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神様には救えない事例  作者: 相良胡春
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クラウスの想い

 便器を抱えてしばらく吐き戻した後、新鮮な空気を求め、病院の中庭にあるベンチに腰をおろした。

「大丈夫ですか?」

 売店で買って来たらしい紙コップに入った飲み物を、クラウスが手渡してくれる。

 俺は一口それを飲んで、ぐったりと目をつぶった。

 そのまましばらく座りこんでいると、、少し気分がよくなった。

「ハイネスさん。もう中に入りましょう。このままだと、風邪をひいてしまう」

 先ほどかいた汗のせいで、全身が冷え切っていた。

 寒くて疲れ切って、気分は最低だった。

 とてもフリードリッヒに会えるような状態ではない。

「クラウス。俺は帰るよ」

 力なくそうと、クラウスは茫然としてベンチから立ち上がった。

「何を言っているですか! ここまで来ているのに。会ってくれるって、約束したじゃないですか」

 俺の腕を掴んですがりついてくる。

「お願いですから一緒に来てください」

 彼はそのために、自分の身をささげたのだ。

「フリードリッヒに会わないとは言ってない。別の日にしてくれと言っているんだ」

「だめです」

 クラウスは、悲鳴のような甲高い声で拒絶した。

「別の日っていったいいつですか? 明日? 明後日? それとも明々後日? その時今日みたいにならずに、ちゃんと行けるんですか?」

「それは……」

 俺は口ごもる。

「このまま逃げるつもりですか?」 

 クラウスは、俺の腕を固く掴んで離そうとしない。

本心は、そうしたくて仕方がないが。

「いまさら心変わりだなんて許さない」

 クラウスは俺をきっとにらみつけ、唇を震わせた。

「僕が……僕がどんな気持ちで……」

 みるみるうちに、深い緑色の瞳に涙があふれた。

「なにがなんでも会ってもらいます。たとえ今あなたが死にかけていたとしても、そんなことは関係ない。このまま逃がしたりなどするものか!」

 そう言って、掴んでいた俺の腕をぐいぐい締めつけてくる。

「ちょっと待て」

 俺はクラウスの腕を振りほどいた。

「おちつけよ。何をそんなに焦っているんだ? 急がなければならないわけでもあるのか? なあ、クラウス。お前がそんなに必死になっている理由を、俺に聞かせてくれないか?

 ゆっくり穏やかな口調で言ってやると、クラウスは息をついてベンチに座りこんだ。

「ひどいですよね、僕」

 クラウスは、両手で体を抱きしめながらうなだれた。

「あなたが具合悪そうなのを見ていたのに」

「そうだな。情け容赦ないな」

 クラウスは、まわりが見えない人間ではない。会ったのはまだほんの数回だけだが、彼の人柄は十分伝わってきた。

 彼がここまで我を忘れ、自分の意思を通そうとするのは、それだけフリードリッヒに対して真剣だということだろう。

「僕は怖いんです」

 クラウスはぼそりと低い声でつぶやいた。

「このまま、何もできないまま、兄が死んでしまうのではないかと思うと」

 雲が太陽にかかり、痩せたクラウスの横顔に黒々と影が落ちかかった。

「僕らには時間がない。あなたの家のドアを叩いた前日、兄が死にかけた。心臓が止まって、息をしていなかった。すぐに意識を取り戻したけれど、今回は運が良かっただけかもしれない。そう思い知らされた。兄もきっと、僕と同じことを思ったのでしょう。目を覚ました兄は、このままじゃ終われないと泣きながら言うんです。僕の手を取って。あなたに会わなきゃいけないって。あなたを連れて来て欲しいって。必死に頼むんです。僕がその頼みを断れるわけがないじゃないですか。他にどうしろと言うんです? だけど、すぐにあなたを呼びに行くことはできなかった。一晩真剣に考えて、どうにか会いに行く決心をした。兄があなたのことをどう思っていようと、もうどうでもいい、とにかく兄の願いを叶えることが最優先だとそう思いきって、子供っぽいこだわりをどうにか押さえつけ、あなたの家のドアを叩いた」

「俺のことを前から知っていたのか?」

「ええ」

 クラウスは暗い目をして、目の前に広がる殺風景な冬の花壇をみつめている。

「行方不明だった兄がみつかって、この病院に入院してから、あなたのことをずっと聞かされていたので。どんな大人になっているのか。元気にしているのか。幸せに暮らしているのか。兄はいつも気にして、楽しそうにいろいろな話をした。そして、自分がどんなにひどい人間なのか罪を告白し、僕に謝るんです。何度も、何度も。僕は、あなたがどんな人なのか気になって、どこにいるのか調べました。一度も会いに行ったことはありませんでしたが」

「……」

「ストーカーみたいで気持ち悪いですね」

 クラウスはしゅんと下を向く。

「まあそのおかげで、俺の居場所をあわてて調べずにすんだな」

 からかう口調で俺は返した。

 俺にも何らかのつてがあれば、同じようなことをしていたかもしれない。

「なあクラウス。あいつが俺の家にいた時、お前はどうしていたんだ? 一人きりで家に残されていたのか?」

 両親はすでに亡く、二人きりの兄弟だと言っていたはずだ。

 クラウスは一瞬目を閉じて、口を開いた。

「心臓の具合が悪くて、病院に入院していました。兄はいつも、学校帰りに見舞いに来てくれた。だけど突然、しばらく住みこみで働くことになったから、毎日は来られないかもしれないと言いに来て、週に一、二度しか会いに来てくれなくなった。淋しかったけれど、僕の入院のせいで、お金が必要なのだろうと思っていた。時々、兄の友達だという女の人が着がえなんかを持ってやって来て、親切にしてくれた。今思えば、シュタージの関係者だったのかもしれない。その間、生活に困ることは何もなかった。ただ、兄がいなくて、不安で、具合が悪かっただけで」

 孤独がどれほどつらいものか、俺はよく知っている。

 フリードリッヒが俺の家にやって来るまで、淋しくて仕方がなかった。

 学校から帰ってくると、まず誰もいない家の鍵を開け、たった一人冷たい食事をして、誰ともしゃべらず、冷たいベッドに入る。目を覚ますと、父が家に帰ってきたらしい気配はあるけれど、姿はもうない。そんな生活だった。

 クラウスが同じような淋しさを抱えている時、俺は何も知らずに生活していた。

たとえそれがいつわりだったとしても、いつもそばにフリードリッヒがいて、毎日が幸せだった。

 結果的に俺は、クラウスが一番つらい時に、クラウスからフリードリッヒを奪っていたんだ。

 クラウスは、俺を憎んでいるのだろうか。

 どんな気持ちで、俺の家のドアを叩いたのだろうか。

「お前、よく西側に行けたな」

 壁を超えるため、何人もが命を落とした。

「僕は運が良かった。もし僕たちにお金があって、東側で手術をしていたら、今まで生きていられなかったかもしれない。祖父以上に心臓病の手術が出来る人はいなかったし、祖父母の手厚い看病のおかげで、僕は死なずにすんだ。きっと兄が、そう出来るように交渉したのだと思います。僕が西側に行けるように。自分の身が危うくなるかもしれないのに。僕の人生は、兄にもらったものなんです。自分の身を削り、苦しみながら血を流し、良心まで売り払って作りだされたもの。今兄が目の前で、身も心もボロボロになり、死にかけているのもみんな僕のせい。兄が抱いている苦しみも、取り返しのつかない重い罪も、兄のもので僕のものだ。僕が背負うべき重荷。兄が癒されなければ僕も癒されない。たとえ兄が死んだとしても、僕の中でいつまでも生き続けていく」

 その冷たさに、たった一人で耐えていくのだろうか。フリードリッヒを救えなかった、後悔にまみれながら。

 クラウスは、底も見えない穴の渕にたたずみ怯えている。

「だから僕は、兄が生きているうちに願いを叶えたい。少しでもほっとしてもらいたい。そのくらいのことしか僕にはできないから。僕が兄に命をもらったように、ずっと昔に失くしてしまった兄の輝かしい人生を手渡すことはできないから。兄のために出来ることは、何でもやりたい。たとえ強引すぎるやり方でも。だから僕は……」

「わかったよ」

 俺は立ちあがり、クラウスの目の前に立った。

「また気持ち悪くなったら、今度はフリードリッヒの上に吐いてやる」

 俺の目線より低い場所にある、彼の深い緑色の瞳を見おろす。

 澄んだ涙がレンズのように両目全体を覆っている。

「ハイネスさん?」

 いぶかしげな表情を浮かべゆっくり瞬きをすると、長いまつげにはじかれ、小さな滴となって飛び散った。

 俺は彼の握りしめられた両手を掴み、力を入れて引きあげた。

「フリードリッヒの病室に連れて行けよ。道順なんて、まるで覚えていないからな」

 クラウスは瞳に涙をためたまま、僕の顔を見あげる。

「いいんですか?」

「よくなくてもこのまま返しちゃくれないんだろう?」

 そんな義理、ありはしないのに。約束など破棄して、思いっきり裏切ってしまえばいいのに。

 どうして俺は、こいつと一緒に死ぬほど気の進まない場所に行こうとしているのだろう。

「お前が情けなさすぎるのが悪いんだ」

 ぼそりとつぶやくと、クラウスは何です? と聞き返してきた。

「十九歳の大の男が、人前であんなに大泣きするか?」

 別れ話を切り出された、めそめそ泣く女より始末が悪い。

 クラウスはかっと顔を赤らめ、手の平で乱暴に涙をぬぐった。

「何歳になろうが、男だろうが、女だろうが関係なく、泣く時は泣くんです」

 僕はそう言い置いて、建物に向かって歩き出した。


クラウスにすっかりほだされてしまったヴァルターです。

根はいい奴だから(あんなひどいことしているけれど)

こっちもヴァルターに対する嫉妬が原動力か!

仕方がない人たちです。

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