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神様には救えない事例  作者: 相良胡春
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むかつく再会

 病室の前に来ると、再び胸が苦しくなった。気持ちを落ち着かせようと、大きく深呼吸する。

 不安で仕方がない。

 何かにすがりつこうと無意識に手をのばすと、クラウスがその手を取って、ぎゅっと握りしめた。

 顔をあげると、夏の日の深い緑色の瞳とぶつかった。

 行きますよと、声にならない声が俺の背中を押す。その声に励まされ、俺は病室に足を踏み入れた。

足が鉛のように重い。引きずるようにして中に入った。

 正面に置かれたベッドに、年配の男が上半身だけを起こして横になっていた。

 誰だ? と一瞬思った。骸骨のように痩せた体。昔は見事だったらしい黒髪には白髪が混じり、顔には深いしわが刻み込まれている。唇はひび割れ、肌は紙のように白い。

「兄さんだよ」

 クラウスにそう言われても、にわかに信じられなかった。フリードリッヒは俺より十一歳年上だった。今日三十歳の誕生日のはずだ。目の前の男は、どう見ても五十近くにしか見えない。二人でぐるになって、俺をかつごうとしているのだろうか。そう疑いたくなる。

「誰?」

 フリードリッヒが眩しそうに目を細めた。俺は返事を返す余裕もなく、その場で固まっていた。見かねたクラウスが、男の傍らに身をかがめた。

「ヴァルターだよ。会いたがっていただろう?」

「ヴァルター?」

 自分に問い掛けるように名前を呟いて、俺の顔を見返した。

「ヴァルター」

 記憶を刺激する何かをみつけだそうとするように、探るように見つめてくる。突然顔が生気を帯びた。

「君、なのか?」

 一気に口調が若返る。俺の目の前にいるこの老いた男は、確かにフリードリッヒ本人だ。

「大きくなったね」

 優しい黒い目が俺を捉えた。

「フリードリッヒ」

 懐かしさで胸がいっぱいになる。思わず歩み寄ろうとする俺の耳元で、憎い相手だろう? と囁く声がした。頭の中にいるもう一人の俺が、とっさに引き止めてくれる。

騙されるな。

俺は背中を真っ直ぐ伸ばした。惑わされちゃいけない。ただ、あまりにも弱々しくて、ほだされかけているだけだ。それがフリードリッヒの手かもしれない。とんでもない男なんだ。忘れたわけじゃないだろう?

「こっちに来て顔をよく見せてくれないか? ずっと想像していたんだ。歳を重ねるごとに、驚くほど成長していく君の姿を。もう一度この目で見られるなんて思わなかった」

 あの頃と同じ穏やかな口調。

 父は仕事で家を空けることが多かった。親がいない寂しさを、慰めてくれた声だ。

 食事をする時誰かが一緒にいてくれて、名前を呼べばいつでも答えをかえしてくれる。そんななんでもないことにあの頃の俺は飢えていた。手なずけることなんて簡単だっただろう。

「あんた、何のんきなことを言っているんだ。自分が何をしたかわかってるのか?」

 フリードリッヒの黒い瞳に、まつげの陰が落ちかかった。

「けして苦しめたかったわけじゃないんだ」

 フリードリッヒは重そうに、両手で額を支えた。

 根っからおかしくなったわけではなさそうだ。

「許してはくれないだろうね」

 囁くような力ない声が、顔を隠した両手の隙間からこぼれ落ちた。

「あたり前だろう! あんなことされて、あっさり許せるわけがないじゃないか。こんなところ、好きで来たわけじゃない。本当は、あんたを殺したいくらいに胸の中が煮えくりかえっている」

 フリードリッヒは、手の平から顔をあげた。

「僕はうれしいよ。たとえ君が僕を恨んでいても。こうやって会えたことが」

 許してくれと彼が泣きながら土下座していたら、きっと幻滅しただろう。ただ見下すだけの、何の価値もないものになっていたにちがいない。しかし彼は、素直に再会を喜んでいた。物心ついた時にはすでにいなかった母親のように、俺のことを思ってくれる。そんなフリードリッヒが大好きだった。あの頃の彼と、何も変わっていなかった。

「僕は不器用な人間だから、一人のためにしか生きられない。あの時はクラウスを生かすためだけに生きていた。例え誰かを傷つけたとしても。助けてくれるなら、悪魔にでも魂を売る覚悟でいた。でももう、僕の助けは要らないんだ。見守ってくれる人がたくさん出来たから。だからこれからは、ヴァルターのためだけに生きるよ。君が幸せになるために、僕は何をすればいい?」

「なに寝ぼけたこと言ってるんだよ!」

 俺は両手を握りしめた。

「今さら幸せになんかなれるわけがない。あんたが全て壊したんだ。あの日。父さんが捕まって、あんたが出て行って、一人ぼっちで残された夜に。粉々になって、砂埃と一緒に吹き飛んでいった。あっというまに。もう取り戻せやしないんだ。あの時まで時間を巻き戻して、何もなかったことにする以外は」

 フリードリッヒは口を閉ざしたまま、黙りこんでいる。

「あんたに出来るのか? 死んだ父さんを生き返らせることが。父さんと一緒に過ごすはずだった、俺の失くした時間を取り戻すことが。そんな魔法みたいなことが。出来やしないだろう! 気休めなんか言うなよ。あんたに出来ることなんか、今さらありはしない。遅いんだよ」

「ごめん。僕には勇気がなかった。その勇気をもっと早く持てたら、君のもとを去ったりせず、君を支えてあげられたのに。ごめんね。ヴァルター。本当に、ごめん」

 フリードリッヒは身を乗り出して、俺の方に手をのばす。今にも、ベッドから落ちそうになりながら。

フリードリッヒは俺の怒りを甘んじて受ける。加害者だからじゃなく、俺がそれを望んでいるからだ。頭が狂う思いをしても、俺に会うまではと死なずに待っていてくれた。自然と心が傾いていく。憎むべき相手なのに、足を踏み出しそうになる。

 もう一人の俺は、そんな自分の弱さを責めていた。俺がやらなきゃ、誰が父さんの無念をはらすんだ? それこそ裏切りじゃないか、と。

「あんたに望むことなんかないよ。俺はただ、大嫌いだって言いに来ただけだ」

 おもいきり罵倒してやろうと思ったのに、子供が強がるような言葉しかでてこない。

 情けなくて、カッコ悪すぎる。 

「急に望みなんて言われても困ってしまうよね。お茶の準備をさせるから、ゆっくりどうしたいか考えるといい」

 頭が混乱しすぎて何も考えられない。

 どうにかフリードリッヒに言えたのは、

「そんなものはいらない」

 という言葉だけだった。

 俺は捨てぜりふを吐いて、フリードリッヒの病室を飛び出した。

どちらから歩いてきたのかふいに思い出せなかった。それでもかまわず歩き続けた。足を止めたら、感情の波に飲み込まれてしまいそうだったから。どこをどう歩いたのか思い出せなかった。気がつくと自分の部屋に戻っていた。何もする気になれず、ベッドに倒れこんだ。まるで冷たく湿っぽい、地下墓地にいるような気分だった。

 


ついに登場しました。

問題のはじまりであるフリードリッヒ氏が。

ヴァルター動揺しすぎです。

まともな反応が返ってこないから仕方がないか。


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