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神様には救えない事例  作者: 相良胡春
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来訪

 目を覚ますとクラウスの姿はなかった。ひどい目に合わされて逃げ帰ったのだろう。このことをフリードリッヒに話すだろうか。

 テーブルの上には、食べかけの惣菜がそのまま残っている。手をのばしてワインの瓶を掴み寄せ、直接口をつけて飲んだ。

 クラウスは戻ってくるだろうか。

 まだ手の中に柔らかな感触が残っている。身をよじり眉間に深くしわを寄せて抵抗し続ける彼を、もっと泣かせてやりたくなった。

最後は精根尽き果てて息をする力も残ってないのではと思うほど、死んだように横たわっていた。

 途中で行き倒れてないといいけどな。

 どこまでも白い彼の体に残る、手術の跡を思い出した。

 立ちあがって窓に歩き寄った。外に目をやったが見えるのは深い闇だけだった。       

電話しようにも番号を知らないことに気がついた。もともと縁がなかったのだ。何もなかったと思えばいい。


「どうした? ぼんやりしちゃってさ」

 ハンスに肩を叩かれて、俺は正気に戻った。

「そんなにクラウスはよかったか? 当然やったよな。あの後」

 あえて返事はしない。

「へたくそすぎて振られたか?」

 口の重い俺に、わざと憎まれ口をたたく。

「それなら俺に回してくれよ。あんないい子そうそういないぜ。電話するから番号教えろ」

「知るか。そんなもの」

「じゃあどこに住んでるんだ?」

「ドイツのどこかだろう?」

「俺に何も教えないつもりか!」

 ハンスは不満そうに頬を膨らます。

「本当に知らないんだ。お前こそ昨日聞き出さなかったのか?」

「俺はさ。最後までやって気に入った相手にしか聞かないんだ」

 遊び人め。絶対その日に落とせる自信満々だ。

「まあ、例外もあるけどね。彼の場合は俺がうかつすぎた。前言撤回で横からさらっていく奴がいたから」

「悪かったよ」

 気がついたら彼の手を掴んで連れ出していた。

「本当に知らないのか?」

「知らない。目を覚ました時はいなかった」

「あっ。やっぱりやったんだ。こいつ」

 恨めしさと羨ましさがにじみ出ている。

「もう二度と来ないだろう」

 こうなることは始めから判っていた。憎むことしかできない相手だ。あいつもさすがにこりただろう。そう考えていると、店のドアにつけられた鈴が来客を告げた。

「落ち込むなって。あきらめるのは早いみたいだぞ」

 ハンスは入り口に向かって、立てた親指を振って見せる。そちらに背中を向けていた俺は振り返った。

 クラウスが立っていた。店の中をざっと見まわし俺の姿を見つけると、強張った顔でみつめてきた。

「行けよ」

 ハンスがぽんと背中を押す。

 店の一番奥にあるテーブルに案内し、椅子に座らせた。

「ちゃんと帰れたか?」

 ええまあと、クラウスはそっけなく頷く。顔色が悪い。今にも倒れそうに見えた。

「それで?」

 クラウスにカウンターから持ってきたメニューを差し出した。ハンスのように、仕事をしているふりをしながら雑談するテクニックはない。なんらかの小道具がいる。クラウスはすぐに察して、両手でメニューを広げた。端からは注文に悩んでいるように見えるが、視線はまるで文字を追っていない。

「都合のいい日を聞きに来ました。約束を果たしてください」

 クラウスはすでに報酬を払った。想像していたよりも手痛い行為で。彼は何ごともなかったように取り澄ましている。昨晩身もだえながら許しをこうた同じ人間とは思えない。必死に自分の形を保とうとしているクラウスの横顔を見ていたら、邪魔をしてやりたくなった。

 クラウスの右手に軽く触れた。彼はびくりとして声をあげそうになった。寸前で自分がどこにいるかを思い出して口を押さえた。メニューが乾いた音をたててテーブルの上に倒れる。

 俺を騙せると思うからだ。

 クラウスの反応に気をよくする。手を離した後も、俺が触った右手が小刻みに震えていた。

「明後日が店休日だ」

 お前の尊い犠牲を認めてやるよ。

 クラウスは視線を落とし、震える右手を見つめている。俺はメニューを取り上げて、カウンターに向かった。

「ホットミルク入れてくれる?」

 バリスタのロタールが、実に嫌そうな視線を向けてきた。

「俺はコーヒーを入れるためにここにいるんだぜ」

 バリスタの俺にそんなものを入れさせる気かと、自尊心を傷つけられたようだ。岩みたいなごっつい顔をしてどれだけやわな神経だ。

「頼むよ。メニューにないのは判ってるんだけど、ほんのお子様なんだ」

 俺は奥の席に座っているクラウスをちらりと見た。ロタールもつられてそちらを見る。

 クラウスはまだ、じっとうつむいていた。

「な。コーヒーというよりミルクと蜂蜜が必要そうだろう?」

 ロタールは渋い顔のままだったが、カフェオレ用のミルクを鍋に注いだ。とっつきにくい男だが、涙もろくて人情家な面がある。

 ホットミルクにビスケットをそえて、クラウスのテーブルに戻った。

「飲めよ。俺のおごりだ」

 目の前に突然現れたカップに驚いて、クラウスは顔を上げた。

「何も食ってないんだろう?」

 クラウスはカップを両手で包み込むようにして持ち上げ、息をかけて十分冷ましてから、おそるおそる一口飲んだ。

「甘い」

 その事実を確認するように呟く。

「蜂蜜が入ってるんだ」

 クラウスは頷いてカップを傾けた。

「すみません」

 取り乱してしまったと反省しているのだろうか。何に対する謝罪なのか俺は取りかねた。胃の中が温かくなって、ようやく気持ちが落ち着いてきたようだ。

「あの」

 何か言いたげに顔を上げたが、目線が合うと気持ちが萎えてしまったらしく、動きかけた唇を止めた。

「ごちそうさまでした。明後日の朝、アパートに迎えに行きます」

 クラウスは、カップをソーサーの上に戻して立ちあがった。明後日は、偶然にもフリードリッヒの誕生日だった。そんなことをふいに思い出した自分が腹ただしかった。自分の弱い部分をあからさまにするようで、未だに覚えていることを知られるのが恥ずかしく思えた。

 クラウスは店を出て行った。消化しきれない重い気持ちを残したまま。


クラウス朝帰りしちゃった。

一緒に住んでいるおじい様とおばあ様がさぞかし心配されたでしょう。(今までそんなことなさそうだし)

ヴァルターに横からかっさらわれたと主張するハンスですが、仕事終わりまでクラウスが粘るだろうという確信があったんでしょうね。

そうじゃなければもっと早めに手を打っていたはずだ! 

普通途中で帰っちゃうって。と、また一人ツッコみです。

書いている途中ではまるで違和感なかったのに、冷静になって読み返してみると、 ? と思うところが結構ある。

でも、強引に進めちゃうわけです。

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