第1節 「絶望の淵」 -神崎 江里乃
「幸せ」っていうのは、待っていたって向こうからやってきてくれるわけじゃない。
それは、いつだって自分の力で、手に入れるもの。
――だけど、きっと、どれだけ探し求めていたって、自分から「幸せ」を手に入れようともがいたって、それは、必ずしも手に入るわけではないのだろう。
だって、神様は、いつだって残酷だから。
* * *
重たい買い物袋を4つ。それを両手から下げて、私は自分の住んでいるマンションを見上げていた。今日も、買い物からの帰りだ。
――みんなは今頃、入学式なのだろうか。
友達の顔が、脳裏に浮かぶ。
4月にしては暑い今日この日、本来であれば私も入学式に参加しているはずだった。……新しい制服、新しい出会い、新しい始まり。――私だけが、その中にはいない。
まさか、入学式にさえ出させてもらえないなんて。
逃げ出したい。だけど逃げ出したら、きっともっと、ひどいことが起こる。
だから、私は今日も、重い足を引きずるようにして、歩く。「家」に向かって、一歩ずつ。
部屋の前まで来ると、唐突に向こうからドアが開いた。
「あ……」
お母さん、だった。
私は瞬時に笑顔を作り、
「ただいま、お母さん。これからお出かけ?あ、あと、これ買ってきたよ」
手に持っている買い物袋を差し出した。
お母さんはそんな私をちらりと一瞥すると、何も言わずに目の前を通り過ぎた。
「あっ、行ってらっしゃい!」
笑顔のまま、声を掛ける。
その瞬間、だった。
「うるさい」
冷たい声。そして、胸に微かな衝撃。
「……あっ」
腰に硬い痛みを感じる。そしてそれと同時に、手から買い物袋が離れ、宙を舞った。
「――あっ!!」
手を伸ばしたが、遅かった。
「……おい」
お母さんがヒールを鳴らしながら歩み寄ってくる。尻餅をついたまま、反射的に一歩後ずさる。
そして、突然、左の頬に衝撃を感じ、右に吹き飛ばされた。
「……うっ!」
ドアに叩きつけられ、思わず呻く。
そしてそのまま、背中を蹴る。鳩尾を蹴る。顔を、頭を、お腹を……。
ヒールの脚が、一切の容赦なく私の身体を蹴りつけた。
「……あぅ」
唇の端から情けない声が漏れる。その場にうずくまり、ただひたすらに耐える。
すると、唐突に、痛みが止んだ。
……止まった?
そう思って顔を上げかけた矢先、ヒールの先が突然目の前に迫ってきた。反射的に、目を閉じる。
おでこから頭のあたりに、鈍い痛みがじわりと広がる。顔を歪めて、ただ耐える。
「全部、買い直してきなさい。――今すぐね」
「……はい」
私には、拒否する権利なんてなかった。
「ほんと、なんでこんな使えない子に育ったんだか。教育の仕方を間違えたかしら」
吐き捨てるように言い残し、お母さんはそのまま去っていった。
――どうして、こうなったのだろう。
泣きたい気持ちになってくる。だけど、どれだけ辛くても、もうこの瞳から涙は、出ない。
最初の頃は、よく泣いた。だけど、そうしたら余分に辛いって気づいてから、泣かないように我慢するようになった。
そうやってたら、いつの間にか涙がうまく流れなくなってしまった。
それでも、泣きそうになる瞬間だけは、まだ確かに存在する。
――行か、なきゃ。
痛む体を引きずるようにして無理やり動かし、こぼれて無惨に散らばった食材を拾い集める。
財布の中身を確かめて、急いでスーパーに向かって歩いた。
戻ってくるまでに、終わらせないと。
* * *
――体が重い。
空もすっかり紅く染まり、お腹も空いてくる頃、さっきと全くおんなじ買い物を済ませ、重い足を引きずるようにして、歩いた。
今はお母さんはいないはずだから、大丈夫。……多分。
私はそうやって自分に言い聞かせながら、地獄に向かって一歩、また一歩と歩く。
――今日は、大丈夫。今日は大丈夫。今日は……
けれど、そこにはお父さんが、立っていた。
「……あ」
息が、詰まる。
目の前のその姿は、まるで地獄への門と、その前に立つ鬼のように、見えた。
……見慣れた姿のはずなのに、限りなく、遠い。
「……た、だいま」
私はどうにか、言葉を紡ぐ。自分でもわかるくらい、その声は掠れていた。
お父さんは無言のまま、私を見下ろしていた。本能的に、一歩後ずさる。
その瞬間、急に身体が、浮いた。
「ひゃっ!?」
短い悲鳴が聞こえる。抵抗する暇もなく、玄関の床にいきなり投げ出される。買い直した者たちが再び無惨に散らばったのが、視界の端に微かに映る。
「大人しくしろ!」
怒鳴り声とともに、背中に衝撃を感じる。息がひゅっと漏れ、呼吸が止まる。視界がぐらぐらと揺れる。
ばたん、と扉の閉まる音。それと同時に、お父さんの足音が近づいてくる。
そして、暴力が始まった。
体のあちこちが痛い。私は再び丸くなり、ただ耐えることしか出来ない。反射的に涙が滲みそうになるけれど、……もう、涙は出てこない。
――どうして?
私、何かした?
どうして、こんなに蹴られないといけないの?
どうして、こんなに辛い思いをしないといけないの?
もう、嫌だ。
もう……
「……嫌」
その言葉は、無意識に漏れていた。
慌てて口を噤んだ。けれど、既に遅かった。
「……嫌、だと?」
お父さんの、ドスの効いた低い声。背筋が震え上がる。
「あっ、違っ……!そうじゃなくて……!」
「ここまで育ててやった親に対する台詞か!?それが!!」
お父さんの怒声。相も変らず滅茶苦茶な理屈、だけど……私に反論なんて、できるはずもない。
「ごめんなさい!ごめんなさい……っ!」
震える声で、何度も謝る。自分でも何に謝っているのかは、もはやわからないけれど。
しばらく睨みつけたあと、お父さんは言った。
「もういい、来い」
腕を掴まれたかと思うと、次の瞬間にはまた宙を舞っていた。
「痛っ!」
背中から叩きつけられる。いくら食いしばっても、声は漏れた。
そして、そのまま、腕を掴まれて、引きずられた。
「やだ、やめて……っ!痛い!」
私は軽くパニックに陥って、たくさん情けない声を上げてしまう。分かっているけど、止められない。
「うるさい」
私のささやかな抵抗は、たった一言で切り捨てられ、再び蹴られる。
――今から、何をされるんだろう。
まだ学校にも、行けてないのに。
もしかして、このまま殺されるのだろうか。……実の親に。
怖い。こんな生活が、日常のすぐそこにあることが。
恐い。ほとんど日常と化している、非日常が。
怖い、恐い、こわい、コワイ。
――こんなに不平等な世界が、世界を作った神様が、ただひたすらに、”コワイ”。
誰か、助けて……。
――ぽちゃん。
水の、音がした。
「……え?」
ぼんやりとした視界が、段々とはっきりしてくる。
目の前のそれは、急に大きな音を立て、大量の水を吐き出した。
「わっ……!」
とても冷たい水が、全身に降り注ぐ。
思わず身を小さくした。皮膚を灼くような冷たさだった。
――シャワー、だった。そしてここは、お風呂場。
知らない間に、私はお父さんによって、椅子に座らされて、――いや、縛られて、いた。
気づかない間に、ここまで……?
体は動かない。いや、動かせない。声すらも、思うように出てこない。
ただ、冷たい水だけが激しく動き、私の体を打ち続けている。
「しばらく、そうしてろ」
吐き捨てるように言い残し、お父さんは出ていった。
* * *
冷たい。
服の上から浴びせられる冷水。もはや水じゃなくてナイフのように、「私」という存在を細かく裂いてくる。心臓まで貫いてくる鋭さに、この身体を引き裂く鋭さ。同じであって、同じじゃない。
椅子ごと倒れた私の身体は、動かない。動かせない。手も足も縛られていて、這うことすら出来ない。もぞもぞとみっともなく身を捩るしかない。哀れだ。惨めだ。……愚か、だ。
でも、もうどうでもいい。
だって――。
「だって」?
いや、
「なんで」。
――どうして?
どうして、私なの?
どうして?
なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんで――っ!!
だって、おかしいでしょう!?
私が何をしたっていうの!?
ねぇ、誰か答えてよ!
教えてよ、無知な私に!
なんでこんなに痛いの!?
なんでこんなに苦しいの?
なんで、こんなに……っ!
こんなにも、独りで……!!
「……っ、あは、あはははは……!」
笑った。
無意識に、声が出た。
あーあ、壊れちゃった。……でももう、止まらない。
止められない。
「なにそれ……っ!」
ちょっと、面白すぎるんですけど。
何もかもバカバカしい。くだらない。
意味なんてない。
そうだ、私は、私の人生は……。
「……っはははははははは!!!」
なぁぁぁんにも、意味なんてなかった!!
だって、私はずっと独りだった!
誰も助けてなんてくれなかった!!
家族なんて、……そんなの、嘘嘘大嘘!!
誰しもが身勝手で、冷たくて、他人の痛みなんて見ようともしない!
みんなみんな、無意味だ!!
私はただ笑った。
涙を流しながら、笑った。
喉が痛くても、止められなかった。
笑ったら、次は泣いた。
泣きながら、笑った。
――ちょっと、なにこれ、何やってんの?
もう、わかんない。
ぐっちゃぐちゃになるまで、笑って、泣いて、また笑って――。
もう、
「なんっっにも、わかんないよ……!」
今まで、何百回も願ってきた。
「助けて」って。
でも、助けなんてなかった。
いつか、私は信じた。信じていればいつか、って。あるいは、いつか自分の力で、幸せを掴むんだって。
だけど、そんなのは幻想だった。
神様なんていなかった。
だから、叫んだ。
理由なんてない。意味なんてない。
息の続く限り。
この世に少しでも、「私」が刻まれることを信じて、叫んだ。
ここまでいっても、まだ信じてるよ。
あーあ。
もういいや。




