第2節「呪いのような、安寧」 ―今田 龍生
この朝の気だるい雰囲気って、まるで霧みたいに何処かぼんやりとしていて、掴めそうなのに掴めない感じがして、俺は好きだ。
とか考えながら、布団からゆっくりと体を起こす。
それから、大きく伸びを一つ。
すぐにカーテンを開けると、朝の日差しが燦々と、自室に降り注いだ。
今日は、快晴だ。
まだ体が覚めきらないまま、緩い動きでキッチンへ向かう。
インスタントの味噌汁を作り、昨日の内に炊いておいた米をよそう。うちはずっと俺一人だから、炊く量はいつも決まって一合だ。
それから、冷蔵庫にしまってある漬物を取り出す。俺はこの中でも、たくあんが一番好きだ。男子高校生にしちゃあ渋いかもしれないが、好きなんだからしょうがない。
そしてそれらを食卓に並べ、いただきます、と手を合わせる。一人になってからも、身についた習慣というものはどうやらなかなか消えないもんらしい。
それらを黙々と食べ進め、食べ終えたら、次は歯を磨く。
何だっけ、歯のエナメル質だったか。それが俺には生まれつき少ないんだとかなんだかで、虫歯になりやすいらしい。だから俺は毎回、きっちり5分、安物の砂時計を置いて時間を測りながら歯を磨くようにしている。
それが終わったら、朝ご飯を作り始める前に動かしておいた洗濯機の中から洗濯物を取り込んで、干す。数が少ないから10分もかからない。冬場は寒すぎていつもサボりたくなるが、今は夏。かといって朝だから暑すぎることもなく、結構快適に干すことができる。
その次は、皿を洗う。後回しにすべきではないのかもしれないが、優先順位ってやつだ。皿はまあ、学校から帰ってからでも正直、どうにかなる。
それらすべてを終わらせて、ようやく学校の準備を始める。
え、っと。今日は確か、古文が化学に変わったんだったか。
のんびりと学校の準備をすると、カバンを持ち、ようやく家を出る。
俺は毎朝、基本的に五時に起きている。だからこれだけのんびり準備しても余裕で学校には間に合うわけだ。
玄関で靴を履き、靴箱の上においてあるものにチラリと目をやる。
「……行ってきます」
そっと、呟くように、それに向かって言うと、ドアを開けて、家を出た。
それ、――家族の写真からの返事は、当然無かった。
* * *
「おはよ」
「おっす」
いつものように道中のコンビニで山口と合流し、そのまま並んで歩く。
「そういえば、昨日さ……」
「ん?」
ふと、昨日森が何か挙動不審だったのを思い出して、話題を振ってみる。
(カフェ!今度絶対連れてってね!)
(約束だからね!)
脳裏に、昨日の森の言動が蘇る。
(悪い悪い、ちょっと面白くてさ)
(森もただの高校生なんだな、って)
続けて、自分の言動。
なぜか、顔が熱くなった。
「……龍生?」
山口は、急に黙った俺を訝しむように言った。
「悪い、やっぱなんでもねぇわ」
「……おいおい、お前から話題振っといてなんだよそりゃ」
「まぁまぁ、細かいことはいいだろ」
「よくねぇ、……まぁいいか」
諦めたように、山口も言う。
「今日一時間目なんだっけ?」
「英語」
「うっわ、だる」
「英語なんて簡単だろ、あんなの訳さえ出来れば超簡単な現代文と同じなんだから」
「その訳ができねぇんだよ!いいよなお前は、なにせ頭脳明晰、スポーツ万能、完璧男子の龍生様だもんなぁ?」
「そんなことねぇって。いい加減それやめてくれよ、まったく」
軽口を叩き合いながら、並んで学校に向かう。
ちらちらと脳裏に浮かぶ考えを、振り払いながら。
「……俺、なんかしたっけ?」
「さあ……?」
その後の教室。俺は呆然と、それはもう呆然としていた。
なんか教室に入るなり、森と目が合ったから挨拶したら、
「おはようっ!!」
ガタンッ!
で、速攻教室を出ていった。
……嫌われた、んだろうか……?
それは、嫌だな。
……ん?
すぐにそんな事を考えた自分に、少し驚く。
いやまあ、友達なんだから当たり前っちゃ当たり前なんだけど。でも、そう思えるくらいには、俺はあの関係を大切に思っているんだろうか。
それとも――。
なんだか、俺が森に何を思っているのか、急にわからなくなってきた。
そのとき唐突に、ぽす、と頭に何かが降ってくる。急に現実に引き戻された感じがして、顔を上げた。
西宮だった。頭に乗っているこれは、丸めたノート。
「ボヤ〜ってしてるわよ。何があったのか知らないけど、もっとシャキッとしなさい、シャキッと」
「……お、おう。っていうか、久しぶりだな?」
「まあ、そうね」
大体二週間ぶりだったか。西宮は最近、ほとんど学校に来てなかった。理由は知らん。
西宮はたまに、こういう厳しいことを言う。別に俺は何も悪いことをしていないのに、何故か申し訳なくなってくる。
なんとなく顔を見られなくて、視線を下に落とす。真っ黒な脚が、目に飛び込んできた。
「西宮、暑くないか?」
西宮は夏でも冬でも、だいたいいつもロングソックスとかタイツ・スパッツの類を履いている。熱中症で倒れたりしないと良いんだが。
「……このくらい、どうってことないわよ」
何故か一瞬、西宮の表情が翳った、ように見えた。
不思議に思って口を開こうとして、
「美桜ちゃ〜ん、ちょっとこっち来て!」
直ぐに口を閉じた。声のする方をを見やると、いつも仲良さそうに一緒にいる女子たちが立っていた。
「行ってこいよ。俺なんかより大事だろ」
西宮の方を顧みて、言う。
何故か、西宮は固まったまま、目を丸くして、女子たちの方を見つめていた。
「西宮……?」
「……言われなくてもすぐに行くわよ。ごめん、ちょっと待ってて!」
そう言ってノートを机にしまい、西宮は友達の方へ駆けていった。
そうして5人で、何やら話しながら、教室を出ていく。
「……?」
違和感を感じ、俺は一人で首をひねる。いや、違和感というか。なんというか、あの5人、空気が――。
「ちょっと、今田くん」
急に声をかけられ、振り向く。
「話したいことがあるから、放課後空けといて」
いつの間にか帰ってきていたらしい森は、何故か深刻な表情でそう言った。
「話し合い」のことだな、とすぐに合点がいく。
「分かった。……いつもの場所でいいな?」
後半は周りに聞こえないように、声を落として言う。
「うん、よろしく」
森も少し声を落として返事した。
なにか新しいことを思いついたんだろうか。
何故か、気持ちが急いていた。
一刻も早く、「話し合い」がしたい。
* * *
その日の授業は、すごく長かった。
というか、長い。まだ昼休みだってのが信じられないくらいに。
ため息をつきながら、弁当を持って、食堂のいつもの場所に赴く。
弁当は朝ご飯の残りだ。朝からご飯を1合も食べられないからそれを詰めて、漬物を詰めるだけ。言っていなかったが、5分もかからないから、皿洗いの後にさっさと済ませている。
今日来るのは、森、山口、俺だけ。
凛は新しくできた別の友だちと毎日食べている。亮が来るわけはない。西宮は例の5人で食べるらしい。友だちが多いのは良いことだろう。
朝に感じた違和感を振り払いながら、俺はそう自分を納得させる。
――正直なところ、あんまり抱えたくない、というのが本音だった。
俺一人でも手一杯なのに、西宮がなにか抱えてるとして、俺もそれを背負うだけの余力はない。
――西宮には、申し訳ないが。でも、そういう関係なんだから仕方ない。
何度も自分に言い聞かせながら歩いていく内に、食堂に着いた。いつもの席に向かい、先に着いていた山口と森に軽く手を上げ、席につく。
森はずっと黙り込んでいる。朝から、なにか思い詰めたような表情で、ずっと。
なんなら今日2週間ぶりに西宮が学校に来ていたことにすら気づいていなさそうだった。放課後にでも言ってみるか。
「……おーい、お前ら……?」
なんだか気まずい雰囲気に耐えかねてか、山口が恐る恐る口を開いた。
「え、あ、え?」
森が驚いたように瞳をぱちくりさせる。
「おいおい、え、お前いたの?みたいな反応やめろよ、マジで傷つくから」
「……あれ、山口くんいたんだ?」
少し高い声を使い、からかうように口にする。
「ちょっ!勝手に真似しないでよ!そんなこと思ってないし!」
森が慌てたように手をブンブン横に振りながら言う。
しかし、やがて戸惑うように、
「思って……ないし?」
首を傾げた。
「おい!」
山口が本気で傷ついたような顔をして見せる。それを見て二人で笑う。
「悪い悪い、ちょっとからかってやろうとしただけだって」
軽くそう言ってやる。
「お前なぁ……」
山口は不満そうだが、ほっといていいだろう。
いつもの光景だ。山口がボケに徹し、それを皆で笑う。基本的に、俺達の間のなごみとか、わらいみたいなのは、そういう流れで形作られている。
いつも通りだ。
――ただ、大事な人達が、欠けているという一点を除けば、だが。
顔が真顔に戻りそうになるのをどうにかこらえ、笑いの表情を崩さないことに全神経を使う。きっと目の前の二人もそうなんだろうと思う。
山口が急におどけてみせたのも、きっと俺達に気を遣ってのことだろう。なら、それを壊すわけにはいかない。
そうやって本心を隠しながら、俺達は今日も笑い合う。
日常を変えたいなんて望まない。
ただ、守りたいだけなんだ。
それくらい、叶ったってバチは当たらないと、俺は思う。
* * *
「……なるほどな」
放課後。いつもの「話し合い」で、あそこまで森が話したがっていた話の内容を聞いているところだった。
言われてみたら確かに納得の行く話で、だからこそ、分からない。
「とりあえず、ここにXはいなさそうだから、この話し合いの題としては除外する……けど」
そうじゃないんだよね、と、森が目を覗き込んでくる。
吸い込まれそうなその瞳から少し目を逸らしながら、言った。
「……亮は、どうする気なんだろうな」
「どうだろうね……」
Xはここにはいない。この道を追っても、その先にはなにもない。これが分かったことは本来、喜ぶべきものなんだろう。
だが、どうにも喜べない。壁を一つ破れたと思ったら、その先にはもっと高い壁が立ってるだけだった、って感じだ。なんというか。
「今日は、もうお開きにするか」
「えっ?」
森が驚いたように見つめてくる。その瞳からまたも少し目を逸らしながら、言った。
「今日はお互い、何も出てこなさそうだしな。それよりは、家に帰ってから、考えをまとめたほうが有意義だろ」
「確かに……?」
そうなのだろうか、というふうな表情をする森。
「そういうことだし、さっさと帰ろうか」
そう言って、さっさと歩き出した。慌てて森がついてくるのが気配でわかる。
結局、今日の話し合いでは、大した進展はなかった。
……だけど、きっとそれでいいんだと思う。
答えなんて、見つからないままでいい。
だってそれでなくても、俺達はもう前を見てる。確かに毎日、進んでいっている。
だから、何よりも。
……どうか、この繋がりが、ずっと続きますように。
ただ、願うばかりだった。
* * *
翌日。
いつもの朝のルーティーンを完璧にこなし、いつものようにのんびりと家を出た。
その道中で、森とばったり会った。
「あ、おはよう」
普通に挨拶してくる。昨日のあれは何だったのか。そう思いつつ、おはようと返す。
そこから学校まで、並んで歩いた。というか山口の待つコンビニまで。
ふと、気になったことを聞いてみる。
「そういえば森、お前ってさ、」
「ん?」
ここで少し躊躇ってしまう。あまり気軽に聞ける内容ではなかったから。
ややあって、覚悟を決めて口を開いた。
「森は、……どうやって立ち直ったんだ?」
一瞬で森の表情が真っ暗になる。すぐに後悔した俺は、慌てて口を開いた。
「いや、ごめん嫌だよな、全然気にしなくていいから」
「いや、いいよ。どうせそんな嫌な話でもないし」
すぐに表情を戻した森はそう言う。
「私の場合は、結構幸運だったのかな。そばにカウンセラーさんがついてくれたから、話とかしてなんとか、って感じだよ」
「……そうだったのか」
森にはすでに、話を聞いてくれる存在がいたのだ。そのことに少し安堵しつつ、何故か寂しさも覚えた。
「……?」
自分で疑問に思いつつ、ごまかすために口を開く。
「その人は、なんて名前なんだ?」
「うん、えっとね、」
そして森は、その名前を言った。
「――イチさん、っていう人」
全身の毛が粟立つような感覚に襲われ、その場に固まってしまう。
「……今田くん?」
視界がぐらりと揺れる。
分かった。全て分かった。
分かってしまった。
――しかしそれを知ったら、多分森は壊れてしまうだろう。きっとそのくらい、彼女にとってはショックな真実だと思うから。
俺一人で、なんとかするしかない。
「……いや、なんでもないよ。いい名前だな」
そう言って、なんとか繕う。
――そう、うまくは行かなかった。
「”イチさん”……?今、イチさん、って、言ったか……?」
ドスの利いた低い声に、俺と森は軽く飛び上がった。
そしてそれは、とても聞き覚えのある声だった。
来てしまった……。
「――山口」
俺の呼びかけには応えず、山口は森に詰め寄って、もう一度言った。
「今、”イチさん”って言ったか?」
「え、あ、えっと……」
いつもと違う山口の様子に怯えた様子で、森はこっちを見てくる。制止しようとして俺が口を開きかけた時、
「山口くん、……ストップ」
またしても聞き覚えのある声がして、三人で一斉に振り向いた。
西宮だった。昨日も感じたが、昨日にもまして顔色が悪いような気がする。そんな彼女は、走ってきたのか、そばの塀に手をつき、肩で息をしながらなんとか立っていた。
「……美桜ちゃん……?……山口くん……?」
森もなにか、ただならぬ雰囲気を感じたようで、二人の顔を交互に見合っている。
――というか、俺も混乱している。
西宮も、山口のことを、知っているのか?
「……西宮、知っているのか……?」
山口の驚いたような声色に、嘘ではないと悟る。山口も教えていない。
じゃあ、なんで……?
それに対して西宮は、息を整えてから、言った。
「……嫌でも合点がいくわよ。”イチさん”のこと。それから、あんたの名前のこと」
驚愕したように、山口が目を見開く。
「なんで、俺の名前を……っ!」
「え、え、え?」
何がなんだか分かっていない様子の森と、やや怒気を孕んだ声で西宮に詰め寄る山口。
みんな学校のことなど、とっくに頭から抜け落ちているようだった。
西宮は、森の方をちらっと見ると、山口の怒りにも負けずに言った。
「私がなんで知っていようが、今はどうだって良いでしょう。そんなことよりも大事なことが……」
「……そんな、こと、だと?」
山口がまた一歩、ほぼ触れそうな距離まで西宮に詰め寄る。流石に怯えたように、西宮はひゅっと息を呑んだ。
「山口、やめろ!」
慌てて止めに入る。山口はそんな俺をギロリと睨み、言った。
「……邪魔だ。どけ」
「どかない」
俺も睨み返し、言い返す。
「西宮にいま手を出して、良いことは何一つないだろ。なあ、落ち着けよ、山口」
「これが落ち着いて……」
いられるか、という続きの言葉は、空中に霧散して消えた。
その隙を見た西宮が、すっと山口の脇をすり抜けたからだ。
西宮は素早く森の腕を掴み、
「行きましょう!」
そう言って駆け出した。
「おい!まだ終わってねぇぞ!!」
山口が怒鳴るが、西宮は止まらない。
「え、えぇ!?」
まだ状況が飲み込めていないらしい森。戸惑ったように引かれていったが、一瞬俺の方を見たかと想うと、すぐに前を向き、自分から駆け出した。
西宮も気づいたらしい。走りながら、少し驚いたような表情を森に向けたのが見えた。
しかし、それも一瞬だけで、やがて二人は見えなくなった。
「なんだってんだよ……」
山口が力なく呟く。ごもっともだ。俺も何がなんだかわからない。
ただ、一つだけ言えることがある。
俺は、たどり着いてしまった。俺達の両親を奪った者、その正体に。
だが、まだ明らかになっていないことがある。
そしてその鍵は、きっと西宮が握っている。
「……とりあえず学校行くぞ。遅刻だ遅刻」
「……そうだな」
俺が声をかけ、山口と並んで学校に向かって走り出した。
森が心配だが、それは西宮に任せるしかない。
(次会ったら、問いただしてみよう)
(次会ったら、まずはぶん殴ろう)
それぞれの思いを胸に秘め、駆け出した。
――隣を駆ける顔には、隠しきれなかった思いが滲んでいた。
きっと、それは俺も同じなんだろう。
――本当に、どうなってる?




