動揺
どんな顔をして会えばいいのだろう。いつも通りに自然に振舞えばいいんだと頭の中では判っている。しかし、筋肉が強張って、どうしてもぎこちない表情になってしまう。鏡を覗き込んでいるうちに、自分が普段、どんな顔をしているのかさえ判らなくなってきた。
入り口のドアが鳴ったので応対に出ると、クラウスが奥歯を噛み締めて立っていた。あまりに顔色が悪いので、中に入って休むようすすめたが、彼は首を横に振るだけで、頑なに拒否した。この前無理矢理抱かれたことを思い出して、中に入るのが恐ろしいのだろう。俺のことを警戒しているのかもしれない。
「出かける準備がまだできてないんだけど」
くだらないことを考え込んでいるうちに、すっかり時間が経っていた。さすがにパジャマで出かけるわけにも行かない。
「下で待っています」
クラウスは短く言い置いて、階段を下りていった。
俺は手早く身支度を整え階下に向かった。アパートの入り口前の階段に、クラウスは腰かけて待っていた。声をかけると立ちあがった。
アッシュグレーのズボンにメイプルシュガー色のざっくりとしたセーターを合わせている。Vネックの襟元から、水色のオックスフォードシャツが覗いてさわやかだ。これといって目を引く組み合わせではないが、飾らない品のよさがにじみ出ていた。
連れてこられたのは、ベルリン郊外にある病院だった。建物を閉じ込めるように、深い木立が周りを取り囲んでいる。木立の奥に池か何かあるようだ。波打つ水面の影が、日の光に照らし出されて反射しているのが見えた。
「今日あなたをここに連れてくることは、兄にはまだ言ってないんです。予定が変わってがっかりさせたくなかったから」
はっきり言ってしまえば俺の気が変わらないか心配していたってことか。
「兄さん思いで何よりだな。あっちが俺に会いたくないって言った場合の俺へのフォローはどうなってるんだ?」
「そんな必要あるんですか? あなたはどんな目にあってもふてぶてしく生きていける」
「言うじゃないか」
俺はにやりとして見せた。
「だからって俺の神経は、鉄板でできてるわけじゃないんだぜ」
できればこのまま背中を向けて帰りたい。クラウスとの約束がなければ、そもそもここに来ることはなかった。
鼓動が早鐘のように脈打っていた。握りしめた手のひらに、嫌な汗が湧いてくる。会う前からこんな始末だ。まったく意気地がない。
クラウスは受付で手続きをして、俺を手招いた。
「こっち」
先に立って歩き出す。
別棟に向かって、延々と廊下が続いていた。どうして病院はどこも白っぽいのだろう。取り付けられた蛍光灯のせいだろうか。リノリウムの床が艶々している。床の片側に手すりがつけられているのがいかにも病院らしい風景だった。
「フリードリッヒはどこが悪いんだ?」
クラウスからは入院していると聞いただけだ。
クラウスは即答せず、表情を曇らせた。
「一口では言えません」
そう言って口を閉じたが説明になってないと思い直したようで、再び口を開いた。
「体中ボロボロなんです。薬を飲んで」
クラウスは顔を上げたまま、無表情に何もない空間をみつめた。
「僕が誰かもわからないんだ」
その言葉に驚いたが、あえて表には出さなかった。動揺する必要がどこにある?
「そんな状態で、わざわざ俺が会いに行く必要があるのか?」
急に足が重くなってきた。君は誰だ? なんてうつろに尋ねられるのか? 考えただけで気が滅入る。
「試して欲しいんです。兄さんがあなたを見分けられるのか」
その時クラウスが向けたのは、敵意さえ感じる冷たい視線だった。こいつもこんな目をするのだと、思いがけない一面に内心驚く。
ナースステーションの前を通り抜けると、病室が廊下の片側に、等間隔で並んでいた。
「ここです」
七つ目くらいのドアの前で、クラウスが足を止めた。
「ちょっと待っていてください。兄さんの様子を見てきますから」
帰れって追い払われたりしてな。
小さな子供のように不安だった。誰もいない廊下にたった一人残されると、不安がさらに増した。その場のささくれ立つような尖った空気に絶えられず、歩いて来た方に向かって足を踏み出しかけた。その瞬間、病室のドアが開いた。
「ハイネスさん」
クラウスがドアの影から半身を覗かせた。
「入って」
ドアの向こうに父と俺を裏切ったあいつがいる。
どくんと心臓が大きな音をたててはねた。
誰かが体の内側から力任せに殴りつけている。立て続けに、何度も何度も。
粘着性の強い汗が、あごから滴になって落ち、床を濡らした。
「ハイネスさん?」
あわててクラウスが病室から出て来て俺のとなりに膝をつくと、心配そうに顔を覗きこんできた。
気持ち悪い。
胃の中のものがせり上がってくる。
俺はどうにか立ち上がって、よろめきながら手洗いに向かった。
体中でフリードリッヒに会うことを拒否しまくっているヴァルターです。
結構気が小さい?
クラウスに醜態さらしまくっています。




