは言わずに黙っておく。
「……ってか、お前は誰で、俺に何の用があってここに来たんだよ?」
少し警戒しながら、そう口にした。今思うと、初対面の人間に向けていい態度ではなかったかもしれない。
その時の俺には、まだ社会でうまく暮らしていく術が、身についていなかったから。
家庭環境と社会を切り離すことが、うまくできていなかったから。
だけど、そんな俺の態度に臆することなく、神崎は言った。
「んと、まず私は神崎江里乃。呼び方は何でもいいよ」
よろしく、と頭を下げてきたから。俺もあわてて自己紹介した。
「山口だ。よろしく」
そういうと、神崎は不思議そうに、首を傾げた。今思うと当然の疑問だが、この時の俺は全然それに気づかなくて、だから俺は聞いた。
「どうした?」
もしかして向こうは俺のことを知っているのかとばかり思った俺は、そう聞いた。
「……いや、名前は教えてくれないのかなって」
鳥肌が立った。
そのときは、この気持ちが一体何なのかわからなくて、ただただ激しい感情の奔流が俺を包み、あんな行動をとらせた。
今なら、はっきりとわかる。
「……おい」
「うん?」
この時の感情の正体は。
「……俺の名前のことに、触れんじゃねぇよ!」
きっと、「恐怖」だ。
突然大きい声を出したことで、教室がしん、と静まり返った。
よく覚えている。あの時の教室の静けさ、俺を中心に広がる冷たい空気、俺という「異物」に対する、クラスメートからの恐怖心。
それと、掴んだ手の、温かさを。
「――ちょっとこっち!」
「は?おいっ!」
神崎ははっとした表情を浮かべると、急に俺の手をつかんで駆け出した。当然、俺は驚いて抵抗を試みた。が、その力はすぐに緩んでしまった。
神崎の力は、信じられないくらい弱かった。腕も信じられないくらい細くて、なぜ俺を引っ張って走れているのかが不明なくらいだった。だから振りほどくことは簡単にできたのだが、あの時の俺はそれをしなかった。
神崎の瞳から、涙が一筋伝うのを見たからだ。
あ、と思った。
やってしまった、と思った。
傷つけられるのは、慣れている。人に傷つけられるということの痛みも知ってる。それは苦しくて、つらいことだというのはよく知っている。
なのに、俺は自分の都合で人を拒絶し、いとも簡単に傷つけてしまった。
自分を殴りたくなった。神崎に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
だから、抵抗しなかった。こんなことで罪滅ぼしになるとは思わなかったが、神崎が少しでも楽できるよう、自分から彼女の走る方向に向かって走った。
向こうも気づいたようで、少し驚いたようにこちらに目線を向けてきて、すぐにまた前に目線を戻して走った。
「廊下を走るな!」と書かれたポスターの脇を通り抜け、屋上手前の踊り場で、神崎は急停止した。
肩で息をする彼女になんて声をかけていいかわからず、とりあえず俺は口を開いた。
「初日なのに、結構この校舎のこと知ってんだな」
「ううんっ、適当にっ、走ってきただけだよっ」
息を切らしながら、彼女はそう言って笑った。
……あ、謝らないと、って。
その笑顔を見て、唐突に思った。
「……神崎」
しかし、言いかけた言葉は、神崎に遮られて霧散した。
「そういうの、今はいい。私の話をしに来たんじゃないから」
そう言って、神崎は突然、俺の肩をつかんだ。
「……!?」
少し動揺してしまった。神崎、と彼女の名前を呼ぶより早く、
「……山口くん」
俺の名前を呼び、神崎は俯いた。
そして、言った。
「……ごめんね」
「……は?」
意味が、わからなかった。
なんで俺が、謝られてるんだろうと思った。
「無神経なこと、聞いちゃったね。きっと、聞かれただけで怒っちゃうくらい、誰にも知られたくないことだったんだね」
なら私はこれ以上もう何も言わないよ。
神崎はこんな台詞を放った。
そして、突然に、ふわりと風を乗せた、温かな感触が俺を包んだ。
「……っ!!」
涙を流しながらの神崎のそれがなんなのか、初めはよくわからなかった。
それはかつて、俺が経験したことのない感触で、温かさで、優しさだった。
自然と、俺の瞳からも涙が頬を伝った。
「……怒らないのか?」
俺の口からは、自然とそんな言葉が零れていた。
「怒るなんて、そんなことしないよ。傷を抉るようなことなんて、絶対にしない」
身体中を閃光が貫いたような衝撃が走った。
それは、痺れるような痛みだった。
それは、包み込むような優しさでもあった。
俺は、親の愛を知らずに育った。
両親は、母親はただの主婦で、父親は無名の芸能人だった。
芸能のことはよく知らないが、俳優業からお笑いまで、結構何でもやってるマルチタレントってやつだったらしい。
無名だったが、演技力は一流のそれだった。何にでも扮し、何にでも化ける。子の俺が言うのもなんだが、実際そうだった。
俺は、親に愛されたことがない。というか、存在を許してもらえたことがない。
ガキのころからずっと、まるでいないもののように、無視され続けてきた。
しかも、本気で嫌で、本気で隠したくなるような名前だけつけといて、だ。……しょうもない名前だ。知った瞬間に、どんなセンスだよ、くだらねぇよ、って笑っちまうほど、しょうもないし、くだらない名前。だけど、この名前のせいで、俺は色々な目に遭ってきた。
小学校の時、俺は上級生に目をつけられ、名前をいじられ、そして……。
……それはもう、壮絶ないじめに遭った。
思い出したくもない、辛い辛い過去だ。
名前のことで、何度も親を憎んだ。でもどうしようもなくなった時、ガキが頼れる存在なんか親しかいない。だから俺はすがった。最低な名前をつけて、俺がいじめに遭う原因を作った張本人に。
結果はまあ、思い出すまでもないだろう。
愛されたいと、思い続けていたのは事実だ。誰にも愛されずに終わる人生なんて、あまりにも寂しすぎる。しかも、本来なら一番、自分のことを愛してくれるはずの親に、愛されない。普通の人間は、まず経験することのない苦しみだ。
だけど、同時に、このまま見捨ててくれ、とも思っていた。
何が気に入らなかったのか知らないが、自分で産んでおいて子どもをいないもののように扱う母も嫌いだったし、クソみてぇな名前だけつけて俺のことを放置したクソ親父のことは今でも嫌いだ。
って、散々言っているが、俺だってもちろん寂しい気持ちでいっぱいだった。当たり前だろ?寂しいに決まってる。もしかしたらこのきつい物言いも、寂しさをごまかすためのものなんじゃないかって、思うときもある。
そんな俺を、2年前、悪夢のような天国のような、そんな出来事が見舞った。
家から帰ったら、母さんが死んでいたんだ。
んで、親父は消えていった。どこに行ったのかもわからん。
つまり、俺は両親を失って、クソ親父は死んだ母のいろいろをほったらかしてどっかに消えちまったってことだ。相変わらずのクソっぷりで安心するくらいだ。
ただ一つ、気になることがあった。
正直、いくらあのクソ親父でも、母さんを置いて逃げるなんて、絶対しないと思うんだよな。
だって、あのクソ親父は、俺のことは邪険に扱うくせに、母さんのことを信じられないくらい溺愛していたから。
ただトンズラこいただけのようには、とても思えないんだよな。
犯人探し?復讐?そのために家を出た?それもなんか変な話だ。ありえなくはないけど、あいつはそこまでメンタルが強くない。だ。復讐に走るよりは、家で一人絶望にくれ、酒でも飲んでる方がしっくりくる。あり得るとするなら、メンタルの弱さ故にもうぶっ壊れてる可能性、だな。どっかで勝手に壊れてくれて、俺に迷惑をかけねぇっつうんなら、別に文句はないが。
……まあ、何にしても、だ。
「……くん、山口くん!」
名前を呼ぶ声がして、俺は閉じていた目をゆっくりと開く。
見れば、さっきまで騒がしかった教室も静まり返り、今まさに授業が始まろうとしているところだった。
「よし、起きたね。それじゃあ、号令」
「起立、気をつけ、礼」
よろしくお願いします、と、教室の空気が揺れる。
俺の名前を呼んだのは数学担当の先生だった。今から数学の授業のようだ。
「えーそれじゃあね、教科書の16ページを……」
先生の声を聞き流しながら、俺はちらりと、俺を変えてくれた少女の席を見やる。
その少女、――神崎は、今日も学校に来ていない。
俺だけじゃ、なかったのかもしれない。
やはり、俺の勘は、当たっていたのかもしれない。
……と、いうことは……。
「山口くん、ここ解ける?」
「あ、うす」
あぶね、ちゃんと簡単な問題で良かった。
頭の中で暗算し、答えを弾き出してから、俺は立ち上がって発表する。
「答えは……」
――なあ、神崎。
答えを発表しながら、俺は心のなかで、神崎にそっと語りかけた。
――お前のおかげで、今の俺があるんだ。お前がいなかったら、俺はもう潰れてたかもしれない。
ありがとな、神崎。だからさ。
今の俺の、一番の願いだった。
――高校、一緒に行こうぜ。絶対楽しいから。
早く、元気に学校に来てほしい。
早く会いたい。
それだけだった。




