知らせ
カフェ緑の指の閉店時間は午前一時だ。それから掃除や後片付けをするので、アパートにたどり着くのはたいてい二時過ぎだった。
屋根裏部屋に続く階段は下の階の階段とは別に作られているので、、同じアパートに住んでいる他の住人と顔をあわせることはない。真っ暗で狭い階段を上って部屋の前に視線を向けると、影の塊がドアの前に居座っている。なんだ? と訝りながら近づいていくと、どうやら膝を抱えて座っている人らしいことがわかった。わざわざ俺のアパートなんかにやって来る人間は限られている。誰なのか顔が見えなくても予想がついた。
「クラウス」
肩らしき場所を掴んで揺さぶった。彼は膝の上から顔をあげたようだ。
「とにかく中に入れよ」
こう暗くては何も見えやしない。
ドアの鍵を開けて、彼の肩を抱くようにしながら中に招き入れた。何がとははっきり言えないが、重苦しい違和感がある。
「何かあったのか?」
椅子に座らせ改めて問いかけた。
やはり様子がおかしい。泣きはらした真っ赤な目とむくんだ顔。痩せた頬には血の気がない。この寒さの中、コートどころか上着さえ着ていなかった。靴は履いているものの、片方の靴紐は解けたままで、反対側は縦結びになっている。そのうえシャツのボタンが三段目からかけ違っていた。普段のクラウスの身だしなみがいい分、異様さが目立つ。
「兄さんが……」
クラウスはそれ以上言葉を続けることができなかった。みるみる顔がゆがんでいって、堪えきらずに俺の胸に抱きついてきた。
「フリードリッヒがどうしたんだ?」
背中をなでて落ち着かせながら辛抱強く聞いてやると、彼はかすかに顔を上げた。そのまま話し出そうとしたがすぐに口が重くなり、どうにか唇を動かそうと何度も深呼吸を繰り返した。
「凍死したんです。全身びしょ濡れのまま湖のほとりで一夜を明かしたらしくって」
言葉の塊がようやく押し出され、彼は泣き崩れた。
「どういうことだ?」
倒れこみそうになるクラウスの肩を掴んで、激しく揺さぶった。
「凍死っていったいどういうことだよ!」
全身の血液が、脳に向かって流れこんだ。
フリードリッヒが死んだって?
言葉の意味は判っていた。ただ、現実として受け入れ難かった。
「何とか言えよ! クラウス」
クラウスは息を詰め、しゃくりあげるのをとめようとしていた。
「冗談だって言ってくれ」
そう願った。でも、陰鬱な彼の表情は変わらなかった。
「葬儀に来てください。よかったら……」
遠慮がちな声で彼は言った。
「日時が決まり次第連絡します。今までいろいろとありがとうございました」
改まった態度で頭を下げ、部屋から出て行った。階段をおりていく足音が聞こえなくなった頃、俺は正気を取り戻した。
そういえば上着も着てなかった。靴紐も解けたままだった。
思い出して慌てて階段を駆け下りていき、一階の出入り口から外に飛び出すと、彼がそこにいた。
「クラウス」
はっとした小さな影が足を止めた。いったん降り止んでいた雪が、またちらちらと降り出していた。
「寒いだろう?」
俺は着ていたコートを脱いで、クラウスの肩に着せかけた。腰をかがめて解けた靴紐を勘だけを頼りに結んでやる。
「うちに泊まっていかないか? 明るくなってから帰ればいい」
クラウスは戸惑った様子でたたずんでいた。答えを待たず、俺は彼の手を取った。
「来てくれ」
一人じゃこの夜を乗り越えられない。
もたれかかるようにクラウスを抱きしめて唇を重ねる。触れるだけの短いキス。彼の唇は冷えきっていた。
俺は唇を離して目を閉じた。逃げないでくれと心の中で念じながら。フリードリッヒが死んだ今、彼に俺と抱き合う理由はないんだ。そう思い出した。両腕でクラウスの体を抱きしめているのに、目を開けたらかすみのように消え去っているような気がして、恐る恐るまぶたを開いた。
クラウスはそこにいた。逃げ出しも消え去りもせずに。
彼の手を引いて階段を上った。
部屋について手を離しても、彼は逃げようとしなかった。
深くキスをして、ベッドで抱き合った。慣れない痛みや戸惑いに、クラウスは眉を寄せたり唇を噛み締めたりを繰り返していたが、俺を受け入れることを拒もうとはしなかった。お互いの胸の中にあるどうしようもない喪失感を、抱きしめあうことでどうにか埋めあおうとしていた。自分を哀れみ、同じ悲しみを持っている彼をもまた哀れんでいた。どうにかまともに息をつくために、お互いの体を必要としていた。
熱を帯びて潤んだクラウスの目が、助けを求めるように俺を見上げていた。きっと俺も、同じような目をしているだろう。クラウスの体の奥底で温かな粘膜に包みこまれていると、気持ちが楽になってきて、心が満たされていくのを感じた。
「ヴァルター」
クラウスの小さな唇が俺の名を呼ぶ。俺の動きに身をよじり、声を上げる彼が、愛しくて仕方がなかった。
この腕を離したくなかった。さらに強く、クラウスを抱きしめた。
「あっ」
つながりがさらに深く押し進み、クラウスはたまらず俺の肩に縋りついた。俺を飲み込んでいる繊細なひだがぎゅっと縮まり、彼が感じていることがわかった。欲望に目の前が暗くなる。
「クラウス」
大きくえぐるようにして彼を突き上げた。律動の速度を速める。抱きしめるクラウスの背に、汗がにじんでいる。彼は悲鳴のようなか細い声をあげ、身を震わせた。白濁が飛び散り、下腹部に温かさが広がる。俺も同時に達していた。二人で弛緩しあってベッドの上に体重を預けた。クラウスの甘やかな息づかいが耳の側で続いている。
朝目を覚ますと、クラウスが俺の胸に縋るように身を寄せて眠っていた。静かな呼吸だ。長いまつげの影が、とじられたまぶたの縁に落ちかかっている。ふっくらとした小さな唇は軽く閉じられ、あどけない感じだ。こうやって見ても、同い年の男とはとても思えない。そっと指をのばして、柔らかな彼の栗色の髪に触れた。
「ん…」
クラウスは吐息をついて身じろぎし、ゆっくりとまぶたを開いた。
「おはよう。クラウス」
寝ぼけ眼のクラウスに呟く。彼と抱き合ったのは初めてではないのに、やけに照れくさかった。
「おはよう、ございます」
クラウスも同じ気持ちらしい、毛布を引き寄せて顔を赤らめている。
目をあわせられずにいると、ふいに彼が、ごめんなさいと謝った。
「何?」
どうしてそこで、彼が謝罪の言葉を口にするのかわからなかった。
「同情してくれたんでしょう? 僕があんまり情けないから。兄さんのことで気が動転してしまって。あの……。いいんです。こんなに優しくしてもらえる立場じゃないことはわかってるんです。あなたにとってはいい迷惑だ。勝手に押しかけてきて。仕事帰りで疲れてたのに。一人でいられなくて……帰ります。これ以上、あなたのじゃまはしません」
そう言って、彼はベッドを降りようとする。俺は彼の肩に手を置いて止めた。
「シャワーは先に使うぞ。しばらく出さないとお湯が出ないんだ」
クラウスはけげんそうに俺を見た。
「そんなのお互いさまだろう?」
わかったな、とクラウスの頭をなでた。
「俺が出てくるまで帰ったりするなよ。約束だからな」
クラウスはこっくり頷いた。
出始めのお湯は予想通りに冷たかった。手早く体を洗って浴室から出ると、クラウスは床の上に投げ出されていた服を拾い集めてきちんと着込んでいた。どうせシャワーを浴びるためにすぐ脱ぐのに生真面目な奴だ。クラウスのそういうところは嫌いじゃない。
シャワーを浴び終えたクラウスと朝食を取った。熱々のコーヒーと黒パン。林檎とチーズとハム。買い置きをしていなかったのでたいしたものはできなかった。葬儀の打ち合わせがあるからと、クラウスはすぐ帰っていった。もう何度もそうやって、彼と過ごしているような錯覚を起こした。
シャワーをどちらが先に使うかで悩みました。
どうでもいいことなのですが。
一緒に入る? って選択もありかと検討してみましたが、結局あのような結果に。
お湯が出るようになるまで水を出して、クラウスを先に入らせるって手もあったなとあとで気がつきました。




